王昭(ワン・ソ)は高麗の初代国王・王健の4男。
4代国王・光宗(クァンジョン)です。
高麗の基礎を作った有能な王です。その一方で家臣や王族までも処刑する恐ろしいイメージもあります。
光宗までの高麗は豪族たちが力を持つ古代国家のようなものでした。王がいても豪族たちが反対すれば何もできません。でも光宗は国王がリーダーシプを持って国を治める新しい形を作ろうとしたのです。
王の力を強めるため反対する者は容赦なく処刑しました。しかし晩年は罪のない者まで処刑してしまうこともありました。冷酷な一面もあります。
史実の光宗(クァンジョン)はどんな人物だったのか紹介します。
光宗(クァンジョン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:925年
没年月日:975年7月4日
名前:王昭(ワン・ソ、おうしょう)
称号:光宗(クァンジョン、こうそう)
父:太祖(王建)
母:神明順聖王后劉氏
正妃:大穆王后 皇甫氏
側室:
慶和宮夫人 林氏 第2代国王恵宗の娘
賢妃金氏
子供
景宗 第5代国王
孝和太子(早世)
千秋公主
寶華公主
文徳王后(第6代国王成宗の正妃)
高麗王朝、初代国王・太祖(王健)の4男です。
日本では平安時代になります。
太子時代の王昭(ワン・ソ)
王昭(ワン・ソ)は高麗王朝の初代国王・太祖(王健)の4男として産まれました。
母の神明順聖王后劉氏(シンミョンスンセイワンフ・ユ氏)は高麗北部の有力豪族・劉兢達(ユ・グンダル)の娘。
ユ氏の産んだ息子の中でも三番目。同母の兄にも王泰(ワン・ス)、王堯 (ワン・ソ、後の定宗)がいたことから王位継承の順番は低かったのです。
しかし、太祖(王健)のあとを継いだ恵宗(ワン・ム)が病弱なこと。ワン・スが若くしてなくなったことから、有力な王位後継者の一人とみられるようになりました。
兄のワン・ヨは頑固で人の意見を聞かない人でした。それに対しワン・ソは緻密で慎重ですが、機会を得ると豪放で勇ましい性格だったといいます。
太子時代、ワン・ソはワン・ヨとともに王族を支える中心人物でした。ワン・ヨ(定宗)の即位にも大きな働きをしています。
945年。同母兄の定宗が即位しました。しかし病気に悩まされていた定宗は早くから王位を弟に譲ることを決めていました。
また、資質だけでなく容姿も優れていたといいます。
949年。定宗が亡くなると、ワン・ソが即位しました。
光宗(クァンジョ)の時代
光宗は太子時代に自分たちに縁のある太子を王にしようと暗躍する豪族を見て豪族が王室を脅かす存在になると考えました。
また兄たちは王になったものの重臣に実権を握られていました。そのため兄たちはたいした働きはできませんでした。
そのため光宗は強い国王を目指しました。とはいっても兄たちを操っていた重臣たちをそう簡単には服従させられません。最初のころは重臣たちの言うことを聞きながら、強い王になるための方法を模索していました。唐の太宗が重臣たちと議論した内容が書いてある「貞觀政要」という書物を熟読して勉強しました。
王になって7年がすぎると光宗はそれまで温めていた改革案を実行に移します。
仏教の普及
光宗は民心を安定させなければどんなによい政策も失敗すると思っていました。そこで光宗は仏教を広めることで民衆の心の拠り所にしました。
科挙の実施
唐の制度を見習って科挙の制度を取り入れました。それまでの高麗では豪族やその関係者が役人になっていました。豪族たちの力がそのまま宮中の決定に影響したのです。
そこで豪族とは縁のない者を採用する手段として科挙を始めました。武力を持つものが政治を行うのではなく、学問や法律を身に着けた者が民衆を治める時代になったのです。
中国から帰化人を積極的に向かい入れました。中国の王融(ワン・リュン)、雙冀(サン・ギ)達などがそうです。彼らの意見を取り入れて光宗は改革案をまとめていきます。帰化人を優遇したため職を失った豪族は不満を持ちました。豪族が反乱を起こす原因にもなります。
奴婢按検法(ノビアンゴンホブ)
光宗は豪族が力を持っているのは兵力があるからと考えました。豪族は過去の戦いで捉えた捕虜。借金を返せなくなった者を奴婢にしているのです。奴婢は戦争が起きると兵士になりました。普段は奴婢に田畑を耕せて小作料をとっていました。奴婢が豪族の武力と経済力の元になっていたのです。
そこで豪族の持っている奴婢を調べ、戦争で捕虜になったものと借金で奴婢になったものは身分を平民にしました。奴婢が減れば兵士も減り豪族の力も弱まります。
もちろん豪族たちは抵抗します。光宗は反対するものは解雇して帰化人を採用しました。反対するものがいなくなっても困らない仕組みを作りました。
多くの奴婢を持っていた豪族ほど大きなダメージを受け。豪族たちの力は弱まりました。科挙によって採用された役人に仕事を奪われるものもいました。
反対する豪族たち
豪族たちは光宗の改革で力を失いつつありました。そこで豪族たちは王族や王妃まで味方につけ反対します。それでも民衆の支持を取り付けた光宗は改革を続けます。
光宗は抵抗する豪族は武力で鎮圧しました。奴婢按検法で兵士が減っていた豪族は光宗の軍と戦っても勝てません。
それでも豪族たちの反発は続きます。予想していない問題も起きました。奴婢だったものがかつての主人の誹謗中傷を広めて争いになったり。光宗が採用した勢力と豪族たちとのあいだで政治が混乱したりしました。
結局、6代成宗の時代になって奴婢按検法は廃止になりました。以後は豪族が奴婢を持つ時代になり。李氏朝鮮まで続きます。
容赦のない粛清
光宗の目指した改革は急激なものでした。反対する人々も大勢います。高麗の建国に貢献した豪族や王族もいました。反対するものがいれば功績のあるものでも容赦なく処刑しました。豪族だけでなく王族も粛清の対象になりました。王族の中には豪族と親類関係になり光宗に反対するものもいたからです。
訴えられるもので牢がいっぱいになったと記録されています。中には無実の者でも処刑される人もいました。
当然、光宗に反発を持つものも出てきます。光宗は王宮の改築のため離宮に引越ししました。離宮にとどまって命令を出していました。身の危険を感じていたからだとも言われています。
二つの側面のある強い王
光宗の行った改革はさまざまな副作用もありました。とはいえ、光宗の時代に高麗の基礎が作られ王が安定した政治を行うことが出来るようになったのも事実です。
身内にまで行う容赦のない粛清と強い王を中心にした安定した社会。これは李氏朝鮮の太宗や世祖が目指したものに似ています。強いリーダーと冷酷な権力者の二つの面を持つ点も似ています。
しかし太宗や世祖の行った粛清が個人的に反対する政敵を消しただけだったのに対し、光宗が行った粛清はさらに大規模なものでした。豪族が乱立する古代国家から中央集権的な国に移行するためにはどこかで大きな改革が必要です。それを成し遂げようとしたのが光宗です。
テレビドラマ
太祖王建 2000 KBS 演:キム・ジェヨン
光宗大王 帝国の朝 2002年 KBS 演:キム・サンジュン
千秋太后 2009年 KBS 演:チョン・スンオ
輝くか、狂うか 2015年 MBC 演:チャン・ヒョク
麗・花萌ゆる8人の皇子たち 2016年 SBS 演:イ・ジュンギ
ワン・ソが登場するドラマは”麗・花萌ゆる8人の皇子たち”
宮中でおきていた王族争いをラブロマンスとして描いた韓国ドラマ。
このドラマではヒロインヘ・スに心をよせる王子という設定です。
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