『シンイ・信義』キ・チョルのモデル 奇轍は奇皇后の兄です。元の後ろ盾で高麗国内で権力を得た高官でした。妹の権威を利用して横暴を働きましたが、1356年に恭愍王によって粛清されました。
この記事では、キ・チョルのモデルとされる高麗後期の高官・奇轍(きてつ/기철)について、史書『高麗史』の記述を軸に、生涯と最期、そしてドラマとの違いを分かりやすく紹介します。
この記事で分かること
- 奇轍が「奇皇后の兄」として影響力を持った理由
- 『高麗史』に残る奇轍一派の問題行動(土地・人の収奪など)
- 1356年、恭愍王に不意を突かれて粛清された最期の流れ
- 『シンイ・信義』のキ・チョルが武人ラスボス化している脚色ポイント
史実の奇轍(キチョル)とは
ドラマ『信義(シンイ)』のキ・チョルは、史実の人物奇轍(きてつ/기철)をモデルにしています。
奇轍は高麗後期の高官で、元(げん)の皇后になった奇皇后(きこうごう)の兄です。
史書『高麗史』では、奇轍は「元の力を背負って高麗の政治に口を出し、土地や人を奪って恨まれ、最後は恭愍王(コンミンワン)に殺された人物」として書かれています。
プロフィール
- 名前:奇轍(きてつ/キ・チョル)
- 別名:伯顔不花(はくがんふか/バヤン・ブカ)
- 称号:徳城府院君(トクソンプウォングン)
- 生年:不明
- 没年:1356年(高麗・恭愍王5年)
- 出身:幸州(こうしゅう)
- 立場:高麗の官僚。奇皇后の実兄
キチョルの家系図

キチョル-奇皇后の家系図
生涯
奇皇后の兄
奇轍は奇子敖の次男、母は李行倹の娘である李氏。妹の奇氏は貢女で元朝に連れて行かれ、順帝の側室となりました。彼女の産んだ子アユルシリダラが皇太子となると奇氏は第二皇后になります。
これによって父の奇子敖は栄安王に、母の李氏は栄安王大夫人に追封され。奇轍も元朝から征東行省参知政事・徳城府院君に任命され、弟の奇轅は翰林学士・徳陽君となりました。
この時点で奇轍は「皇后の兄」であり、「皇太子の母方の伯父(おじ)」となったわけです。
妹の権威を利用して高麗で横暴に振る舞う
当時の高麗は元の影響を強く受けていました。そのため奇轍は高麗で暮らしていても元の皇室の親族として扱われ、強い発言力を持つようになります。
史書『高麗史』によれば、奇轍は趙日新、権謙、盧頙らと共に高麗の国政を独占。奇轍だけでなく兄弟や親戚までが「皇后の力を頼みにして好き放題にふるまった」と書かれています。
奇轍は何をしたのか?
奇轍や兄弟は元の皇后の兄という立場を利用して横暴に振る舞い。身内や手下たちも便乗して好き勝手に悪事を働いていました。
史書には奇轍の兄弟や手下たちが次のような行動をしたと書かれています。
- 他人の土地を奪う
- 民を支配下に置き家の労働力として使う
- 一味の者が王命を偽って他人の妻を奪った
- 暴力や乱暴を働く。
これらは「噂話」ではなく、国家の記録の中で「問題行動」として書かれている内容です。
そして奇轍が殺されたあと、国は「奇轍たちが奪い取った土地と人を、元の持ち主に返すための役所」を作っています。
この後処理が行われた時点で、奇轍の勢力が土地や人を奪っていたのは、王が公的に認めた事実だったと分かります。
なぜ権力を持っていたのか?
奇轍は高麗の臣下です。その彼らが王を脅かす力を持てたのは以下の理由があります。
- 当時の高麗は元の支配下にある国だった
- 奇轍の妹が元の皇太子を産み皇后になった。
- 奇轍は「皇太子の母方の伯父」になった
- その立場のおかげで元から官職や後ろ盾を得やすくなった
- 高麗の中でも「元の皇室の親族」として扱われた。
- 元の皇族の親族は高麗の王族より上。
奇轍の権力はすべて奇皇后のおかげ。本人の武力や才能だけで生まれたものではありません。
恭愍王との対立
奇一族暗殺計画から逃れる
恭愍王(コンミンワン)が即位。
恭愍王が征東行省へ祝賀に訪れた際、轅が王に近づこうとしましたが、王は衛士に命じて轅を近づけませんでした。
趙日新は奇氏一族を排除しようと暗殺を試みました。この時、奇轍の弟・奇轅は殺害されましたが奇轍は逃亡。その後、元朝が趙日新を逮捕して処刑したため奇氏一門は権力を回復。
その後、奇轍は大司徒に昇進します。
奇轍(キチョル)の最後
奇轍は自分達が周囲の反感を受けているのを知っていました。そこで権謙、盧頙と協力して討たれる前に挙兵して反対勢力を倒そうとします。
しかしその計画は恭愍王に知られてしまいます。
1356年、恭愍王は宮廷で宴会を開くふりをして奇轍たちを呼び出します。奇轍が到着すると、王は伏兵に命じて奇轍を不意打ちで倒し、その場で殺しました。
同じ日に奇轍の仲間(権謙・盧頙など)も次々に捕まって殺され、奇轍の一族も追い詰められていきました。
最終的に奇・盧・権の三家の者は捕らえられ処刑、財産は募集されてしまいます。
奇轍はなぜ王に敗れたのか?
王を凌ぐ力を持っていた奇轍たちはなぜ敗れてしまったのでしょうか?それには恭愍王の計略がうまくいったからというのもありますが。次のような理由もあります。
- 元の力が弱まっていた
1350年代。元は国内で反乱や政変が相次ぎ、以前のように高麗に強く干渉する力を失っていました。奇轍が後ろ盾として頼った元の影響力が実際には弱まっていたのです。 - 奇轍の焦り
元の力が弱まっているのを知った奇轍たちは、後ろ盾を失えば必ず報復があると考えました。そこで挙兵計画を立てます。この焦りが王に付け入る隙を与えてしまいます。 - 王が奇轍の計画を知り素早く動いた
しかし恭愍王は奇轍ら親元派の不穏な動きをしていることを事前につかんでいました。王は宴会を開くと言って奇轍やその仲間を宮廷に呼び出し、先に到着した奇轍たちを伏兵で不意打ちしました。王の側近たちは、他の勢力が合流する前に迅速に動いて奇轍たちを個別に捕らえてその場で殺害。そのまま残党も次々に捕らえて処刑しました。 - 粛清後の徹底した後始末
王は奇轍の仲間や家族も徹底的に追及、逃亡者を捜索して処刑。さらに奇轍たちが奪った土地や人を元の持ち主に返す制度を整えました。反撃する力が残らないよに徹底的に粛清します。これによって奇轍の勢力は一気に消え、反撃の機会がなくなりました。
一番大きなのは元の支配力が弱まっていたことでしょう。奇轍の権威は見かけほど絶対ではありませんでした。奇轍自身もそれは感じておりそれが焦りとなります。王はこの変化を的確に読み取り、国内の最大の障害を一気に排除したのです。
ドラマ『信義(シンイ)』のキ・チョルは史実とどう違う?
『信義(シンイ)』は歴史をベースにしたファンタジードラマです。主人公のチェ・ヨンは高麗の武人ですが現代から来た医師ウンスなど、ファンタジーな要素も盛り込まれています。
そのためキ・チョルも史実とはかなり違った描かれ方をしています。
1. ドラマのキ・チョルの特徴
ドラマではキ・チョルは高麗の朝廷内で権力争いをする権力者として描かれます。また妹を元に差し出したのは彼の思惑だったと語られています。
史実の奇轍は彼自身が朝廷の中枢にいる重臣というわけではなく、奇皇后の権威を縦にして横暴を働いていた人物でした。また奇轍の妹が貢女になったのは事実ですが、それが奇轍の思惑だったかどうかは不明です。
3. 争い方や権力の使い方の違い
ドラマのキ・チョルは自ら戦う武人で、武力や陰謀で周囲を圧倒、典型的な「ラスボス」型です。
一方で史実の奇轍は元皇后の兄という血縁と元の後ろ盾が最大の武器でした。実際には自分の武力や武術の技で敵と戦っていたわけではありません。
また史実の奇轍たちは土地や人を奪ったり、王の権威を無視して振る舞うなど。日頃の行ないが批判されていました。日常的に宮廷内部で権力闘争をしていたわけではありません。
ドラマではそういった日頃の行いよりも、もっとストレートに宮廷での権力争いが描かれています。
最期の違い
ドラマではキ・チョルは主人公たちと戦って倒されます。
史実の奇轍は1356年に謀反を計画するものの、恭愍王が用意した宴会に呼び出され不意打ちで殺されました。王の周到な計画によって奇轍やその一族をまとめて粛清したのです。反撃の機会もなく短期間で勢力を失いました。
まとめ
『信義(シンイ)』のキ・チョルは史実の奇轍の皇后の兄として権力を振るった部分をもとにしていますが、性格・行動・最期のすべてが脚色されています。
でも歴史的な背景を知ると、なぜこの人物がこれほど力を持っているのか?どれほど恨まれていたのかが分かり。さらにドラマが楽しめると思います。
FAQ(よくある疑問)
Q1. キ・チョル(奇轍)は本当に奇皇后の兄ですか?
A. はい。奇轍(キ・チョル)が奇皇后の兄として扱われたことは『高麗史』にかかれています。
Q2. 史実の奇轍はどうやって倒されたのですか?
A. 1356年。奇轍が挙兵しようと計画していた所。恭愍王に知られてしまい逆に曲宴におびき出されて殺害されました。
Q3. ドラマで徳興君が早くから出てくるのは史実と矛盾しませんか?
A. 時系列の圧縮です。史実でも「徳興君を担ぐ動き」は知られますが、ドラマは中盤からかりやすい政争のカードとして前倒しで使っています。
参考
- 韓国学中央研究院『韓国民族文化大百科事典』:기철(奇轍)項目
- 韓国史データベース:『高麗史節要』関連ページ(1356年の奇轍勢力除去・教書など)
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