王武(ワン・ム)は高麗の2代国王・恵宗。
初代国王・太祖(王建)の長男です。
太祖王建は遅くに産まれた初めての息子を大変愛していました。後継者にしようと考えるほどでした。
ワン・ム自身は豪快で心の広い人だったと言われます。戦場でも手柄を立て、王の後継者として申し分のない人物でした。
しかし母の実家には力がありません。ワン・ムの兄弟には母の実家の力を武器に王位を狙うものもいました。
なんとか王になったものの安定した王座ではなく、王になってわずか3年弱でこの世を去りました。
史実の王武(ワン・ム)はどんな人物だったのか紹介します。
王武(ワン・ム)の史実
いつの時代の人?
生年月日:912年
没年月日:945年10月23日
名前:王武(ワン・ム、おうぶ)
称号:恵宗(ヒェジョン、けいそう)
父:太祖(王健)
母:莊和王后呉氏
妃:
義和王后 林氏
側室:
後広州院夫人 王氏
清州院夫人 金氏
宮人哀伊主
子供
長男:興化君(母:義和王后 )
次男:太子 王済(母:宮人哀伊主)
長女:長女:慶和宮夫人(母:義和王后 )
次女:次女:貞憲公主(母:義和王后 )
三女:明恵夫人(母:宮人哀伊主)
高麗王朝、2代国王です。
日本では平安時代になります。
おいたち
父は高麗王朝の初代国王・太祖王建(ワン・ゴン)。
母は羅州の豪族、呉氏の出身。祖先は西暦500年ごろ、新羅の時代に中国からやってきました。
912年。ワン・ムは王建の最初の子供として産まれました。王建が35歳のときに産まれた子供で、当時としては年をとってからの子でした。そのため王建は大変喜んだといいます。
918年。王建が高麗建国。
太祖王建はワン・ムを後継者にしようと考えました。しかし、母・莊和王后の出身地は羅州。家柄も高くありません。高麗で力を持っていたのは開京の豪族です。豪族たちの反発が予想されました。そこで莊和王后は古くから仕える側近の朴述熙(パク・スルフイ)に相談しました。
王建の意思を知った朴述熙(パク・スルフイ)は、豪族たちを説得してワン・ムを皇太子にしました。
921年。皇太子になりました。
皇太子になったワン・ムは後百済との戦に参戦。手柄を立てました。実家の力が弱いワン・ムは、自らの働きで王にふさわしい人物として認めてもらう必要がありました。
恵宗即位
943年。太祖王建が死亡。ワン・ムが即位しました。
異母弟のワン・ヨ(王堯)とワン・ソ(王昭)が王位を狙っていました。彼らの母は忠州の豪族・劉兢達(ユ・グンダル)の娘。劉一族は婚姻を重ね多くの豪族と味方にしていました。呉一族では太刀打ちできない大勢力でした。
944年。晋国に使者を送り王が交代したことを報告しました。
弟が不穏な動き
重臣のワン・ギュはワン・ヨとワン・ソが王位を狙っていることに気づきました。それを恵宗に報告しました。恵宗はワン・ヨたちを罰しようとしません。それどころか自分の娘・慶和宮夫人をワン・ソの側室にしました。ワン・ソが恵宗の味方になってくれるのを期待したのだといわれます。
信頼できる側近が流刑
945年。パク・スルフイは謀反人の濡れ衣を着せられてしまいます。パク・スルフイは江華島に島流しになってしまいました。後にワン・ユと彼に味方する西京の豪族のはなった刺客によって暗殺されまました。
パク・スルフイは、権力の弱い恵宗を守ろうとしていました。しかし、戦には強いものの策略は苦手でした。王位を狙うワンヨと西京の豪族たちによって陥れられたのでした。
945年。恵宗はなくなりました。享年33歳。
病死だと言われますが、暗殺されたのではないかとも言われます。
恵宗の死後、ワン・ギュはワン・ヨ達によって捕まり処刑されました。ワン・ギュも謀反を企んでいたとして処刑になりました。
高麗史ではワン・ギュには野心があり、娘の産んだ第15王子廣州院君を王にしようとしたと書かれています。しかし謀反の話はワン・ヨたちのでっちあげだとする研究者もいます。
王位争いの混乱の中で若くして亡くなる
恵宗は人物としては王にふさわしくても、支持する勢力が弱かったのが弱点でした。ワン・ヨたち王位を狙う勢力や、恵宗を支持する勢力の中にもワン・ギュのように自分たちの思い通りの政治をしようとする者がいました。弱い立場のまま王になった恵宗は志半ばで倒れてしまいます。死因についても不明なままです。王位争いの犠牲になった可能性もありますね。
テレビドラマ
太祖王健 KBS 2000年 演:アン・ジョンフン、ソヒョンソク
帝国の朝 KBS、2002年 演:ノ・ヨウングク
輝くか狂うか MBC 2015年 演:ハ・デロ
麗・花萌ゆる8人の皇子たち 2016年 SBS 演:キム・サンホ
”麗・花萌ゆる8人の皇子たち”では”いいひと系王子”ですが、重臣たちに王位継承を反対されているという設定。
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