「聖君(せいくん)」とは儒教の価値観で理想とされた君主のことです。朝鮮王朝500年の歴史の中でも「聖君」といえる王は多くありません。特に世宗大王、成宗、正祖は当時の人々からも後世の人々からも「聖君」として高く評価されています。
この記事では韓国ドラマでよく出てくる「聖君」とはどんな王なのかわかりやすく解説。朝鮮王朝の歴代国王の中から特に「聖君」とされる王をランキング形式で紹介します。
これを知ると韓国ドラマで王や臣下が言う「聖君」の本当の意味が分かると思いますよ。
朝鮮聖君ランキング表
朝鮮王朝の歴代王の中で、民を思いやり、文化を振興し、秩序ある統治を行った理想の君主は「聖君」として評価されます。この記事では特に評価の高い聖君TOP3を紹介します。
順位 | 王 | 在位 | 主な功績 |
---|---|---|---|
1位 | 世宗(セジョン) | 1418~1450年 | 北方辺境に四郡六鎮を設置、国境を整備。官僚制度・法典を整備。ハングル創製で民を啓蒙。 |
2位 | 成宗(ソンジョン) | 1469~1494年 | 仁政・民政改革を推進。賢臣を登用し礼法や祭祀を整備。 |
3位 | 正祖(チョンジョ) | 1776~1800年 | 民を思いやり税制改革。文化・教育を振興。諫言を受け入れ理想統治。 |
それでは次に個々の王についてなぜ聖君にふさわしいのか紹介します。
朝鮮聖君ランキング ベスト3
第1位 世宗(セジョン):朝鮮史上最高の聖君
- 第4代国王
- 名前:李裪(イ・ド)
- 在位:1418~1450年
世宗の「聖君」としての功績
内政
- 組織・制度を改革:それまでは王が大きな権限を持っていましたが、議政府署事制を採用。王の負担を減らし大臣(領議政・右議政・左議政と六曹)たちが話し合いで政策を決定する仕組みを作りました。以後、このスタイルが朝鮮の政治の基本になります。
- 仁政を行う:飢饉や疫病の際には減税や食糧支援を頻繁に行い、厳寒期や農繁期には過酷な刑罰を控えるなど、民を思いやる政治を行いました。
- 人材登用:集賢殿を中心に学者・技術者を幅広く採用。張英實(チャン・ヨンシル)のような技術者を身分にとらわれず採用。
- 儀式の整備:宗廟祭礼や朝鮮独自の音楽・宗廟祭礼楽を整え、朝廷内の様々な儀式を儒教式に統一。
- 集賢殿の設置:宮中に学問研究所として集賢殿を設置、若手学者や官僚を登用しました。ここは王の政策諮問機関として機能して文化と学問の振興に貢献しました。
民生
- 農業技術の発展:各地の農法をまとめた『農事直説』を編纂・普及させて作物の栽培や灌漑方法の広めました。
- 医療の拡充:朝鮮半島の薬草をまとめた『郷薬集成方』や医療知識を集めた『医方類聚』を編纂。恵民署・内医院のレベルを底上げしました。
- 公平な税制と物価安定:土地の測量によって公平な課税を目指し、食糧貯蔵庫を整備して飢饉に備えました。
技術の発展
- 観測・計時・測量の国産化:張英實らによって日時計・水時計・雨量計・渾天儀を製作。天文観測と農業の発展に役立てました。
軍事と外交
- 四郡六鎮の設置
長い間、国境を脅かしていた女真族を討伐して領土を広げ。鴨緑江と豆満江流域に四郡六鎮を設置して朝鮮の北の国境を決めました。これは現在まで続く朝鮮と中国の国境となっています。
現代的名君評価の功績(補足)
- 訓民正音(ハングル)創製
民を教え導く手段のひとつとして、民衆が学びやすい文字を作りました。現代では世宗最大の功績とされるハングルですが。漢字だけが正当な文字と考える両班や儒学者は身分秩序や学問の権威を損なうと見されたため反対。公式文書には採用されず、民への普及も一部に限られていました。そのため朝鮮時代はハングル創製は聖君の功績としては重要視されていませんでした。
留意点・課題
- 奴婢従母法:それまで父が良人なら母が奴婢でも良人となれましたが、母が奴婢なら父の身分に関係なく奴婢としました。これは両班の財産といえる奴婢を持続して生み出す仕組みです。
- 仏教弾圧:仏教界も腐敗が進んでいたとはいえ、過剰な仏教弾圧により宗派が激減。街から寺が消滅し山に残るだけとなりました。
- 事大主義:貢女の数が歴代王で最大となり、朝鮮古来の儀式を中国式に変えるなど中国への従属を強める事大主義が進行。世宗自身は民族主義的な傾向が強いのですが、世宗であっても大国の意思(と同調する国内の勢力)はどうにもならない部分がありました。
聖君的評価ポイント
世宗は民の生活向上を第一に考えた政治を行いました。ハングルの創製や技術の発展もその実現のための手段です。臣下からは反発を招くこともありましたが、それらの知識や技術を使うことで儒教の徳「仁・義・礼・智・信」を世の中に広め、国民の生活を安定させようとしました。世宗の政治は後世の王たちの理想像となります。朝鮮王朝史上、最も偉大な聖君とされます。
第2位 成宗(ソンジョン):朝鮮を完成させた王
- 第9代国王
- 名前:李娎(イ・ヒョル)
- 在位:1469~1494年
成宗の「聖君」としての功績
法治の完成:『経国大典』の制定
- 国家基本法の集大成: 前代から続く法令の整備を行い官僚制度、刑法、税制、儀礼などを網羅した基本法典『経国大典』を1485年に完成させました。
- 行政の公平性:この法典が運用されて全国で統一された基準で統治が可能になりました。
内政
- 経筵政治:日常的に王が臣下たちと議論を行い、王の判断をチェックするしくみを強化しました。王をチェックするのは儒学者たちで儒教に基づいた政治が求められます。
- 三司(司憲府・司諫院・弘文館)の役割強化:三司の独立性を尊重。王の独断を防ぐために諫言、弾劾を奨励しました。
- 歴史書の編纂:朝鮮の歴史をまとめた官撰史書『東国通鑑』を完成。 全国の地理、産業、伝承などを網羅した『東国輿地勝覧』を編纂。歴史や地方行政、軍事の基礎データをまとめました。
- 学術機関の強化:弘文館を王を支えるアドバイザーとして強化、学問と政治を一体化させました。
人材登用と教育改革
- 士林派の起用:勲臣派に対抗するため儒学の学識と徳性を重視する士林派を積極的に採用。政治の風紀刷新を図りました。
- 教育システムの安定化:高学府の成均館や地方の郷校の運営を見直し、科挙を通して有能な人材を安定して採用できる体制を整えました。
民生
- 税制の公平化: 戸籍や田畑の測量を厳格に行い税負担の公平性を高めました。
- 救済制度の整備: 凶作時の税の免除や、食糧の貯蔵庫の運用を改善し、民の生活を支援しました。
留意点・課題
- 党派争いの激化:成宗が大量に採用した士林派は後に党派争いを繰り返し政治の停滞を招く原因となります。
- 行き過ぎた弾劾:三司を強化しすぎたために後の時代には無意味な弾劾が乱発、政治を混乱させることもありました。
- 女性の再婚の規制:儒教的価値観を強化したため社会への規制も進み、未亡人の再婚が制限されました。ただし当時の儒教的価値観の強い両班層からは秩序と風紀の確立として高い評価を受けていました。
まとめ
成宗の功績は世宗や先代の世宗が行った政治を土台にさらに発展。具体的な法や制度として定着させたことで「聖君」と評価されています。そのため国を完成させた王「成宗」と呼ばれます。また諫言を受け入れることで王権の暴走を抑制しようとしました。
第3位 正祖(チョンジョ):朝鮮の改革を夢見た王

朝鮮 正祖
- 第22代国王
- 名前:李祘(イ・サン)
- 在位:1776~1800年
正祖の「聖君」としての功績
内政
- 水原華城の建設:父の墓を守るための城として水原華城を築城。西洋の技術を用いた城郭。滑車装置などの最新技術が導入されました。
- 公正な人材登用:身分を問わず、学識と才能のある人物を王直属の学問研究機関である奎章閣に登用しました。
- 奎章閣の創設:王直属の政策研究機関として奎章閣を設立、学者の研究を直接政治に反映させるシステムを作りました。
- 実学者の活用: 土木、農政、軍事などの改革に実学を重視する鄭若鏞(チョン・ヤギョン)を積極的に採用しました。
民生と経済
- 商業の自由化:辛亥通共を実施して特定の商人による市場の独占を廃止。庶民の商業活動が自由に行えるようになりました。
- 税制の是正:地方官による不当な税の徴収を抑え、租税の公平性を高めました。
- 救済制度の改善:飢饉が発生した際には米を放出し、民の生活安定に努めました。
軍制改革と王権の安定
- 王直属軍の創設:王直属の精鋭部隊である壮勇営を設置。党派に左右されない強い王権の基盤を確立しました。
- 能力主義の導入:軍人の登用にも実力主義を徹底しました。
留意点・課題
- 正祖は派閥争いを完全になくすことはできず、彼の死後に多くの改革が廃止、後退に追い込まれました。
- 奎章閣や華城は「王の個人的な思い」と結びついていた面が強く、王の死後は受け継がれませんでした。
- 実学者の採用は成果を出したものの、正祖没後には弾圧され改革は続きませんでした。
まとめ
正祖は父・思悼世子の名誉回復に生涯をささげました。それだけでなく役に立つ学問「実学」を政治の柱として学問を直接人々の生活に役立てるため様々な改革を行いました。そうした点が後期の朝鮮王朝を代表する「聖君」と評価される理由です。
聖君になれなかった朝鮮王たち
朝鮮には功績のあった王、優れた王は他にもいます。でも今回の聖君ランキングからは外しました。優れた王なのになぜ聖君とはいえないのか紹介します。
英祖(ヨンジョ):名君だが聖君とはいえない王

朝鮮 英祖 肖像画
- 第21代国王
- 名前:李昑(イ・グム)
- 在位:1724-1776年
内政
- 蕩平策を掲げ、党争派閥を均衡させ「公正な人材登用」を行いました。
-
不正取り締まりの強化:役人の汚職の摘発を進めました。
民生
- 均役法:軍役を銀納一本化して身分による税負担を軽減しました。
- 租税・賦役の整理:税率を統一・冗税の廃止で労役の負担を減らしました。
- 米価・物価安定策:常平倉・義倉を整備して凶作時に米を放出し民を救済しました。
なぜ聖君といえないのか?
実績では十分といえる英祖ですが。最大の汚点は「思悼世子事件」です。息子を米櫃に閉じて死に至らしめてしまいました。本当の「孝」では至らない息子であっても導くのが親の立場です。思悼世子だけでなく、英祖は他人に対して厳しすぎる面もありました。厳しいだけでは聖君とは言えません。
文宗(ムンジョン):短すぎた在位期間
- 第5代国王
- 名前:李珦(イ・ヒャン)
- 在位:1450~1452年
文宗は世宗の資質を受け継いだ王と言われたものの、在位期間が2年と短く自身の改革や大規模な功績はほとんどありませんでした。1442年から摂政となる準備が始まり、1445年から摂政政治が始まりました。世宗の晩年は文宗が政治を行っていたので統治者としての期間は意外と長いです。文宗の成果が世宗にカウントされてしまっている部分もあります。
もっと長く在位していれば世宗が目指した朝鮮をさらに発展できた可能性はあります。
朝鮮における「聖君」の意味
聖君とは儒教でいう理想の君主のこと
韓国ドラマでよく耳にする「聖君」ですが。日本では聞きなれない言葉ですよね。
「聖君」とは中国や朝鮮で理想とされる君主のことです。
古代中国の古典『礼記』では「王は民の幸福のために仁・義・礼・智を行うべき」「王は民を思い、礼に則り、徳で治める」と書かれています。
帝王教育の教科書といえる『大学』では「君主や指導者はまず自分が物事の本質を究め、知識と徳を身につけ、それから民を教え導くべき」という『格物致知(かくぶつちち)』の教えが書かれています。
こうしたことが実践できる君主が聖君とされました。
朝鮮王朝でも「聖君」とはこうした儒教的価値観をもって実践できる王を意味します。そのため、君主自身が道徳的に高潔で民の模範となることが大切とされたのです。
聖君に求められる徳目は「仁・義・礼・智」です。
- 仁は民を慈しみ思いやる心
- 義は不正を許さぬ正義の実践
- 礼は秩序を守り敬意を示す姿勢
- 智は本質を見抜き賢明な判断を下す力です。
これらを備えた王が儒教的に理想の君主とされました。
名君=聖君ではない
こういったこの点で、現代人がイメージする「名君」とは意味が違います。現代的な名君は経済発展や国際的地位の向上など「成果」で語られることが多いですが、聖君の評価はむしろ「民の幸福」「王の徳の高さ」に置かれていました。
聖君とは目に見える成果だけでなく、民を慈しむ心と高潔な人格を兼ね備え、道徳的に民の模範になる君主を意味するのです。
朝鮮王朝の聖君まとめ
朝鮮王朝の「聖君」を紹介してきました。朝鮮で代表的な聖君は以下の三人です。
- 世宗
- 成宗
- 正宗
他にも実績のある王、有能な王はいますが。儒教的な徳を備えて実践できる王は多くはありません。聖君とは政治的な成功者や実績のある王ではなく、儒教の価値観にもとづいた理想的な人物像なのです。
世宗大王や成宗、正祖といった王が後世に「聖君」と讃えられたのは彼らが民を思いやり、礼を重んじ、学問や文化を発展させたからでした。
一方で、英祖のように民を思いやり功績はあっても身内を死に追いやった王は聖君とは言いづらい部分もあります。もちろん権力を握るために血を流した王たちは「聖君」とはいえません。
韓国ドラマを見ていると重臣たちが「聖君におなりになってください」とか王が「余は聖君になりたい」というセリフが良く出てきます。つい「良い王様」になりたいんだなと思いがちですが。実際にはこの記事で書いたようなことを実践できる王のことです。この記事の内容を知って韓国・中国ドラマを見てくると王や臣下が何を思って、どうなりたいのかがよくわかってくると思います。
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