「王女の男」に登場する敬恵公主(キョンヘ王女)は実在の人物。
敬恵公主は朝鮮王朝5代王・文宗の娘、端宗の姉です。世祖の政変によって弟や夫を失い、自身も奴婢にされかけそうになりました。
史実の敬恵公主(キョンヘコンジュ)どんな人物だったのか紹介します。
この記事で分かること
- 敬恵公主の家系や家族関係(文宗・端宗との関係)
- 世祖の政変と端宗失脚が王女の人生に与えた影響
- 夫の流刑と処刑、王族としての身分危機の経緯
- 晩年の生活と息子・鄭眉寿のその後の活躍
敬恵公主(キョンヘ王女)の史実
敬恵公主のプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 呼称 | 敬恵公主(けいえこうしゅ/キョンヘコンジュ、경혜공주) |
| 姓 | 李(イ)/全州李氏 |
| 出生年 | 1436年 |
| 没年月日 | 1474年1月17日 |
| 享年 | 38 |
| 別称 | 平昌郡主(婚姻前の封号) |
5代王・文宗の娘です。4代王・世宗の孫になります。敬恵公主が生きたのは1436年~1473年。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に5文宗~7代世祖の時代です。日本では室町時代の人になります。
敬恵公主の家族
| 続柄 | 人物 |
|---|---|
| 父 | 文宗(李氏朝鮮 第5代国王) |
| 母 | 顕徳王后(権氏) |
| 夫 | 鄭悰(チョン・ジョン) |
| 子供 | 鄭眉寿(チョン・ミス)/娘(夭折とされます) |
敬恵公主(キョンヘ王女)の家系図

朝鮮 4代世宗~5代文宗6代~端宗~7代世祖 家系図
敬恵公主の年表
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1436年:文宗と顕徳王后の娘として誕生。
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1450年:鄭悰に嫁ぎ、公主としての称号を得る。
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1452年:父・文宗が崩御、弟の端宗が即位。
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1455年:首陽大君(のちの世祖)の政変で端宗が退位し、夫・鄭悰は流刑。
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1456年:流配先で鄭眉寿を出産。
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1461年:夫・鄭悰が処刑される。
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1474年1月17日:38歳で死去。
敬恵公主(キョンヘ王女)の生涯
おいたち
敬恵公主が産まれたとき、父の文宗はまだ即位前。母・権氏は世子嬪ではなく、下の位の「良媛」でした。敬恵公主はヒョンジュという身分でした。
世子嬪が問題を起こし追放され、権氏が3番目の世子嬪となりました。敬恵公主は幼いころ、母とともに世子嬪の住処・資善堂で暮らしました。
1441年(世宗23年)。敬恵公主が6歳のとき母・権氏が亡くなります。敬恵公主は親類の家で育てられました。敬恵公主は漢陽でも噂になるほどの美しい娘だったといわれます。
1450年(世宗32年)。15歳のときに鄭悰(チョン・ジョン)と婚約しました。当時は12、3歳で婚約するのが当たり前の時代でした。婚約が遅かったのは妻をなくして寂しい思いをしていた父のそばを離れたくなかったためだといわれています。
しかし、祖父・世宗が病に倒れます。もし祖父が亡くなると3年間は喪に服することになるので結婚できません。そうなると敬恵公主は18歳をこえてしまいます。当時の王族としては晩婚です。父・文宗は急いで敬恵公主を結婚させました。
結婚後、敬恵公主は平昌郡主と呼ばれました。父がまだ世子だったので公主とはよばれませんでした。
1450年。父が5代王・文宗に即位すると敬恵公主とよばれるようになりました。夫の鄭悰は王女の夫・府馬になりました。
父・文宗は一人娘とその夫のために豪華な家を建てました。
しかしもともと病弱だった文宗は若くして亡くなります。
1452年。弟の弘暐(ホンウィ)が6代王・端宗として即位しました。端宗はまだ12歳と若く、父も母も祖父母もいません。端宗にとって姉の敬恵公主が唯一の肉親でした。端宗は頻繁に敬恵公主の家を訪れていました。
1455年。伯父の首陽大君がクーデターを起こして端宗を追放してしまいます。癸酉靖難という事件です。
癸酉靖難当日の夜も端宗は敬恵公主の家で寝泊まりしていました。
世祖の迫害
伯父の首陽大君は7代王・世祖となりました。弟の端宗は14歳で上王となりました。
1455年。錦城大君事件(世宗の6男・錦城大君が首陽大君の反感をかって流刑になった事件)に関わったため夫の鄭悰が流刑になってしまいます。
敬恵公主が病気になると端宗は夫を呼び戻すように世祖に使いを送りました。世祖もその訴えを聞いて鄭悰を呼び戻しました。しかし敬恵公主が回復すると鄭悰は再び流刑になりました。
1456年。端宗の復位をもとめて家臣らが決起しようとしました。「死六臣事件」です。しかし事前にばれて関係者は処分されてしまいます。弟の端宗は上王の身分を剥奪されて世子になる前の魯山君の身分に落とされてしまいました。
1457年。端宗の伯父・錦城大君が端宗の復位を求めるため挙兵しようとしました。しかし事前にばれてしまい、錦城大君と端宗は処刑されてしまいました。
1461年。夫の鄭悰が謀反を企てて失敗、処刑されてしまいます。
世祖は敬恵公主の王族の身分を奪って官婢(役所に所属している奴婢)にしようとしました。それを聞いた敬恵公主は「私は王の娘である。どうして私に官婢をさせるのか」と座り込みをしました。
世祖の后・貞喜王妃が懇願したこともあり、官婢にする命令は撤回されました。
敬恵公主は奴婢にはなりませんでした。でも、敬恵公主は髪をおろして尼になり粗末な生活をおくるようになりました。
1462年。それを知った世祖は敬恵公主を哀れんで都の近くに呼び戻し家を建て没収した財産を戻しました。
晩年・世祖は多くの人々を殺めたことを後悔するようになったといわれます。敬恵公主の身分を回復して援助したのもそんな気持ちがあったからなのかもしれません。
9代王成宗の時代。家臣たちが敬恵公主の息子が生きていれば謀反を起こすかもしれないと訴えました。しかし貞喜王妃が家臣たちを叱り、再びその話題を出すことを禁じました。夫の世祖が敬恵公主の弟や夫を処刑したことを心苦しく思っていたのかもしれません。
1473年。敬恵公主は病気で亡くなりました。38歳の若さでした。
息子の鄭眉壽(チョン・ミス)は科挙に合格し、役人となります。重臣たちが燕山君に対して決起した中宗反正にも参加して功績をあげ海平府院君の称号を得ています。
「王女の男」のキョンヘ王女
王女の男 KBS、2011年 演:ホン・スヒョン
美しくプライドの高い王女として登場
ドラマのキョンヘ王女は史実の 敬恵公主と同じ 第5代国王・文宗の娘。端宗(ホンウィ)の姉。そしてヒロイン セリョンの従姉妹という設定です。
史実の敬恵公主は美人だったとされ、ドラマのキョンヘ王女もその美貌を自慢にしています。プライドが高いところがありますが父親への孝行心は人一倍厚く、幼い弟を深く愛しています。
唯一の友人のセリョンも心から大切に思っていましたが、セリョンの提案で身代わりとして講義に出席させたことが、二人の運命を狂わせる始まりとなりました。
スンユとの結婚は叶わない
自分が想いを寄せ夫候補(駙馬)でもあったスンユが、セリョンと恋仲になってしまったのを知るとセリョンに激しい嫉妬の感情を抱くようになります。
しかし首陽大君の陰謀によってスンユは失脚。失意の中でスンユの親友 チョン・ジョンと結婚することになりますが、最初はあまり好きには慣れませんでした。
弟の端宗が王位を奪われる
やがて彼女が心から守ろうとした弟・端宗の王位も首陽大君に奪われてしまいます。キョンヘ王女は夫のチョン・ジョン共に苦難を乗り越えるうちに、彼に対して深い愛情を抱くようになりました。
弟を助けようとした夫は処刑されてしまう
夫のチョン・ジョンは端宗の王位奪還の計画に身を投じますが計画は露見。光州への流刑となります。彼女も夫に付き添い、その地で新しい命(チョン・ミス)を授かりました。
しかし再起をかけた計画も実らず、最愛の夫は彼女の見守る中で処刑されてしまいます。
子をもつ母として生きる
弟を失い夫を失ったキョンヘでしたが。彼女にとって一人息子のチョン・ミスが最後の希望となりました。夫の死後、遺された息子を育て上げ、激動の李氏朝鮮時代を王女としての誇りを胸に歩み続けたのです。
演じるのはホン・スヒョンさん
王女の男で敬恵公主(ドラマではキョンヘ王女)を演じるのはホン・スヒョン。「チャン・オクチョン~愛に生きる」で仁顯(イニョン)王后を演じた女優さんです。気丈な役が似合いますね。
他にもあるテレビドラマの敬恵公主
ハンミョンフェ KBS、1994年 演:ソヒ
王と妃 KBS、1998年 演:ギムミジュ
よくある質問FQA
Q キョンヘ王女は実在した人物ですか
A 実在した人物です。朝鮮王朝第5代王・文宗の娘で、第6代王・端宗の姉にあたります。正式な称号は敬恵公主です。
Q キョンヘ王女と敬恵公主は別人ですか
A 別人ではありません。キョンヘ王女はドラマや日本語記事で使われる呼び方で、史実上の正式な称号は敬恵公主です。
Q キョンヘ王女は端宗とどんな関係ですか
A 端宗の同母姉です。文宗と顕徳王后の子であり、弟の端宗が即位した後も王室の近い家族でした。
Q キョンヘ王女の夫は誰ですか
A 海州鄭氏の鄭悰(チョン・ジョン)です。史実では流刑の後に1461年に処刑されています。
Q キョンヘ王女は最後どうなりましたか
A 夫の処刑と身分剥奪の危機を経験した後、王室の保護を受けながら生き、1473年に38歳で亡くなりました。


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