河崙(ハリュン)は朝鮮王朝の初期に活躍した実在の人物です。
彼は高麗末期の混乱期から朝鮮王朝の建国、そしてその後の安定まで、激動の時代を駆け抜けた策士として知られます。
特に第3代国王 太宗 李芳遠(イ・バンウォン)の右腕として、彼の即位と王権確立に多大な貢献をしました。
この記事では一般にはあまり知られていない河崙の生涯と彼の功績、そして人物像について詳しく解説します。
河崙(ハリュン)の基本情報と生涯の概要
ハリュンとは?
- 姓:河(ハ)
- 名前:崙(リュン)
- 本貫:晋州河氏
- 字:大臨または仲臨
- 号:浩亭
- 生年月日:1348年1月22日
- 没年月日:1416年11月24日
- 没年:68歳
- 功績: 太宗の王位継承支援、六曹直啓制の導入、漢陽遷都の推進など
- 当時の王
- 高麗:31代恭愍王~34代恭譲王
- 朝鮮:初代太祖~3代太宗
主な家族:
- 父: 河倫(ハ・ユン)
- 妻: 成氏(ソンシ)
- 長男 河膺(ハ・ウン)
- 三男 河楫(ハ・チプ)
河崙(ハリュン)の生涯

ハリュンの生家跡
河崙は1347年。高麗の慶尚道晋州で生まれました。父は順興府使を務めた河允潾(ハ・ユンリン)、母は晋州姜氏です。
李仁復(イ・インボク)や牧隠(モクウン)、李穡(イ・セク)のもとで学び、鄭道傳(チョン・ドジョン)や鄭夢周(チョン・モンジュ)、趙浚(チョ・ジュン)らと親しくしていました。
ハリュンは学問に優れていただけではありません。陰陽思想や医術、風水地理にも詳しかったようです。
彼の役人としての人生は31代恭愍王の時に始まりました。当時の権力者 辛旽(シン・ドン)の側近を弾劾し、シン・ドンを批判したため地方に左遷され、その後、朝廷に戻ってきました。
激動の高麗末期から朝鮮建国へ
高麗末期の混乱と新興士大夫との交流
高麗末期。河崙は鄭夢周(チョン・モンジュ)や権近(クォン・グン)といった新興士大夫たちと交流を深めます。
河崙は鄭夢周と同じ立場だったので高麗王朝を倒すつもりはありませんでした。1392年(高麗恭譲王4年)7月に高麗が滅亡すると辞職して故郷に帰ってしまいます。
朝鮮王朝に参加
でも後に李成桂(イ・ソンゲ)の建国した朝鮮に参加しました。
河崙の功績で特に大きなものが、漢陽(ハニャン)遷都です。鄭道伝と共に当初計画されていた鶏龍山への遷都に反対。鄭道伝とともに漢陽への遷都を実現させました。これは後の朝鮮王朝の繁栄を決定づける重要な選択でした。
チョン・ドジョンとの対立
1396年。明との外交問題が起こり、外交文書の執筆者の鄭道伝の派遣を要求してきました。鄭道伝が拒否したので河崙は権近と共に明へ赴き釈明。しかし権近が拘束され、鄭道伝が一人で帰国。再度、明に渡り明の皇帝の誤解を解くことに成功します。
この問題で河崙は鄭道伝を送るべきだと主張したので一時左遷されました。そのため鄭道伝を恨むようになります。
河崙(ハリュン)と太宗 李芳遠の信頼関係
運命の出会い
河崙(ハリュン)は人の観相、人相見に長けていたと言われています。彼はまだ王子だった李芳遠を(イ・バンウォン)一目見て「これほど大成する人物は見たことがない」と確信しました。
そこで李芳遠の舅である閔霽(ミン・ジェ)に懇願して李芳遠に紹介してもらいました。この出会いをきっかけに河崙は李芳遠と親しくなり、彼の最も信頼する側近となったのです。
李芳遠は太祖李成桂の息子の中でも特に野心の強い人物でした。河崙はそんな李芳遠を理解して、彼の夢の実現のために様々な策を考えるようになります。
二度の王子の乱 河崙(ハリュン)の暗躍と策謀
河崙の真価が発揮されたのは第一次王子の乱(1398年)と第二次王子の乱(1400年)です。これらの事件で彼は事実上の指揮官として李芳遠を支え勝利へと導きました。
第一次王子の乱
河崙は鄭道伝が南誾の側室の家で酒宴を開いている情報を入手すると、すぐに李芳遠に伝えました。李芳遠は彼らの殺害を決定。河崙も襲撃部隊に加わりました。この事件で鄭道伝、南誾、沈孝生が殺害。世子だった李芳碩とその兄である李芳蕃も排除され、李芳遠の王位継承への道が開かれます。
第二次王子の乱
第二次王子の乱では、彼は朴苞(パク・ポ)一派の挙兵計画を事前に察知し、先手を打って彼らを逮捕しました。そして李芳遠は朴苞一派を粛清、李芳幹とその息子たちを流刑に処することで、李芳遠の権力を確かなものにしたのです。
これらの事件では河崙はただの助言者ではありません。情報の収集や計画の立案、そして実行までを行い「策謀家」として活躍しました。
河崙と太宗の逸話
正史に書かれた話ではありませんが、河崙は李芳遠の命を救った人物として語り継がれています。
箭串(サルコジ)
太宗と河崙の信頼関係を表す有名なエピソードに「サルコジ」の逸話があります。
第一次王子の乱の後、太祖(李成桂)は李芳遠への怒りから咸興にこもっていました。太祖が漢城(現在のソウル)に帰還するとき李芳遠は父を迎えに出向きます。
河崙は李芳遠に「太上王(テサンワン:太祖)の怒りはまだ収まっていないでしょう。天幕の真ん中の柱は、太く年輪を重ねた密度の高い木材で作りなさい」と進言しました。
李芳遠がそのとおりにすると、怒りに燃えた太祖は李芳遠に向かって弓を射ます。しかし、矢は天幕の太い柱に突き刺さり李芳遠は命拾いしました。
この出来事から、その場所は矢が刺さった場所という意味で「箭串(サルコジ)」と呼ばれるようになったと言われています。世宗の時代にその付近には箭串橋がかけられています。
李芳遠の影武者
太祖が漢城に帰還した後の宴会では河崙は内官に李芳遠の袞龍袍(ゴンリョンポ:王族の衣装)を着せて出席させるよう進言します。酒を勧められた太祖が隠し持っていた鉄槌を振り下ろすと袞龍袍を着た内官は即死しました。これを見て太祖は「すべては天の意思だ」と諦めたと言われます。
これらのエピソードは正史に書かれたものではありませんが。世間では河崙が李芳遠のために働いた知恵者だと思われたことを示す逸話なのでしょう。
朝鮮王朝の礎を築いた河崙(ハリュン)の功績
河崙は太宗即位後も政治に関わり、様々な改革を行っています。
六曹直啓制の導入・強固な王権確立への貢献
河崙は安定した国家運営には強固な王権が必要だと主張しました。彼は六曹直啓制(ユクチョジッケジェ)の導入を提案。六曹の長官が直接王に政務を報告して決裁を受けることで、宰相の権限を大幅に縮小しました。
これにより、王が直接、国政を動かす体制が整いました。
国家財政の安定化にも尽力しました。楮貨(チョファ)の発行を提案。市場での貨幣流通を促進しています。
民衆の不満を直接王に訴えられるよう、申聞鼓(シンムンゴ)の設置を提案。民意を取り入れる方法を作りました。
制度改革
河崙は既に存在していた制度の改革にも積極的に取り組みました。科挙制度では座主門生制(師と弟子の関係が特権化される制度)の廃止を主導。公平な人材登用を目指しました。
国民の身分を管理して徴税や徴兵を効率化するための戸牌法(ホペボプ)の実施にも貢献しています。
外交手腕
外交面では明との関係回復と強化に尽力。幾度となく使節として明を訪れました。彼の明との交渉は外交は朝鮮の安全を保つためにも重要でした。
学問と文化への貢献
河崙は学問や文化の発展にも貢献しました。『東国史略』や『三国史略』といった歴史書の編纂に携わり、自らも『浩亭集(ホジョンジプ)』などの著作を残しています。
人材育成も熱心に行い、彼の門下生からは後に世宗時代の名宰相になる尹会(ユン・フェ)が出ています。
河崙(ハリュン)の思想
しかし良いことばかりではありません。現代的な目で見れば問題と思える部分もあります。それは河崙が熱心な性理学(朱子学)の信者だったのが原因でした。
性理学の理解
儒教には様々な流派があります。朝鮮ではその中でも性理学(朱子学)が主流でした。河崙ももちろん性理学(朱子学)を深く信じています。
河崙は孟子の教えをさらに進め。人は天から与えられた気質が皆違う。愚かさや賢さ、強さや弱さは生まれながらに違うと主張しました。一見すると個性を認めているように思えますが、実際には差別の正当化のための理屈です。これは後の朝鮮の性理学の発展に影響を与えます。
庶子差別建議
太宗の時代。嫡庶(正妻の子と妾の子)の区別が活発に議論されました。最も熱心だったのが河崙です。
河崙は妾の子孫は現職に登用すべきではないと主張。再婚した女性の息子や孫も科挙試験を受験できないようにするよう提案しました。
河崙の時代にはまだ法律化はされていませんが、後に庶子の採用が厳しく制限される法律ができます。河崙の主張はそのきっかけの一つになりました。
仏教批判
河崙は儒学者の立場から死後の世界や予知などのオカルト的なもの否定。仏教や巫女に対しては民衆を惑わすものとして批判。彼は朝鮮初期の代表的な仏教批判論者のひとりでした。ただし河崙自信も仏教の教えを正しく理解していたわけではなく、道教や巫女と同じ死後の世界やオカルト的なものを信じる宗教と思っていたようです。
朝鮮の仏教界は税や兵役が免除される利権団体のような面もあったので、その社会的な問題点も指摘してきしています。
河崙(ハ・リュン)の功績と批判
河崙は朝鮮王朝を築き上げた人物の一人です。当時の王様だった太宗が、彼を「張子房(ちょうしぼう)」という中国の有名な軍師になぞらえて褒めたたえたほど、その功績は大きいものがありました。王朝の基礎をしっかりと作った偉人なのは間違いありません。
でも、河崙に対する評価は良いことばかりではありまえん。大臣でありながら個人的な頼みを聞いたり、国の土地を自分のものにしてしまったり、という批判も受けていました。
河崙は国のために大きなことを成し遂げた一方で、権力を持つ者にありがちな公私混同や不正しがちな部分も持っていたのです。
ドラマのハリュン
- 龍の涙 KBS 1996年 演:イム・ヒョク
- 大王世宗 KBS、2008年 演:チェ・ジョンウォン
- 鄭道伝 KBS、2014年 演:イ・グァンギ
- 六龍が飛ぶ SBS、2015年 演:チョ・ヒボン
- 太宗イ・バンウォン KBS1、2021年 演:ナム・ソンジン
- ウォンギョン tvN、2025年 演:チェ・ドクムン
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