崔萬理(チェ・マルリ)は、朝鮮前期の文臣・政治家・儒学者・法学者です。長く集賢殿に在籍し、古制度の研究と実務に携わりました。そのチェマルリがなぜ世宗が進めた訓民正音の創制に強く反対したのでしょうか。
この記事ではチェ・マルリの経歴や儒教を重んじた考え方をたどりながら、訓民正音に反対した背景とその評価をわかりやすく紹介します。
この記事で分かること
- チェ・マルリの出自や家族、集賢殿での経歴
- 儒教的価値観を重んじた人物像と上奏の特徴
- 訓民正音の創制に反対した具体的な理由
- 後世での評価やドラマでの描かれ方
チェ・マルリ(崔萬理)とは
チェ・マルリ(崔萬理)は朝鮮時代の文官。長く集賢殿にいて、制度の研究と適用に力を注ぎました。儒教的価値観を第一として、相手が王でも反対する人物。訓民正音創制反対の上奏した人物の代表格でもありました。
プロフィール
- 名前:崔萬理(さい ばんり/チェ・マルリ)
- 字:子明
- 号:江湖散人
- 諡号:恭惠
- 生年:1398年
- 没年:1445年10月23日
- 本貫:海州
家族
- 父:崔荷
- 母:忠州池氏(池龍壽の娘)
- 妻:中和楊氏
- 子:崔塙、崔埥、崔塘、崔垠、崔堧、娘1人
崔萬理の出自
海州崔氏の始祖として知られ「海東孔子」とも呼ばれた崔冲の12代孫にあたります。高麗中期の著名な文人で『補閑集』の著者・崔滋の6代孫でもありました。学問と官僚の家柄を引く一族の出身でした。
チェマルリの父
父は崔荷。礼賓寺尹を務め、死後に吏曹参判を追贈されました。
チェマルリの母
母は忠州池氏で、門下侍郎を務めた池龍壽の娘でした。
結婚と子供
崔萬理は中和楊氏の判官・楊美の娘と婚姻。五人の息子と一人の娘がいます。
五男の崔堧は集賢殿典翰を務め、のちに三唐詩人の一人である崔慶昌の高祖父、朝鮮後期に領議政を務めた崔奎瑞の9代祖となります。
崔萬理の人生
科挙合格と集賢殿での出世
1419年(世宗元年)。増広文科乙科に合格。弘文館に入り、翌年に集賢殿が設置されると正七品の集賢殿博士になりました。1427年には校理となります。
1427年には校理在職中に文科重試に合格。堂上官へ昇進しました。以後は応教・直提学・副提学を歴任します。
世子の教育係を任される
1427年7月。後の世子 李珦(後の文宗)が明を訪問する際に実務を支える書状官と検察官を兼務しました。また鄭麟趾や金宗とともに世子の教育係に選ばれ昼の講義を担当します。さらに集賢殿の応教として鄭麟趾と交代しながら歴史上の出来事や政治のあり方を世子に教えました。
集賢殿での日々
崔萬理は長く集賢殿で古い制度の研究を行いました。古制度の解釈、翻訳、適用に関わり、とくに五礼や施政に関する研究に力を入れています。『資治通鑑訓議』、『貞観政要註』の編纂にも参加しました。
その後も、1437年に集賢殿直提学、1439年に江原道観察使、1440年には再び集賢殿副提学となりました。
ただ古制度の研究はそのまま崔萬理の価値観にもつながっていきます。古い制度と儒教を基準として世の中を見ていたため、新しい試みや現実に対応したた運用に対しては厳しい見方をすることが多くなりました。
儒教理念の追求
1438年に副提学になった崔萬理は一度は江原道の観察使として地方へ赴任しますが、1440年には再び集賢殿の副提学になりました。
この時期に彼は合計14回も上奏を行いました。その内容は仏教の排斥を訴えるものが6回、世子の事務局「詹事院」の設置に反対するものが3回でした。
それ以外にも日本との交易で石硫黄の対価を規定以上に支払った担当者の責任を追及したり、科挙の試験問題の出し方を批判したり、様々な出来事に意見を言いました。
死刑判決が下された李迹という人物に対して判断の根拠があいまいだとして減刑を求めるなど、司法の公正さにも厳しい目を光らせていました。
仏教への批判
世宗が家族を相次いで亡くし、心の拠り所を仏教に求め始めると崔萬理の批判はさらに熱を帯びました。彼は朝鮮はあくまでも「儒教」の国だと考えていたからです。
王室が支援する興天寺の舎利閣を修理することに反対、仏教行事の慶讃会の廃止を求めるなど、王や王室の信仰にも注文をつけるようになります。
残された記録からはたとえ王室が相手でも自分の信念を曲げない人物だと分かります。
集賢殿学士と「訓民正音」への反対
1443年12月に世宗が「訓民正音(後のハングル)」を作ると、崔萬理は申叔舟や河緯地らとともにその創制に反対する上奏を行いました。
この上奏では以下の点を反対の根拠にしていました。
- 事大慕華に反する
朝鮮は建国以来、明の制度や文化をお手本にしてきました。独自の文字を作るのは中華文明に属することを誇りとする姿勢に反することだ。 - 野蛮(夷狄)への転落
独自の文字を持つのは契丹、女真、西夏、蒙古、日本などの「野蛮な民族」であり、文字を共有する中華文明から離れるの野蛮人の仲間入りをすることだ。 - 学問(漢字・漢文)の衰退
吏読は漢字の理解を助けますが、簡単な「諺文(ハングル)」が普及すれば、人々は苦労して漢字を学ばなくなり、儒教的な学問の基礎が崩れる。 - 司法制度の混乱と慎重さの欠如
刑罰の運用で文字を知らない民衆を救うためという大義名分に対して、問題は文字ではなく官吏の公正さであると反論。また十分な議論なしに印刷・頒布を急ぐのは軽率である。 - 韻書の改訂
古くから受け継がれてきた韻書(漢字の発音の基準)を、新文字に合わせて作り変えるのは、学問的な根拠が薄く先人への不敬にあたる。 - 世子の職務逸脱
世子(後の文宗)がこの事業に関わっていることについて、世子は学問(儒教)に専念すべきであり、文字を作るという枝葉の仕事に時間を割くべきではない。
崔萬理が守ろうとしたものとその限界
この上奏文を読むと崔萬理が何を最優先に考えていたのかがわかります。
彼にとって重要だったのは民衆が文字を使いやすくなることや、行政・教育に新しい可能性を切り拓くことではありませんでした。
それよりも中国を中心にした国際秩序を維持し、既存の学問体系を守ることが大切だったのです。
現実には独自の文字をもったからといって明が制裁をするわけではありません。
明との関係で重要なのは貢物を出すこと以外にも年号・暦・冊封秩序・外交文書の漢文運用・君主号や世子号の使い分けといった公的な対外秩序の部分でした。朝鮮も明との朝貢関係の中でそこは守っています。
彼らがあえて明との関係を強調したのは漢字を通して政治と知識を独占する両班層の利権を守るため。という事情もあります。
さらに仏教の排斥、古い制度の維持、訓民正音への反対。これらすべての判断は「儒教的な秩序」と「伝統的な規範」にありました。
目の前の必要性や時代の変化に柔軟に対応するよりも、自分が正しいと思う基準を何よりも優先させたのです。
つまり崔萬理の問題はハングルに反対したことだけでなく、儒教的な正しさを貫こうとするあまり、新しい制度や違う価値観を受け入れる余地が乏しかった点にあります。
融通が利かず、見通しの悪さを抱えていた人物だといえるかもしれません。
結局、この上奏によって崔萬理は世宗の逆鱗に触れました。激しい叱責を受けただけでなく、王自らによる取り調べを経て、最終的には投獄されてしまいます。
晩年と死去
その後、崔萬理は釈放されましたが。1444年に辞職。故郷へ退きました。
1445年10月23日に死去しました。諡号は恭惠です。
死後、京畿道安城郡元谷面池文里(現在の安城市元谷面池文里)に葬られ、妻の中和楊氏と合葬されました。
墓所の近くには父の崔荷と母の池氏夫妻、次男で礼曹佐郎を務めた崔埥とその妻の驪興李氏夫妻の墓所などがあり、祠堂の江湖斎も建てられました。
崔萬理の評価
肯定的な評価
崔萬理は20年以上にわたって集賢殿で勤務、古制度の解釈と適用に貢献したとされています。
正直で筋を曲げない文人として認められ、不正と妥協が嫌いで清廉潔白な官僚だったという評価もあります。
否定的な評価
現代では訓民正音を創製した世宗の評価が高いため、反対した崔萬理の評価が下がる傾向にあります。
それ以外にも王室の事情や現実の政治より儒教理念の維持を優先しました。訓民正音反対の意見でも民衆への利便や新制度の可能性よりも、明との関係や既存の学問体系を守ることだけを重視しています。
全体としては儒教原理を優先しすぎる傾向が強く、融通が利かず、視野も広いとは言いにくい人物でした。
清廉さや学識は認められても、考え方が偏りすぎている点が目立ちます。
俗説・伝承として語られること
万里洞の地名由来説
伝説では、現在のソウル特別市中区にある万里洞は、かつて崔萬理が住んでいたことから、その名にちなんで付けられた地名だとされます。ただしこれは伝説として伝わる話です。
崔萬理を演じた俳優
- 大王世宗 2008年、KBS 演:イ・ソンミン
- 根の深い木 2011年、SBS 演:クォン・テウォン
- ポンダンポンダン 王様の恋 2015年、MBC 演:イ・デヨン
- チャン・ヨンシル 2016年、KBS 演:アン・シヌ
『大王世宗』のチェマルリ
『大王世宗』でのチェ・マルリは、集賢殿の学者で最初は世宗に味方する若い官僚として登場しました。しかし世宗がチャン・ヨンシルを昇進させ暦を作ろうとすると反対するようになります。
彼は強烈な身分意識と儒教的価値で動いています。「民が文字を知れば法を悪用し、学問の質が落ちる」と主張。「明国の不興を買い戦火を招く」と明の脅威も持ち出して世宗を追い詰めます。
でも世宗は「お前たちが恐れているのは、卑しい民と同じ文字を使い特権階級としての優位性が崩れることではないのか」と彼らの本音を言い当てました。
文字の問題にみえて実は、身分制度や支配する仕組みを維持したい両班側と民の知識を上げて国を強化したい王とのぶつかり合いなのです。
さらにドラマでは世宗は発音の仕組みを解明するため人体解剖を行いました。儒教社会では身体を傷つけることは絶対のタブーです。チェ・マルリはこれを見逃さず世宗を玉座から引きずり下ろそうとします。でもチェマルリを阻止したのは世子(後の文宗)たちでした。
数々の政敵を退けてきた世宗にとって最大最後の政敵となったのが、最初は世宗を指示していたチェマルリだったのでした。
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