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忠定王(慶昌君)の最後|12歳で即位し廃位された高麗30代王の生涯

忠定王 王㫝は高麗の第30代国王。12歳で即位しましたが、わずか3年で廃され江華島に流され最後は毒殺されてしまいます。

この本記事では、即位に至る経緯から外戚の台頭、元朝による国璽回収と廃位、さらに毒殺とされる最期の真相までを史料の記述も踏まえて紹介します。

幼くして王位に就いた君主は、いったい何を背負わされ、なぜ短期間で退けられたのでしょうか。

この記事で分かること

  • 忠定王が12歳で即位するまでの流れと、王祺(恭愍王)との後継争い。
  • 尹氏一族や功臣への恩賞人事が招いた「外戚政治」の実態
  • 倭寇の本格化と朝廷の指揮系統が機能不全に陥った背景
  • 国璽回収による廃位、毒殺説、そして“乱行”記述をどう読み解くべきか

 

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【基本情報】

  • 諡号:忠定王
  • 名前:王㫝(ワン・ジョ)
  • 生年:1338年
  • 没年:1352年
  • 在位:1349年から1351年
  • 父:忠恵王
  • 母:禧妃 尹氏
  • 陵:聰陵(총릉、開城付近)

 

生い立ち

忠定王は名を「㫝(ジョ)」、モンゴル名を「ミスガンドルジ」といいます。

父は第28代国王の忠恵王、母は禧妃尹氏です。忠恵王の庶子として生まれ、忠穆王4年(1348年)4月には慶昌府院君(キョンチャンブウォングン)の称号を与えられました。

そのわずか8ヶ月後の12月、忠穆王が若くしてこの世を去ります。

王位が空席となるなか徳寧公主は徳成府院君の奇轍(キ・チョル)と政丞の王煦(ワン・フ)に征東行省の事務を代行するよう命じ、国政の空白を埋めさせました。

 

権力の空白と「外戚」の台頭

高麗朝廷は次の王の候補として二つの選択肢を元朝に提示しました。

一人は国内にいた11歳の庶子・王㫝。 もう一人は当時19歳で元に滞在していた王祺(後の恭愍王)です。

当時の実力者であった王煦(ワン・フ)や李斉賢(イ・ジェヒョン)らは、元への上表文の中で「日本という元に服従しない国に隣接しており、君主不在は許されない」と説明して暗に成人していた王祺への期待を滲ませていました。

しかし1349年元朝の皇帝が下した命令は12歳の少年・王㫝の即位でした。

 

恩賞と官職に群がる「外戚」の影響

1349年7月、元から帰国した王㫝は康安殿で即位。ここから王の母・禧妃尹氏を中心にした尹氏一族と、王を元から護送してきた功臣たちへの大規模な恩賞人事が始まります。

  • 盧頙(ノ・チェク):右政丞・慶陽府院大君
  • 孫守卿(ソン・スギョン):左政丞
  • 尹莘係(ユン・シンゲ):都僉議賛成事

『高麗史』によればこれら尹氏の徒党は私欲をほしいままにし、高麗の政治を悪化させました。また摂政を担った先代の妃・徳寧公主も宮中の事務を握り臣下たちの間で露骨な利権争いが行われました。

 

高麗を襲う倭寇の本格化(1350年)

忠定王2年(1350年)。高麗を倭寇が襲いました。固城、巨済、さらに翌年には南陽へと100余艘の船で押し寄せたたのです。 合浦の千戸・崔禅(チェ・ソン)らが奮戦し首級を挙げたものの、漕船(税を運ぶ船)は略奪され、沿岸部は焦土と化しました。

このような危機にあっても、朝廷の指揮系統は乱れていました。西江の守備を命じられた前密直の李権(イ・グォン)が、「私は将軍でもなく録も受けていない」と王の命令を拒否して出陣を辞退するなど、国家の統制は崩壊寸前でした。

 

 元朝による「国璽」の回収と廃位

無力な幼君、腐敗する外戚、そして激化する倭寇。ついに元に滞在中の尹澤は李承老とともに中書省へ書面を提出、王祺を即位させるよう請願しました。『高麗史節要(巻26)』

この惨状に元朝も決断を下します。1351年10月、 元は江陵大君(王祺)を国王に指名し断事官の完者不花(オルジェイブカ)を派遣。高麗の宮室を封鎖して国璽(王の印章)を強制的に回収して去りました。

後ろ盾を失った忠定王は廃されわずか3年の在位で江華島へと移されてしまいます。恭愍王 王祺が高麗に入りました。

 

中定王の最後と毒殺の真相

江華島に流された慶昌君 王㫝(ワン・ジョ)でしたが、その最期については、今も謎が残ります。

『高麗史』によれば、1352年3月、彼は鴆によって亡くなったと書かれています。

恭愍王元年,三月辛亥,遇鴆薨,在位三年,壽十四,葬聰陵。
出典:『高麗史/卷三十七 忠定王』

 

鴆というのは伝説の鴆という鳥の羽から取れる毒のことで。実際には様々な毒を混ぜた物が使われたり、毒の総称としても使われる言葉です。

要するに毒殺されたのです。

これが恭愍王による命令だったのか、それ以外の者が命じたものかはわかりません。

可能性として高いのは廃位された前王が担がれて政治的な争いになるのを恐れた新政権側による「処分」ですが。今となっては確認する方法はありません。

『東国通鑑 巻45 高麗紀』ではこの非業の死を招いた原因として「尹氏の徒党が私欲を優先し、国人の支持を集めていた王祺(恭愍王)の存在を顧みなかったこと」を強く批判しています。

 

歴史的評価:残された「乱行」の記述をどう読むか

『高麗史』には、王の奇行も記されています。

  • 侍学官の服に墨をかける、気に入らない者を鉄の椎で打つ。
  • 冬に氷水で凍った飯を無理やり食べさせる。
  • 女性に近づく者に嫉妬し、宰相であっても打つ。

これは孤立無援の少年が示したストレスの表れだったのでしょうか?

でも、敗北した王に対して「道徳的な欠陥」を強調するのは新しく権力の座についた政権の正当性を主張するための常套手段です。

この内容は事実というより「だからこの王はダメだったのだ」と彼を殺した新政権側が自分たちを正当化するために、わざと大げさに書き残した可能性もあります。

いずれにしても彼が権力争いの犠牲者であったのは確かでしょう。

 

聰陵:開城に眠る幼王の証

忠定王の墓所「聰陵」は現在の開城近郊にあります。

三層の壇や精巧な護石、1978年の発掘で見つかった多数の副葬品は彼が非業の死を遂げたものの、形の上では一国の王としての格式を持って葬られたことがわかります。それがせめてもの救いです。

 

忠定王の登場するドラマ

シンドン MBC、2005年 演:チェ・ヨンジュ

 

シンイ-信義-での描かれ方

シンイ-信義- SBS、2012年 演:チェ・ウォンホン 役名:慶昌君

ドラマ「シンイ-信義-」でも登場。劇中では王を廃されているので王族としての称号「慶昌君」で登場。すでに江華島で幽閉されています。治療に来たチェ・ヨンと仙医ユ・ウンスと出会います。

キ・チョルに毒を渡されチェ・ヨンを無き者にするよう脅されます。しかし病気に犯され余命が僅かだと知っている慶昌君は、チェ・ヨンを守るため自ら毒を飲み苦しんでいるところをチェヨンに発見され。最後は自らチェヨンにトドメを刺すようにもとめ。最後はチェヨンの手によって絶命しました。

毒殺されたという部分は史実と同じですが、恭愍王ではなくキ・チョルの側というのがこのドラマの解釈。チェ・ヨンとの関わりはドラマオリジナルの設定です。

シンイ-信義- 登場人物とキャスト徹底解説

 

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執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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