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朝鮮 中宗 は優柔不断で無責任な国王

朝鮮中宗 1 李氏朝鮮の国王

中宗(チュンジョン) 李懌(イ・ヨク)は李氏朝鮮の第11代国王。

1506年9月2日。燕山君がクーデターで失脚したため、王になりました。

日本では「チャングムの王様」のイメージが強く。
「頼りない王」の印象が強いです。
歴史書に残る中宗はどのような人物だったのでしょうか。

国王になる前の普城大君時代はこちらで紹介しています。

普城大君(チンソンテグン)王になる前の中宗は燕山君と仲は悪くなかった?
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この記事では国王に即位以後を紹介します。

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中宗の史実

プロフィール

生年月日:1488年
没年月日:1544年
在位期間 1506年9月18日~1544年11月28日
享年:57

名前:李懌(イ・ヨク)
称号:普城大君(しんじょうたいくん、チンソンテグン)
中宗(ちゅうそう、チュンジョン)
父:成宗
母:貞顕王后
正室:端敬王后慎氏 
側室:多数

子供:仁宗、明宗など。14男12女

詳しくはこちら

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普城大君は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の9代成宗の次男。

日本では室町時代になります。

国王に即位・中宗になる

1506年9月2日。朴元宗(パク・ウォンジョン)、柳順汀(ユ・スンジョン)らがクーデターを起こして燕山君を廃位させました。18歳の普城大君が即位。代代国王・中宗が誕生しました。

功臣のいいなりになる王

国王になったものの、政治の主導権は朴元宗(パク・ウォンジョン)、成希顔(ソン・ヒアン)、柳順汀たち勲旧派が握っています。

中宗は大君時代に正室だった慎氏を王妃にします。
ところが重臣たちの反対でわずか7日で廃妃にしてしまいます。
その詳しいいきさつはこちらを御覧ください。

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中宗は功績のあった重臣(功臣)たちの顔色をうかがいながら政治をしていました。

1510年。朴元宗が病死。勲旧派の中心メンバーが欠けて勢力がいくぶん弱くなりました。

端敬王后の復位問題

1515年2月。章敬王后 尹氏が息子・李峼(後の仁宗)を出産しました。
ところが章敬王后は出産後まもなく死去してしまいます。

すると士林派から、既に廃妃されていた「端敬王后 慎氏を再び王妃にしよう」という意見が出ました。

勲旧派は反対しました。端敬王后を廃妃にしたのは勲旧派だからです。

端敬王后 慎氏の復位問題はやがて勲旧派 対 士林派の争いに発展。

まともな議論ができなくなってしまいます。

端敬王后は廃妃になったあとも政争の具にされてしまい、ついに王妃に戻ることはできませんでした。端敬王后が「王后」の称号を再び得たのは約200年後の英祖の時代でした。それまでは「廃妃」扱いでした。

新しい王妃選び

次に中宗が王妃にしようと考えたのは既に福城君を生んでいる貴人朴氏でした。でも章敬王后 尹氏の生んだ元子・李峼の即位の障害になると考えた重臣たちの反対にあって断念。そのかわり朴氏を昇格させ「敬嬪」にしました。

結局、新しい王妃を選ぶことになりました。

1517年。揀択が行われ。文定王后 尹氏が王妃になりました。

儒教政治の強化

勲旧派の中心メンバーの朴元宗がいなくなってしばらくして。中宗は士林派を採用して勲旧派を抑え込もうとしました。
士林派とは朱子学(儒教の一派)の学者と弟子が作る政治の派閥です。

士林派の代表が趙光祖(チョ・グァンジョ)でした。

1515年から従六品の役人になって様々な役職を務め。中宗の信頼を得ました。

趙光祖はガチガチの儒学者で「哲人政治」を目指しました。儒教の理想で国を収めようとしたのです。

1518年。趙光祖が提案した賢良科を採用しました。これは科挙とは関係なく士林派を28人採用、趙光祖が人事を行い様々な部署に配属しました。この制度で趙光祖は一気に味方を増やし、主要な部署を抑えて権限を大きくしました。賢良科で採用されたのは事実上、趙光祖の仲間です。

宮廷内で道教的儀式を行っていた「昭格署」を廃止。古来からあるシャーマニズムの禁止。仏教行事を禁止し、仏教も迷信と決めつけ仏教行事の廃止、仏教私設の廃止を中宗に進言しました。つまり、儒教以外の宗教を禁止しました。

社会に朱子学を浸透させなければいけないと考え、農村の教化(儒教的価値観の普及)を熱心に行います。

勲旧派の土地の没収などを行いました。

成均館(儒教の学校)の定員を増やし士林派の勢力拡大数、政治への参加を増やしました。

趙光祖は司憲府の大司憲と王世子の輔養官を兼任。中宗がコントロールできない大きな力を持つようになりました。

己卯士禍・趙光祖の失脚と死亡

1519年。趙光祖は功臣の数を減らすように進言しました。

燕山君を倒して中宗を即位させた者たちは「功臣」とされて功臣名簿に載り様々な特典を与えられていました。でも大した功績もないのに功臣扱いになっている人も大勢いました。

中宗が拒否すると、趙光祖は仲間ともに一斉に辞職。中宗に圧力をかけました。中宗は仕方なく趙光祖の言い分を認め76人の功臣を名簿から削除しました。

これに怒った勲旧派は「趙光祖が王になろうとしている」と思わせ、中宗の信頼を失わせようとします。

当時の儒学では「党派は作ってはいけない」とされていました。趙光祖自身もコネでの採用は批判していました。そこで勲旧派は「趙光祖は賢良科を作り仲間を集め党派を作った」と批判しました。

中宗としても、はじめは勲旧派を抑えるために採用したのにいつの間にか力を持った趙光祖は危険だと考え。長々と儒教の理屈ばかり言う趙光祖にうんざりしていました。

1519年11月。趙光祖が時期そのため座り込みを始めると、中宗は決断。趙光祖・金浄・金湜・金絿を投獄。それを知った儒学生1000人が趙光祖の無実を訴えましたが、中宗はさらに強行になって趙光祖の処分を早めました。

中宗と勲旧派は趙光祖を流罪にして1ヶ月後に賜死させました。

1520年。長男の李峼(イ・ホ)が王世子になりました。

1521年にも士林派の排除が行われました(辛巳誣獄)。

こうしていったん儒教政治は弱まり、勲旧派が政治の主導権を握りました。

しかし勲旧派の重鎮・朴元宗、南衮が死亡すると士林派の反撃が始まります。

灼鼠の変と金安老の暗躍

金安老(キム・アンロ)も士林の仲間でした。金安老の息子・金禧(キム・ヒ)は中宗の娘・孝恵公主と結婚しました。

金安老は趙光祖たちとともに流罪になっていましたが、王の親戚だったので特別に戻ってきました。その後も金安老は勲旧派と対立して島流しになっていました。

灼鼠の変

1527年(中宗22年)。王世子の12歳の誕生日。王宮内で足と尻尾を切り、目、口、耳に火をつけたネズミの死体が見つかりました。そのうちの一つが、世子が住んでいた東宮の外の木に置かれていました。

この事件は金禧(キム・ヒ)が仕組んだ罠だと言われますが。

当時は、敬嬪朴氏とその子・福城君が犯人にされて重臣たちから訴えられました。圧力に負けた中宗は敬嬪朴氏と福城君を追放します。

1529年。金安老の息子・金禧とその妻・孝恵公主が中宗に訴えて金安老が復帰しました。勢いづいた重臣たちは勲旧派の沈貞は敬嬪朴氏の共犯者だと批判。

1531年。中宗は沈貞を処刑。

それでも金安老たちの追求は収まらず。

1533年。中宗は敬嬪朴氏と福城君を死罪にしました。二人は毒を飲んで死亡しました。

金安老は世子を守る名目で中宗の信頼を得て対立する者たちを粛清。沈氏、南氏を没落させました。

世子の外戚・尹一族とも姻戚関係を結び力を強めていました。

 1541年。王の晩年の娘婿・金禧(キム・ヒ)の策略だったことがわかり。敬嬪朴氏と福城君の名誉は回復しました。

大尹と小尹の対立

1534年。文定王后が息子の李峘(イ・ファン)を出産しました。

このころから尹一族の結束が乱れます。大尹と小尹に分裂しました。

大尹派
世子・李峼(後の仁宗)を支持するのは、
世子の生母・章敬王后の兄、尹任と彼の仲間達。
それと金安老。

小尹派
文定王后の息子・李峘(後の明宗)を支持するのは
李峘の生母・文定王后の兄弟、尹元老・尹元衡とその仲間たち。

1537年。金安老が文定王后を殺害しようとしたという理由で死罪になりました。

大尹と小尹の争いはさらに続きます。

北と南で争いが起こる

三浦の乱

1510年。朴元宗の死の直後。釜山浦・薺浦・塩浦の3つの港町(三浦)で日本人が反乱を起こしました。

朝鮮は海禁(朝鮮版の鎖国)をしていました。

倭寇対策のため世宗の時代に釜山浦・薺浦・塩浦の3つ港に限って開港。日本人の居住を認め商売を許可していました。日本人が朝鮮に滞在する費用も朝鮮が負担しました。

取引が増えると三浦に定住する日本人も増えました。居住日本人は無税だったので年貢を逃れるために土地の名義だけ日本人にする朝鮮人も現れました。

負担に耐えられなくなった朝鮮は貿易を制限しました。やがて不満を爆発させた日本人商人は暴動を起こしました。貿易を増やしたい対馬の宗氏も兵を派遣しました。

朝鮮は反乱鎮圧に成功。定住日本人は対馬に撤退しました。朝鮮は日本との交易を中止しました。

宗氏は困って室町幕府を頼ります。朝鮮も銅・胡椒などの輸入を日本に頼っていたので貿易をゼロにはできません。

朝鮮朝廷と室町幕府が交渉の結果。

1512年。日本人を三浦に定住しない、取引量をそれまでの半分にする、開口する港は薺浦だけにする。という条件(壬申約条)で交易が再開されました。

女真族の襲撃

中宗の時代は何度か女真族の襲撃を受けています。
1440年代ごろまでは朝鮮半島北部に女真族が暮らしていましたが、世宗の時代に女真族の暮らす地域を占領して朝鮮の領土化。女真族はかつての領土に頻繁に出入りして略奪を働くようになっていました。

中宗の時代には力を付けた女真族の侵入も増えました。

南では倭寇(日本では第二次倭寇とも言います。構成メンバーの8~9割は明の鎖国のせいで職を失った明や朝鮮人、一部に三浦の乱で貿易利権を失った日本人も含まれます。大半は中国・朝鮮人なので「倭寇」は正しくありませんが「倭寇」の名で呼ばれます。)の動きも活発になってきました。

しかし中宗は根本的な防衛力不足を補おうとはせず、場当たり的な対処を繰り返しました。

問題山積みの中で死去

大尹派と小尹派の争いが続く中で中宗の病気は悪化。

1544年。中宗は危篤状態に。
1544年11月28日。中宗が死去。
享年56

優柔不断と無責任を併せ持つ王

世子・李峼が国王(仁宗)に即位しました。

中宗はクーデターで担がれて王になりました。なので重臣たちの言いなりになることが多いです。でも中宗もそれでいいと思っていたわけではありません。既存の勢力に対抗できる人材に権限を与えなんとか王の権力を高めようとしました。それが趙光祖や金安老、尹一族です。

ところが中宗本人に「こういう国を作りたい」という考えはありません。

政治の場では重臣たちに反対することはあまりない優柔不断さが目立つ中宗ですが。臣下に見切りを付けたときは容赦が無いです。王が率先して追い込む側に回ってしまいます。普段は重臣のいいなりになってる中宗とは別人みたいです。

処刑を下した相手に「申し訳ない」という素振りを見せない。都合が悪くなると簡単に見捨ててしまうところがあります。傍で支えて記録をつけている文官からは冷酷な王に見えたようです。

無責任にあれこれ重臣を取り替えた結果、最終的には身内(外戚)に頼る政治になってしまい。文定王后(大妃)と大尹の横暴を招いてしまいます。

テレビドラマの中宗

王と妃 1998年、KBS 演:チェ・ウヒョク
女人天下 2001年、SBS 演:チェ・ジョンファン
宮廷女官チャングムの誓い 2003、MBC 演: イム・ホ
ファン・ジニ 2006年、KBS 演:パク・チャンファン
王と私 2007年、SBS 演:ノ・ヨンハク
インス大妃 2011、JTBC 演:ペク・スンド
天命 2013年、KBS 演:チェ・イルファ
オクニョ 運命の女 2016年、MBC 演:キム・ボプレ
師任堂・色の日記 2017年、SBS 演:チェ・ジョンファン
七日の王妃 2017年、KBS 演:ヨン・ウジン

 

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