甘露の変(かんろのへん)とは835年の唐で起きた事件。
当時の唐の朝廷は宦官が権力を握っていました。
文宗皇帝は宦官の権力を排除しようとしました。
ところがその計画は失敗。この事件を「甘露の変」と言います。
かえって宦官の横暴が強くなってしまいました。
甘露の変とはどのような事件なのか?なぜ宦官を排除しようとしたのか?なぜ宦官が力を持っていたのか紹介します。
唐は宦官の力が強い
宦官は世界中の多くの王朝にいました。中華王朝、ペルシャ帝国は宦官の歴史は古く。インド、ギリシャ、エジプト、東ローマ帝国、イスラム帝国、トルコ、朝鮮半島にも宦官がいました。
でもほとんどの宦官は宮廷や後宮(ハレム)で働く従者・雑用係・奴隷の扱いです。中華王朝ほど宦官が政治的・軍事的な権力をもった国はありません。
歴代中華王朝の中でもとくに宦官の力が強かったのが後漢・唐・明です。
なぜ宦官が権力を持っているの?
中華王朝は独裁国家
中華王朝は皇帝を頂点にしたピラミッド型の組織。皇帝に権限が集まる仕組みになっています。
逆に言うと、
皇帝に権力が集中しているなら皇帝さえ操れば朝廷を動かせるのです。
だから宦官の弊害が出るのは皇帝の権限が強くて皇族や臣下にあまり力を持たせていない時期。皇帝が歳をとったり、やる気が無かったり、無能だったりして皇帝の自主性が弱くなって誰かの影響を受けやすい時期に起こります。
宦官は皇帝の一番の側近
宦官は宮廷にいて皇帝や家族の直ぐ側に仕えています。家族も同然の間柄なので仲良くなりやすいです。
宦官は基本は皇帝の奴隷です。皇帝やその家族しか頼るものがいません。皇帝が強ければ、宦官は忠実なやつだと思えることでしょう。
皇帝の言葉を伝えるのも宦官の役目です。皇帝の仲介者のご機嫌を損ねたら朝廷でうまくやっていけません。
君主の言葉を伝える仲介者が力を持つのはどの国も同じですが中華王朝は君主の仲介者が宦官なのです。
人間不信の皇帝が宦官に力を与えた
どの国でも謀反は悪いこと。でも中国には謀反を正当化する考え方があります。それが儒学者が広めた「易姓革命(えきせいかくめい)」です。
皇帝に徳が無くなると天の神は別の者に地上の支配を任せる。だから謀反を起こされた者は徳がない。謀反を起こして新しい皇帝になればその人に徳がある。というわけです。
「易姓革命」のおかげで勝ちさえすれば反乱を正当化できます。革命を成功させるためにはどんな事をしても勝たないといけません。だから中国では反乱や殺戮、王朝転覆が起こりやすいのです。
後の時代に忠義や尊王を強調した新儒教(朱子学など)が作られますが、このころはまだそこまでの教えはありません。
そうなると皇帝はいつ反乱を起こされるか不安になります。臣下は誰も信用できません。中華皇帝は人間不信の塊になってしまいます。
でも宦官は子孫を残せません。例え宦官が王になってもその人の代で終わり。中国では父系の血筋が繋がっていないと同じ王朝と認められませんから宦官は自分の王朝を作れません。
だから宦官は皇帝に取って代わろうという意欲が起こりにくいと考えられました。
それなら皇帝も安心して宦官に力を与えられます。
唐の宦官支配
玄宗末期・安史の乱から宦官の時代がスタート
唐で宦官の弊害は9代 玄宗皇帝の晩年から起こり初めます。
高力士という宦官が朝廷で発言力を持っていました。高力士は玄宗の側近。宰相も気を使うほどの実力者ですが玄宗に忠実ですし、高力士の意志で国を動かそうという気持ちはありません。あくまでも玄宗に気に入られることだけを考えている。皇帝の側近が宮廷の中で発言力を持っているという程度でした。
玄宗時代の晩年。節度使の安禄山たちが反乱を起こしました(安史の乱)。
このとき辺境を守る部隊だった神策軍が皇帝直属の軍隊(禁軍)になります。
次の粛宗~代宗の時代は側近の宦官が皇帝を操る時代でした。
12代 徳宗の時代。節度使が反乱を起こし徳宗は長安を捨てて奉天に逃げました(奉天の難)。このとき反乱を起こした武臣への不信感はもちろんですが。口先だけで何の解決策も出せず、状況を悪くするだけの文官にも不信感を持ちました。逆に宦官たちは徳宗を守るために戦いました。
そこで徳宗は神策軍の指揮官に宦官を採用。以後、神策軍は宦官が指揮する軍隊になります。神策軍は唐で最大級の禁軍でした。
こうして唐は宦官が武力を持つ国になります。
14代 憲宗の時代。節度使を抑えるために宦官を監軍として地方の軍に派遣。節度使の権限を弱くして宦官に管理させました。確かに反乱の原因の節度使を弱くすることはできました。
しかし宦官に武力を与え、宦官の武力に対抗できる者がいなくなったらどうなるでしょうか?
宦官は武力を使って皇位継承問題に介入するようになりました。
宦官が次の皇帝を決める
憲宗も宦官に担がれて皇帝になりました。その憲宗は晩年になって宦官の力を抑え込もうとしたので宦官の王守澄(おう・しゅちょう)たちに殺されてしまいました。
王守澄が即位させたのが15代 穆宗です。
穆宗の次は長男の敬宗が継ぎましたが。16代 敬宗は宦官の劉克明たちに殺されました。
宦官にも派閥があります。このとき劉克明派と王守澄派がそれぞれ皇族を担いで争いました。
王守澄派が勝って即位させたのが17代 文宗です。
甘露の変
文宗皇帝は宦官たちの独裁を止めさせたい
宦官のおかげで皇帝になった文宗でしたが。宦官の操り人形では面白くありません。宦官を排除したいと思っていました。
文宗は礼部侍郎・李訓(り・くん)、太僕寺卿・鄭注(てい・ちゅう)とともに宦官抹殺計画を進めました。
宦官の派閥争いを利用して王守澄と仇士良(きゅう・しりょう)を対立させ。王守澄が失脚、死亡しました。
ここまではうまくいきました。
次に仇士良とその仲間を始末することになりました。
鄭注は王守澄の葬儀を利用、そこに集まった宦官を一気に抹殺する計画を立てました。
ところがその計画が成功すると手柄は鄭注のものになります。それでは李訓は面白くありません。
甘露の変当日
そこで李訓は別の作戦を考えました。
李訓は「宮廷の石榴(ザクロ)の木に甘露が降った」と文宗に報告。
ザクロは粒が多いので子宝の象徴で縁起物。甘露(朝露)も縁起物です。おめでたい現象(瑞祥)が起きたのでみんなで見物しよう。という事になりました。瑞祥を確認するのは宦官の役目だったので宦官を集めるには都合がいいのです。
宮廷の庭に幕が貼られ甘露の確認作業が始まりました。李訓は幕の後ろに兵を配置したのですが、風が吹いて幕がめくれあがり兵がいるのがバレてしまいます。
おどろいた仇士良たちは逃げ出して文宗のもとに向かい、文宗の身柄を確保。
仇士良は神策軍を出動させて李訓たちを鎮圧。鄭注や多くの大臣たちも殺されました。死者は数千人にもなったといいます。
仇士良は李訓や鄭注の企みに文宗が関わっていたことは気づいていたでしょう。でも仇士良はあえて文宗を生かしました。
味方を失った文宗は宦官の操り人形になって生きるしかありません。
この事件を「甘露の変」といいます。
甘露の変の後
甘露の変から4年後。
文宗は病気になり療養していました。そこに学士の周墀(しゅう・ち)を呼んでこんな話をしました。
文宗「朕は歴代のどの皇帝に似ているか?」
周墀は恐れ多い質問だったので伝説上の名君「堯と舜に似ています」と言いました。
文宗「堯舜だと?朕は周の赧王、漢の献帝に似てはいないか?」
周の赧王、漢の献帝はふたりとも王朝を滅ぼした最後の君主です。
周墀「彼らは亡国の主です。陛下の聖徳には比べられません」
と気を使いましたが(皇帝の話相手も大変です)。
文宗「赧も献も諸侯の支配をうけた。今、朕は家奴に支配されておる。これを似ていないといえるのか」
と涙を流し。周墀も地面に這いつくばって泣いたといいます。
家奴とは宦官のことです。これを見ても宦官は皇帝一家に仕える奴隷の感覚だったことがわかります。
文宗には皇太子 李成美(り・せいび)がいましたが。仇士良は皇太子を無視、文宗の弟 李瀍(り・てん)を皇太弟にしました。
840年。失意のまま文宗が病死。享年30歳。
文宗の死後、仇士良に担がれた李瀍が即位。18代皇帝 武宗になります。
20代皇帝 宣宗も宦官の馬元贄が擁立しました。
その後も宦官の権力は続きます。
しかし神策軍は堕落。
22代皇帝 昭宗まで宦官が皇帝を擁立する時代が続きます。
そして昭宗皇帝の時代の903年。圧倒的な武力を持った節度使 朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)が宦官を粛清。神策軍を解体しました。これで唐から宦官の弊害はなくなりました。でも更に悲劇が襲います。
907年。朱全忠によって唐が滅ぼされ、後梁が建国しました。
唐の後半はほとんど宦官に支配された時代といってもいいかもしれません。
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