高麗の顕宗(けんそう)は第8代国王。
両親は王族でしたが周囲から認められない関係でした。不義密通の子と疎まれ少年時代は恵まれない環境で育ちました。王になるはずのない立場でしたが。
康兆(カン・ジョ)のクーデターで王になりました。でも重臣たちに担がれているので権力のない王でした。
在位中に2度の契丹との戦争があり、姜邯賛(カン・ガムチャン)たち優れた臣下たちの活躍で契丹を退けることに成功。ところが高麗の消耗も激しく結局は契丹に服従します。
本人の業績はあまり目立ちませんが、その境遇や生きた時代は興味深いです。
史実の顕宗 王詢(ワン・スン)はどんな人物だったのか紹介します。
高麗 顕宗の史実
いつの時代の人?
生年月日:992年8月1日
没年月日:1031年6月17日
在位期間 1009年3月2日 – 1031年6月17日
名前:王詢(おう・じゅん、ワン・ジュン)
称号:顕宗(けんそう)
即位前:大良院君
父:王郁(おう・いく、ワン・ウク)安宗:追尊
母:献貞王后 皇甫氏(景宗の妃)
妻:
元貞王后、元和王后、元成王后、元恵王后
子:6男8女
徳宗、靖宗、文宗 など
彼が生きたのは主に高麗王朝の6代成宗~8代顕宗の時代。
日本では平安時代の人になります。
望まれない子供
王詢(ワン・ジュン)は992年に生まれました。
王詢は高麗の建国者、太祖 王建(ワン・ゴン)の孫。
父は王郁(ワン・ウク)。太祖 王建の息子、4代 光宗の異母弟。
母は献貞王后(孝粛王太后)皇甫氏。5代 景宗(けいそう)の妃でした。
献貞王后は夫の景宗が死亡した後、王輪寺の南にある自宅で過ごしていました。王郁はその近くに住んでいて、二人は親しくなって何度も会っていました。
ところが王郁が家に泊まりに来た日。使用人が庭で焚き木をしていたところ火事になってしまいます。心配してやってきた成宗に王詢の存在がばれてしまいます。
王郁は元王妃との私通した罪で流罪になりました。
ショックをうけた献貞王后は王詢を出産後、死亡しました。
成宗は王詢を乳母に預けて育てさせました。ところが王詢が2歳になったころ親を恋しがるというので、配流先の王郁に戻しました。
4歳のとき王郁が死亡。王詢は王宮で育てられました。
997年。成宗が死亡。成宗の長男・穆宗(ぼくそう)が9代高麗王になりました。
1003年。穆宗は王詢に「大良院君」の称号を与えられました。穆宗には子供がいなかったので王詢は王位を継ぐ資格があると考えられました。
暗殺の危険
1006年。ところが穆宗の母・献哀王太后(千秋太后)と愛人の金致陽(キム・チヤン)は二人の間にできた子供を次の王にしようとしました。
王詢は寺に預けられました。
献哀王太后と金致陽は王詢を暗殺しようとしました。でも王詢は穆宗や僧侶たちに助けられました。
1009年。康兆(カン・ジョ)が反乱を起こして金致陽を殺害。その派閥を処刑しました。
ところが康兆は強引に穆宗退位させ。王詢を担いで王(顕宗)にしました。このとき顕宗は18歳でした。
顕宗の時代
契丹(大遼帝国)との戦いのきっかけ
1009年。顕宗(けんそう)は王になりましたが権力は康兆が握っていました。
高麗は契丹に使節を派遣。「王訟(穆宗)が死亡して王詢(顕宗)が即位した」と報告。康兆が穆宗を殺したことは秘密にしていました。
1010年。高麗国内で女真人の使者95人を殺害する事件が発生。高麗朝廷は使者を殺害した武将2人を追放しました。女真人は報復で契丹に「康兆が王訟(穆宗)を殺して王詢(顕宗)を即位させた」と報告。
契丹は「契丹が承認した王を廃するのは契丹への反逆行為だ」として高麗攻めを決定しました。でもこれは高麗を攻める口実です。
高麗成宗の時代。高麗と契丹は戦いました(第一次高麗契丹戦争)。その結果、契丹は高麗が江東六州の領有を認める代わりに高麗は契丹を宗主国と認め宋と断交。宋の元号を使うと決めました。
ところが高麗は約束を破り、その後も宋に朝貢を続けていました。契丹も高麗が宋と国交を断っていないのは知っていました。契丹の聖宗・耶律文殊奴(やりつ・もんじゅど)は宋との戦いを優先。その決着がついた後。高麗に宋への朝貢をやめさせることにしました。
8月。高麗が契丹に使者を送りました。でも契丹に足止めされて帰ってきません。
高麗は契丹が攻めてくると判断。康兆が営都統使(最高司令官)になり、30万人を動員。契丹を迎え撃つ体制を整えました。
第二次高麗契丹戦争
いきなり康兆が戦死
10月8日。契丹から使者が来て遼聖宗が出陣したと知らされ、顕宗は和平の使者を送りました。でも使者が契丹に拘束されてしまいます。
11月10日。契丹軍が鴨緑江を渡りました(高麗が渡河を知ったのは11月16日)。
高麗軍は契丹軍を迎え撃ちましたが各地で敗北。指揮していた康兆が戦死しました。
契丹軍は西京(平壌)を包囲。さらに首都・開京(開城)に契丹軍が迫ってきました。
都を捨てて逃亡
大臣の姜邯賛(カン・ガムチャン)の進言に従い顕宗は開京からの避難を決定。
12月28日夜。妃や蔡忠順、智蔡文、金應仁たち大臣と護衛兵50人あまりを連れて開京を脱出、南に逃げました。民を捨てて王が真っ先に逃げるのは高麗も朝鮮も同じです。
翌日。顕宗が積城の丹棗駅に来た時、現地の兵に矢で撃たれました。でも智蔡文が撃退。その後も何度か危険な目に会いましたが護衛に守られて無事でした。顕宗一行が戦っていたのは契丹兵ではなく高麗人です。
顕宗は河拱辰を和平の使者として派遣しました。
当初、遼聖宗・耶律文殊奴は12月中に帰る予定でした。ところが高麗軍の思わぬ抵抗にあい1月まで延期することにしました。
1011年1月1日。開京が陥落。
1月13日。顕宗たちは羅州(朝鮮半島の南の端)に到着しました。
契丹との和平
開京が陥落した後も西京(平壌)では抵抗が続いていました。西京(平壌)は川と山に囲まれた天然の要害。高い城壁に守られているので守りは堅いです。
騎馬遊牧民族は渡河と攻城戦が苦手。さらに真冬に大雨が何日も続き、馬やラクダは疲れ果て契丹軍は戦意を失っていきます。すると一度は降伏した都市で次々に反乱が発生。
ここで契丹陣営にとどまっていた河拱辰が降伏を願い出ると遼聖宗・耶律文殊奴はこれを認め。第一次遼麗戦の条件(宋との断交、契丹の年号を使う)の他、毎年の朝貢、顕宗の入朝、江東六州の返還を条件に撤退を決定しました。
契丹が撤退する時、開京の街は破壊され焼かれました。
1月15日。聖宗は鴨緑江を渡って帰りました。
聖宗が去ったあとも1月末まで各地で戦闘が続きました。
戦いは終わっても次の戦いに向けた準備は続く
顕宗は契丹軍が鴨緑江を渡ったのを知ると開京に戻ると決定。
2月23日。顕宗は開京に到着。新たに人事を行って政治にあたらせました。
4月。契丹との関係改善のため王瞻を謝班師(使者)として派遣しました。聖宗は顕宗に契丹に来るように要求。高麗王の入朝が和平の条件だったからです。
でも高麗は「王が病気だから」という理由で断りました。高麗には最初から約束を守る気はありません。
そこで聖宗は高麗に江東六州の返還を要求しました。
1013年。契丹は江東六州を受け取るために耶律資忠を高麗に派遣しました。受け取りの使者が来たということは高麗の使者は土地返還するとでまかせを言った可能性が高いです。もちろん高麗は返す気はないので譲渡を拒否。鴨緑江周辺に城壁を作って防御体制を整えました。
資金が底をついて軍の反乱
高麗では相次ぐ戦争のために軍備を増やしました。
国庫が底をつき役人の給料が不足しました。そこで中樞院使の張延祐と皇甫俞義は軍の永業田を没収して役人の給料の財源にするよう進言。すると上将軍の金訓、崔質たちは普段から文官と武官の賃金格差に不満があるのにさらに減らされて怒りました。
1014年11月。兵が反乱を起こして宮中に乱入、張延祐、皇甫俞義を捕らえ、顕宗と直談判しました。
顕宗は軍の要求になすすべなく張延祐、皇甫俞義を追放。武臣に文官の位を与えるのを許可しました。この決定により武官の地位が上昇。後に武官が政治を動かす原因になります。
ただ、このときはあとで将軍たちを宴会に誘って酔ったところを殺害。後の武臣政権のような軍の独裁は免れました。
契丹と断交
尹徵古、郭元を宋に派遣。契丹への朝貢を停止しました。
1015年。契丹から江東六州の返還要求のためにやって来た使者を拘束。
1016年。契丹の年号の使用をやめて宋の年号を使用しました。
この間も各地で高麗と契丹の戦闘は起きていました。
高麗が契丹に逆らう理由
宋は1004年に契丹に敗北。宋に服従していました。高麗が使者を送っても「北(契丹)と面倒は起こすな」とクギを刺されました。
それでも高麗がここまで契丹に反抗するのは幾つか理由があります。
高麗は宋に習って国作りをして儒教を取り入れ。宋が文明国の中心。北方の遊牧民や狩猟民を「人面獣心」と呼んで差別していました。高麗人は自分たちが偉いと思っているので遊牧民への差別意識が強いのです。
渤海が契丹に滅ぼされ。朝鮮半島に渤海の難民が押し寄せました。高麗は契丹に対抗するため渤海遺民を受け入れ兵士にしました。渤海人は高句麗・靺鞨の末裔なので戦いに強いです。当然彼らは反契丹感情が強いです。
高麗が対契丹戦で善戦できたのは渤海遺民の活躍が大きかったのでしょう。
なにより建国者 王建は「訓要十条」を作り。その中で契丹を「獣の国」と呼んで「決して契丹の文化風習を真似ないように」と書き残しました。
だから契丹に従うのはありえないのです。
契丹との関係は破綻しました。
第三次高麗契丹戦争
契丹が危惧していたのは渤海勢力の復活。さらに契丹と国交を断った高麗が女真や渤海遺民と協力して反契丹勢力の中心になることでした。
江東六州は女真人の居住地で契丹人の土地ではありません。契丹にとって重要なのは北東部の安定でした。
1018年10月。遼聖宗は高麗攻めを決定。開京を第一の攻撃目標にしました。
12月。蕭排押が率いる10万(号数なので実際にはもっと少ない)の契丹軍が鴨綠江を渡りました。
高麗は上元帥の姜邯賛、副元帥の姜民瞻たちが20万の軍を率いて迎え撃ちました。
契丹軍が高麗に侵入、各地で戦闘を行いながら開京(開城)に向かってきました。
蕭排押率いる契丹軍が開京から100里(約40km)の所に来ました。顕宗は今回は逃げるのは間にあわないと思ったのか。城壁の外の民を開京に入れ、周囲の田畑や家屋を焼き払うよう命令しました。
農作物や家を焼くのは高麗にとっても大きな損失ですが契丹軍に食料を奪われるのを防ぐためです。こういう戦い方を焦土作戦といいます。
名将・姜邯賛の活躍
でも開京は首都としての歴史が浅く防御施設は十分ではありません。攻め込まれると持ちこたえられません。
1019年1月。姜邯賛は開京から出て山中に伏兵を置いて契丹軍を迎え撃つことにしました。
2月。契丹軍が亀州を通過。姜邯賛たちが激戦を行いましたが決着がつきませんでした。高麗に援軍が到着。雨風もはげしくなりました。
契丹の蕭排押は作戦は続けられないと判断します。というのも朝鮮半島(特に北部)は砂岩質で土地が痩せていて農作物があまり育たないため慢性的な食糧不足に陥っています。そこに高麗側が焦土作戦をおこなったので契丹軍が略奪できる食料がありません。
契丹軍は撤退を始めました。
戦いで一番危険なのは撤退するときです。姜邯賛はそこを見逃しませんでした。高麗軍は撤退する契丹軍に追い打ちをかけて多くの契丹兵を討ち取りました。無事に退却した契丹兵は数千だったといいます。高麗史に残る大勝利でした。
この勝利を「亀州大捷」といいます。
顕宗は姜邯賛を自ら出迎え盛大にもてなしました。
契丹との戦いで大活躍の姜邯賛ですが。実は彼は武官ではなく文官です。このころの高麗には有能な臣下が何人か登場します。
契丹との関係を修復
契丹軍の敗北を知った遼聖宗は激怒しました。
そしてさっそく次の高麗侵攻作戦にとりかかりました。
高麗は契丹の攻撃は防いだものの問題がありました。数度の契丹との戦いに膨大な戦費がかかり国庫は空。契丹軍の侵攻により国内は略奪と虐殺、破壊が行われ。国力が消耗。これ以上の戦いは続けられません。
高麗は頼りにしている宋に何度か使節を送りました。でも宋は契丹とは戦いたくないので高麗を助けてくれません。
ここにきて顕宗と重臣たちは契丹に逆らうのを諦めました。
高麗は宋と断交。高麗は契丹から冊封をうけ朝貢を再開しました。
契丹の再度の高麗侵攻は中止になりました。
顕宗は契丹に行くことはありませんでしたが、そのかわり頻繁に使者を送りました。
高麗が契丹の臣下になり東部の不安材料がなくなったので遼聖宗の目的は達成です。その後。顕宗の在位期間中は安定した関係が続きました。
晩年の顕宗
その後、顕宗は戦争で荒れ果てた国土を立て直すため農業を振興し、税制の改善を行いました。
1024年。開京を拡張しました。
それまで廃止されていた仏教行事の燃灯会と八関会を再開しました。
顕宗は権力基盤が脆弱でした。そこで母方の家系にあたる新羅系の人々を採用して要職につけ、王族や力のある豪族に対抗しようとしました。
生まれた時から周囲の冷たい目にさらされて周りの人々や臣下たちに振り回された一生だったかもしれません。
1031年。死去。享年40。
息子の王欽(徳宗)が後を継ぎました。
テレビドラマ
千秋太后 2009年、KBS 演:キム・ジフン 役名:ワン・スン
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