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金尙魯(キム・サンノ)は思悼世子と対立して死に追い詰めた

5 李氏朝鮮の重臣

金尙魯(キム・サンノ)老論僻派の中心的な人物。英祖の時代に左議政や領議政治をつとめました。

思悼世子と対立し、英祖に思悼世子の悪い行いを誇張して伝え、思悼世子処罰の原因を作った人物だと言われます。

韓国時代劇「秘密の扉」では老論派のトップはキム・テクですが、キム・テクは架空の人物です。キム・テクの立場にあるのが金尙魯(キム・サンノ)になります。

史実の金尙魯はどんな人物だったのか紹介します。

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金尙魯(キム・サンノ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1702年
没年月日:1766年

名前:金尙魯(キム・サンノ)
号:霞溪
父:金楺
母:宋氏(宋搏の娘)
妻:

子供:息子4人。

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に21代英祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

 

父は大提学を勤めた金楺。弟に左議政をつとめた金若魯がいます。

1734年(英祖10)。科挙に合格。芸文館検閲(正九品)になりました。

司憲府持平、司諫院正言(正六品)などを歴任。

1742年。江原道観察使になり、飢饉に苦しむ民衆を救済するように上訴しました。

1744年。承旨になりました。武科の試験に弊害が多いため正しく試験をするように提案しています。

慶尚道観察使になり、災害で被害にあった人々を救済しました。

1745年。漢城府右尹、兵曹判書などを歴任。

1749年。工曹判書をつとめていたとき、英祖の進める蕩平策(各派閥から均等に役職を選ぶ方法)に賛成し司諫院から弾劾を受けましたが、英祖が弾劾を退けました。

思悼世子との対立

1749年。英祖は思悼世子に代理聴政させようとしましたが、金尙魯は反対しました。英祖は反対を押し切り思悼世子に代理聴政をさせました。

思悼世子が英祖のかわりに政治を行いましたが、思悼世子と意見があわず対立しました。もともと金尙魯たち老論派は側室から産まれた思悼世子を見下していました。

洪啓禧、金亀柱、洪麟漢らとともに思悼世子と対立、思悼世子の非行を英祖に報告しました。

老論派でも思悼世子の妻の祖父・洪鳳漢などは、思悼世子を助けて力を得ようとしていました。老論派内部でも派閥争いがおこりました。

1752年に右議政になりましたが、1753年に剥奪されました。

1754年には左議政になりました。

1759年には領議政になりましたが、1ヶ月で思悼世子の母方の祖父・洪鳳漢が領議政になりました。しかしすぐに領議政にもどりました。新しく王妃になった貞純王后とともに思悼世子をおとしいれるため英祖に告げ口をしました。

確かにこのころの思悼世子は厳しい英祖や、重臣たちの攻撃がストレスになって精神的に不安定になり行動がおかしくなっていました。思悼世子の行いを誇張して英祖に伝えていたのです。

1762年。洪啓禧、洪麟漢とともにに思悼世子の行いを大げさに英祖に伝え、思悼世子処分に積極的に関わりました。

その後、英祖が思悼世子の処分を後悔するようになると、世子を補助する役目を怠ったとして弾劾を受け清州にながされましたが特命で釈放されました。

その後、奉朝賀(功績のある重臣がなる名誉職。とくに権限はない)となりました。

1766年。死亡。享年65歳。

1776年。正祖が即位すると、英祖と思悼世子を仲違いさせて思悼世子を殺した張本人として、官職を剥奪されました。彼の息子と兄弟たちは流刑になりました。

正祖は英祖からイ・サンに「お前の父を殺したのは金尙魯だ」と教えられていたようです。

テレビドラマ

秘密の扉 2014 SBS 演:キム・ハギュン

 

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