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高麗 恭愍王(コンミン王)の生涯と最後

恭愍王(コンミンワン、きょうびんおう)は高麗の第31代国王。元朝の影響力を弱め、高麗の王権を立て直そうとした王です。

そのために親元派の有力者を排除し(1356年)、土地や身分をめぐる改革を進めようとしました。ただし国内の反発と戦乱が重なり、最後は宮中で暗殺されてしまいます。

この記事では恭愍王の生涯と彼が行ったことをわかりやすく紹介します。

 

この記事で分かること

  • 恭愍王の家族構成や背景、即位までの経緯
  • 元の影響下にあった高麗社会と王朝の現状
  • 恭愍王による王権回復や改革、国内外の混乱
  • 王の最期と高麗王朝の終焉への道筋

 

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恭愍王のプロフィール

項目 内容
称号 恭愍王(こうびんおう/コンミン王)
名前 王顓(ワン・チョン)
モンゴル名 伯顔帖木児(バヤンテムル)
生年 1330年5月23日
没年 1374年10月27日
在位 1351年〜1374年

 

恭愍王(コンミン王)の家族

父:忠粛王

恭愍王の父は高麗第30代王・忠粛王。改革を目指したものの貴族の反対で挫折。意欲を失い忠恵王に譲位。素行の悪い忠恵王が廃され再び即位するものの政治への意欲は失っていました。

 

母:恭元王后 洪氏

恭愍王の母・洪氏は忠粛王の側室。
姓は洪氏で南陽洪氏の出身とされています。改革を進める辛旽と対立、恭愍王とも疎遠になります。83歳と長命で、恭愍王の死後も王禑を任命するなど影響力を持ちました。

 

正妃(王妃):魯国公主

元の皇族出身。恭愍王と1351年に政略結婚し高麗の王妃となりました。聡明で王からの信頼も厚く、王室内外で大きな存在感を持ちましたが、1365年に出産時に亡くなっています。

魯国公主の生涯は 魯国公主(ノグクコンジュ)は実在する?で詳しく紹介しています。

息子

王子(幼くして死去)
魯国公主の息子。出産時に母子ともに亡くなったとされています。

 

妾:般若

侍女出身。もと辛旽の奴婢。魯国公主の死後に恭愍王に捧げられました。身分が低いため正式な側室とは認められませんでした。

王禑

般若の息子。高麗第32代王。母の地位が低いため表向きは宮人韓氏の息子とされていたといいます。王禑は1374年、父の死後に即位。臣下は親元派と親明派が対立。李成桂に明の遼東軍討伐を命じたものの反乱を起こされ廃位、殺害されました。

王禑の生涯は 高麗 禑王の史実 で詳しく紹介しています。

 

恭愍王の家系図

以下の家系図のように高麗王家と元朝皇室は何世代もにわたって婚姻を行っています。

元と高麗の家系図 5代 世祖クビライ~16代昭宗 26代 忠宣王~33代 王昌

元と高麗の家系図
5代 世祖クビライ~16代昭宗
26代 忠宣王~33代 王昌

 

 

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恭愍王が生きた時代と王としての出発点

恭愍王が即位するまでの高麗と元とは

恭愍王の生きた時代。高麗は元の強い影響下にありました。

元朝(大元ウルス)はモンゴル帝国の中国・モンゴル地域を統治する王朝。モンゴルの大ハーンになったクビライによって創設され、広大なモンゴル帝国の中枢となっていました。

高麗はモンゴル軍の侵攻を経て元宗がクビライに服従。以来、婚姻、納貢、内政干渉などを通じて長く元の従属国という立場に置かれていました。

高麗の王家は何世代にもわたって元の皇族と婚姻を結び。高麗国内には元との結び付きで権力と利益を得る一派が生まれていました。恭愍王が即位した頃、国政はこうした親元派によって支配され、王自身が自由に政治を行うことは難しい状況でした。

10代を元で暮らす

恭愍王は 天暦3年5月6日1330年5月23日)に誕生。

高麗第30代王・忠粛王の三男。同母兄に忠恵王がいます。

1341年に元の大都(北京)に人質として送られ、以後は元の宮廷で暮らしました。

元に滞在中に魏王の娘・ブダシリ(魯国公主)と結婚。

1352年に元の支援で高麗王に即位。王妃ブダシリとともに高麗に戻りました。

恭愍王が即した頃の高麗社会の現実

高麗国内には元の後ろ盾によって特権を享受していた有力者や貴族層が幅を利かせ土地や財産を独占、庶民や下級身分の人々は圧迫されていました。特に奇轍(キ・チョル)ら奇氏一族は、元の皇后となった奇皇后(元順帝の皇后)の実家で、その勢力は絶大でした。

奇氏一族や親元派は王命すらも拒否することができるほどの影響力を持っていました。

 

恭愍王の高麗王としての業績

1356年:親元派の粛清と高麗王権の回復

14世紀中頃からは元朝(大元ウルス)の政情が不安定となり各地で反乱が起き、地方勢力の自立が進みました。恭愍王が王位についた1350年代には元の統治力は明らかに衰えていました。

1356年。このような状況なかで奇轍一族らが怪しい動きを見せ始め。その情報をつかんだ恭愍王は奇轍一族らをおびき出して捕らえ処刑。その協力者たちも継釣っ技と逮捕・処刑しました。

さらに元朝の象徴だった年号や制度を廃止して、長く続いた辮髪や胡服も廃止します。

李成桂ら武人らを採用、元によって奪われていた北方領土(東北面)の一部も奪還することに成功しました。

この改革は、元から自立したいという高麗王朝の長年の悲願を一気に進めるものでしたが、その一方で国内の権門や旧勢力、保守層から強い反発を招くことになりました。

彼らにとっては、これまでの地位や経済的利益を失う危機だったからです。

王妃・魯国公主と恭愍王の個人的な変化

恭愍王の正妃である魯国公主(ノグク公主)は、元朝の皇族の女性です。1351年に高麗に嫁ぎ、王妃となりました。魯国公主は聡明で王に信頼され、高麗の宮廷に新たな風をもたらしました。

二人の間は信頼関係が厚く、恭愍王の親元派排除や自立政策の背景には魯国公主の存在と、彼女を介した元とのパイプも影響していました。

魯国公主は現出身でしたが、恭愍王の反元的な政策にはとくに反対した様子はなく、二人の良好な関係は続きました。

しかし1365年、魯国公主は出産時に命を落とします。この悲劇は恭愍王の心身に深い影響を与えました。

魯国公主の死後、恭愍王は政治への意欲を急速に失い、仏教儀式や内省的な日々に没頭するようになります。

こうした王の変化が、のちの改革失敗や宮廷の混乱につながったとする見方もあります。

 

辛旽の登場と改革:田地・身分の問題への挑戦

魯国公主の死後、恭愍王が頼ったのが辛旽(しんとん、シンドン)という僧侶出身の人物です。辛旽は貴族や既得権益層に属さない新しい人材でした。

辛旽が中心となって土地制度と身分制度の改革が進められました。土地を不当に占有していた有力者から正当な持ち主に土地を返還する政策や、社会的身分の固定化を打破しようとする動きが始まります。

また成均館という教育機関を再編成して身分に関係なく才能ある若者を抜擢する試みも行われました。

しかしこれらの改革は長年の既得権益を守ろうとする旧勢力の激しい抵抗を受けます。王の信頼も次第に揺らぎ、最終的には辛旽自身が告発されて処刑されてしまいました。

 

外敵の侵攻と国内の混乱:紅巾の乱・倭寇・遼東問題

恭愍王の時代、高麗国内では政治改革に加え、外部からの脅威も絶えませんでした。

1359年から始まった紅巾軍(こうきんぐん)の侵入は、高麗の国土を荒廃させ、多くの人命と財産が失われました。

また海からは倭寇(日本の海賊集団)が相次いで襲来、沿岸地域が度々被害を受けました。

このような外敵の侵攻が続くと政権は軍事と治安維持に多大な労力を割かなければならず、土地制度や社会改革といった根本的な問題は後回しになりがちでした。

軍資金や兵糧の確保、復興事業が優先され王の改革は思うように進まなくなりました。

 

恭愍王の最後:1374年の暗殺

辛旽の失脚後、恭愍王の側近には王の政策に反発する貴族や軍人が増えました。

王の支持基盤は極端に弱くなり、宮廷内の政争は熾烈を極めました。最終的に1374年、恭愍王は宮殿内で武官らに襲撃され、暗殺されてしまいます。

この事件は、恭愍王の強引な改革によって利益を奪われた既存勢力の反発が頂点に達した結果です。

王が内官に暗殺されるという大きな事件は高麗王室の権威を失墜させ。以後、重臣たちに主導権を奪われた状態が続きます。やがて高麗の滅亡と朝鮮王朝の建国へと続くことになります。

 

年表:恭愍王の生涯と主な出来事

  • 1351年:恭愍王が高麗王として即位

  • 1356年:奇轍一族を粛清。親元派の排除と国内王権の回復。元から奪われていた一部領土を奪還

  • 1365年:王妃・魯国公主が出産時に死去

  • 1360年代後半:辛旽を重用し土地・身分制度の改革を断行。紅巾の乱や倭寇の侵入、戦乱が続く

  • 1371年:辛旽が貴族の反発により失脚・処刑される

  • 1374年:恭愍王が宮中で暗殺される

 

 

よくある質問(FAQ)

Q:恭愍王はどんな王だったのか?

A:元朝の影響を受けていた高麗を独立させるため、親元派の粛清や土地・身分制度の改革に取り組みました。しかし、既得権益層の反発と戦乱の激化により、政策の多くは途中で頓挫し、最期は暗殺されました。

Q:奇轍や奇皇后はなぜ高麗で力を持っていたのか?

A:奇轍は元朝の皇后・奇皇后の兄であり、皇室との関係を背景に高麗国内で絶大な権力を持ちました。恭愍王による粛清までは王命をも超える実力者でした。

Q:魯国公主はどんな王妃だったのか?

A:元朝の皇族出身で、恭愍王と深い信頼関係にありました。出産時に亡くなり、王に大きな精神的打撃を与えたとされています。

Q:辛旽の改革は成功したのか?

A:一時的には土地や身分制度の是正が進みましたが、貴族層の強い反発を受けて改革は挫折し辛旽自身も処刑されました。

Q:恭愍王の死後、高麗はどうなったのか?

A:恭愍王の死後、高麗は混乱と内紛が続きました。やがて李成桂が実権を握り、1392年に朝鮮王朝が成立しました。

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恭愍王の登場するドラマ

  • 辛旽 高麗中興の功臣  2005-2006年、MBC演:チョン・ボソク
  • シンイ-信義-  2012年、SBS 演:リュ・ドックァン
  • 大風水 2012年、SBS 演:リュ・テジュン
  • 鄭道伝 2014年、KBS 演:キム・ミョンス

 

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高麗の国王
この記事を書いた人

 

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執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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