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晏殊・宋仁宗の師匠は庶民から宰相に出世して3度の降格を経験した

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晏殊(あん しゅ)は、北宋前期の政治家、北宋の詞人です。

晏殊とその子・晏幾道は、二晏といわれています。

詩人としても祐目なのですが。本職は政治家です。

親は地方の役所で雑用をして貧しい生活をしていました。しかし神童とよばれて頭が良かった晏殊は地方に赴任していた役人の推薦で試験を受けて役人になりました。

その後は真宗や仁宗の信頼を得て最小になりました。生涯に3度左遷されましたが。仁宗からの信頼は変わりませんでした。

史実の晏殊(あん しゅ)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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晏殊の史実

いつの時代の人?

生年月日:991年
没年月日:1055年2月27日

姓 :晏(あん)
名称:殊(しゅ)
字 :同叔

国:宋(北宋)
地位:→→

父:晏固
母:呉氏
夫:李氏
再婚:孟氏、王氏

子供:八男ニ女。
晏幾道など。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

 

太宗の時代。
991年に撫州臨川県沙河(現在の江西省南昌市進賢県文港鎮)で誕生。

父の晏固は地方の役所で事務の雑用を行う小役人でした。貧しい暮らしをしていた庶民ですが。書類を書いたりしたりするので読み書きはできます。

一族からは4代前に科挙合格者を出していますがそれ以降は合格者が出ていません。そのため晏殊には期待がかかっていたのでしょう。親たちは晏殊に学問をさせたようで、晏殊は7歳の時に詩文を作成しました。

真宗皇帝の時代

14歳の時。晏殊の優秀さを知った江南按撫の張知白の推薦で若年用に新しく作られた進士試験を受けました。翌年には廷試に合格して役人になりました。

秘書省正字に任命され、その後も幾つかの役職を経験しました。

皇太子・趙禎の側近になる

当時は文人や官僚たちは頻繁に酒場や酒場に行って宴会をしていました。晏殊は遊んだり宴会をしたりせず、自宅で兄弟たちと本を読んだり本の講義をしていました。また晏殊の仕事ぶりを見て感心していました。

真宗は晏殊のような慎重で忠実な者なら息子のよい教師になると思い。六男の盛王 趙受益(後の仁宗)の記室参軍(秘書みたいなもの)にしました。

その後、真宗は晏殊を任命した理由を話しました。すると晏殊は「遊びに行かなかったのではなく、貧乏で遊びに行けなかったのだ」と言いました。

事実、晏殊の家はもう4代前の祖先が科挙に受かって役人になっただけ。その後は晏殊まで科挙に受かった者がいません。晏殊の父は地方の役所で雑用をする労働者でした。

真宗はその理由を聞いてとますます晏殊の正直さが気に入りました。

趙禎(趙受益)が皇太子になると晏殊は戸部員外郎、太子舍人(警備兼従者、正六品)になりました。皇太子の側近になったのです。

乾興元年(1022年)。真宗が死去。仁宗 趙禎が即位しました。

仁宗の時代

真宗の遺言で幼い仁宗を劉太后が支える事になっていました。宰相の丁謂と枢密使 曹利用たちなど大臣たちの間では主導権争いが起こります。晏殊は劉太后の 垂簾聴政を提案。劉太后を大臣が支える体制が整いました。

晏殊は劉太后に信頼され幾つかの役職を与えられました。

応天府に異動

ところが晏殊は自分が悪いと思ったことは言い相手が高い身分でも引き下がりません。劉太后にも意見を言うので次第に煙たがられるようになります。

劉太后が身内の張耆を枢密使に任命。すると晏殊は反対しました。劉太后は晏殊に不満を持ちます。

あるとき。晏殊は仁宗に付き従って出かける予定でした。急いでいたのに自分の侍従がなかなかやって来なかったので怒り、遅れてやって来た侍従をを叩いて歯を折ってしまいました。

晏殊は曹修によって弾劾を起こされます。

劉太后は日頃の不満もあり晏殊を応天府に左遷しました。

天聖5年(1027年)。応天府に左遷された晏殊は書院(学校)の設立に尽力。そこで学生たちを指導しました。その中には范仲淹もいました。結果的に後の宋を支える人材を育てることになりました。

明道元年(1032年)。晏殊は参知政事になり朝廷に戻ってきました。

本当の生母を知った仁宗が劉太后派を左遷

明道2年(1033年)。劉太后が死去。

仁宗は自分の生母が劉太后ではなく李宸妃だと知りました。しかも李宸妃の墓碑を書いたのが晏殊で。晏殊が書いた墓碑には「李宸妃の子供は娘が一人だけ」と書いていました。晏殊は劉太后の指示でそう書いたのですが。仁宗は怒って晏殊を知亳州、陳州に降格してして地方に異動させてしまいます。しかしこのとき呂夷簡、張耆など6人が左遷されました。

仁宗は晏殊個人に怒ったというより劉太后派の臣下をまとめて左遷したのです。

でも晏殊はその後に呼び戻され刑部尚書と御史中丞を兼任。仁宗は晏殊への信頼は薄れていませんでした。

西夏への対応を提言

宝元元年(1038年)。タングートの首領・李元昊が皇帝を名乗り 大夏(西夏)を建国。李元昊は陝西に攻めてきました。

晏殊は軍備を強化するために以下の4つの提案をしました

内臣の監軍を解除し、統帥に軍内の重要な決定権を与えること。
弓矢の兵士を募集し、訓練して戦闘に備えること。
宮中で長年溜め込んだ財物を換金して辺境の軍費にすること。
各部署が所有している資源を回収して国庫を充実させること。
です。

彼の提案は仁宗に採用されました。

康定元年(1040年)。晏殊は枢密使になりました。

宰相になる

慶歴2年(1042年)。枢密使兼同中書門下平章事になり宰相の地位を得ました。
(宋では「宰相」という役職はなく「同中書門下平章事」の役職にある人が宰相と呼ばれます)

宰相としての任期中、晏殊は范仲淹と共に州や県に学校を設立。教育の充実を目指しました。この政策を「慶歴興学」といいます。

西夏との和睦を進める

慶歴(1043年)。西夏(大夏)との和睦交渉を進めました。

西夏が宋に臣従する条件で宋は夏に毎年絹13万・銀5万・茶2万を歳賜として送る内容で交渉が進められていました。

弱体化した宋の軍隊は西夏に負けることが多く。実力で西夏を服従させることができません。仁宗も西夏に金品を贈るのは仕方ないと考えあとは細かい条件を詰めるだけになりました。

しかし晏殊の西夏への態度が弱腰だと朝廷内から批判の意見が出ました。

改革が挫折

そのころ朝廷内では范仲淹・余靖・欧陽脩たちが中心になって財政再建のために改革を進めようとしていました(慶暦の新政)。

しかし人員削減や特権階級への課税など、朝廷の人々にとっては嫌な内容が多く猛反発を受けます。

バッシングを受けて左遷

このころ朝廷内では意見の違いで派閥対立が激化。

改革を進めていた欧陽脩が弾劾を起こされ左遷されてしまいます。欧陽脩の次は彼を庇っていた晏殊も批判のターゲットになりました。西夏の件では批判を浴びていました。

もともと貧しい家から出世して仁宗に気に入られていたこともあり妬まれていました。李宸妃の件や、自宅の修理に兵士を使ったことなど、様々な理由で攻撃されます。

一度批判の的になると過去の些細な事や本当か嘘かわからないことも持ち出してバッシングして政敵を潰すのが中国や朝鮮の政治のやり方です。

様々な批判に仁宗も晏殊を庇えなくなりました。

慶歴(1044年)9月。晏殊は諫臣の孫甫、蔡襄から弾劾をうけて工部尚書に降格。穎州に左遷されました。

晏殊の左遷後。西夏との和睦は仁宗の署名が行われて成立。でも慶暦の新政は失敗に終わりました。

晩年

その後、晏殊は禮部尚書や刑部尚書になって。陳州や許州などで勤務。

60歳の時、彼は戸部尚書として永興軍(現在の陝西省西安市)の節度使として任命され、一路都部署や安撫使として活動しました。

その後、彼は河南府兼西京留守に異動。兵部尚書になりました。勲階は開府儀同三司、上柱國まで昇進、臨淄公の爵位が与えられ。食邑一万二千戸、実際の食邑は三千七百戸の領地が与えられました。

中央の政治からは外されましたが待遇は悪くありません。

至和2年(1055年)。晏殊は開封で病死。享年65歳。

彼は司空兼侍中の位を贈られ、諡号は「元獻」とされました。

仁宗は晏殊を弔いに行きましたが、彼の病床を訪れることができなかったことを後悔。特別に朝廷の業務を2日間中止しました。

 

テレビドラマ

孤城閉 2020年、中国 演:喻恩泰

 

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