魯国公主(ノグクコンジュ、本名:ブダシリ)は元の皇族として生まれ。高麗 31代国王 恭愍王の王妃になった女性です。
実在した魯国公主の生涯を政変や愛、ドラマ『信義』と史実の違いも分かりやすく紹介します。
この記事で分かること
- 魯国公主(ノグクコンジュ)ブダシリの実際の生涯と高麗王妃としての役割
- 恭愍王との夫婦関係や、動乱を共に乗り越えたエピソード
- ドラマ『信義』と史実との違い
- 死後の王の悲しみや深い愛情のエピソード
魯国公主(ノグク公主)ブダシリの史実
魯国公主(ノグク公主)の呼び方
魯国公主には複数の呼び方があります。
- 本名:宝塔失里(ブタシリ/Budashiri)。
モンゴル語の名前。サンスクリット語「仏の吉祥」を意味する言葉から来ています。元の12代皇帝 文宗の皇后もブダシリですが別人です。元には仏教由来の名前がよくありました。 - 諡号:魯国大長公主、魯国公主(ノグクコンジュ)
魯國大長公主は死後に元朝から「仁德恭明慈睿宣安徽懿魯國大長公主」という長い諡号が与えられました。一般にはこの称号から魯国公主(ノグクコンジュ)と呼ばれることが多いです。 - 生前の称号:承懿公主
ブダシリが王妃になった時に元の皇帝から与えられた称号。生前はこの称号で呼ばれていました。 - 王妃としての呼び方:仁徳王后
諡号の一部をとって仁徳王后と呼ばれることもあります。こちらは王妃としての立場を強調する時に使います。
と、このようにいくつもの呼び方があるのですが。この記事では一般的によく使われる魯国公主で表現します。
肖像画
高麗に伝わる肖像画は以下の通り。穏やかそうな人物として描かれています。

魯国公主(ノグク公主)
魯国公主(存活時間:1374), Public domain, via Wikimedia Commons
魯国公主(ノグク公主)のプロフィール
- 姓:孛兒只斤(ボルジギン)
- 名前:寶塔失里(ブダシリ)
- 称号:魯國大長公主、仁德王后
- 国:元→高麗
- 民族:モンゴル人
- 生年月日: 不明
- 没年月日: 1365年3月8日
- 父:元 ボロト・テムル(魏王)
- 母:不明
- 夫:高麗 恭愍王
魯国公主の家系図
元の皇室と高麗王室は数世代にわたって婚姻関係を結んでいます。魯国公主は魏王の娘。クビライの子孫で皇帝トゴン・テムルのはとこになります。

元と高麗の家系図
5代 世祖クビライ~16代昭宗
26代 忠宣王~33代 王昌
魯国公主(ノグク公主)年表
- 生年不詳。元の皇族・魏王ボロ・テムルの娘として生まれる。
- 1349年。元の首都・大都(北京)で当時人質として滞在していた江陵大君(恭愍王)と結婚。
- 1351年。恭愍王が高麗国王に即位。共に高麗へ渡る。承懿公主に封じられる。
- 1352年。趙日新(チョ・イルシン)の乱が発生。恭愍王と共に危機を乗り越える。
- 1356年。恭愍王が本格的な反元改革(親元派・奇氏一族の粛清など)を開始。
元の皇族でありながら夫の政策を全面的に支持し、高麗の王妃として生きる決意を固める。 - 1359年。紅巾軍の侵攻により、一時的に避難を余儀なくされる。
- 1361年。再び紅巾軍が侵攻。恭愍王と共に安東へ避難。
- 1363年,興王寺の変。恭愍王暗殺の危機に際し、身を挺して夫を守ろうとしたと伝えられる。
- 1365年,3月8日(旧暦2月15日)没。 待望の妊娠をするが、難産のため母子共に死去。
高麗に嫁いだ魯国公主の生涯
元で育った姫君、宝塔失里(ブタシリ)
魯国公主の父は元の魏王 孛羅帖木児(ボロト・テムル)。元世祖クビライの5世孫。元恵宗トゴン・テムルのはとこ(再従妹)になります。
皇帝の娘ではありませんが、元の王家・ボルジギン氏の一族で皇帝に近い血筋の人物といえます。
王子・王祺との政略結婚
当時、高麗の王子・王祺(ワン・ギ、後の恭愍王)は、元で人質生活をしていました。
至正9年(1349年)。王祺とブタシリの結婚が決定。結婚は現地で行われ、二人はそのまま元の大都(今の北京)で2年間生活しました。
至正11年(1351年)。元の恵宗トゴン・テムルは高麗の旧王を廃して王祺を新たな王に冊立。ブタシリも高麗王妃になりました。このとき宝塔失里には「承懿公主」の称号が与えられます。ブダシリは皇帝の娘ではありませんが正式な公主として扱われました。
同年12月、夫婦は高麗に帰国。これが後に「魯国公主」と呼ばれることになる女性の朝鮮半島での第一歩です。
高麗での生活と王妃としての役割
高麗に到着後、王妃となった彼女のために「粛雍府(しゅくようふ)」いう専属の宮廷機関が設けられました。これは侍女・儀礼・出入り・財政・記録などを扱う部署です。
また、恭愍王とともに奉恩寺に出向き、僧の説法を聴いたという記録もあり宗教行事にも積極的に関わっていたことが伺えます。
彼女は王の政務や権力闘争にはほとんど関わらず静かで控えめな王妃でした。その姿勢が称賛され史書「高麗史」でも「文王の良き伴侶にふさわしい」と記されています。
世継ぎがいない苦悩と王への信頼
結婚から8年が経っても、二人の間には子は生まれませんでした。
至正18年(1358年)。宰相が「名家の娘の中から側室を迎えてはどうか」と進言したとき、王との仲が深かった公主は子がいないことを申し訳なく思っていたので、宰相の申し出を深く考えず認めてしまいます。
やがて王は宰相の娘を側室とし「恵妃」の称号を与えますが、公主はこれが王の本意でなかったと気づいて深く後悔、食事も喉を通らなくなったと伝えられます。
公主には嫉妬の念も芽生えたとされますが、それでも彼女は王に対して怒りや不信をぶつけず、政治には一切干渉しませんでした。
激動の政変を共に越えた夫婦
当時、時代は動乱のただ中にありました。元では「紅巾の乱」をはじめ各地で反乱が拡大。朝鮮半島にも反乱軍が押し寄せます。
至正20年(1360年)。紅巾軍が鴨緑江を越えて高麗に侵入、西京(平壌)を陥落させてしまいます。
その際、公主は輿を捨てて自ら馬にまたがり王と共に避難しました。この姿を見た人々は涙を流したといいます。
さらに、至正23年(1363年)の「興王の変」では反乱軍が王宮に迫る中、彼女は宮門の前に一人座り込み、決して動じなかったと伝えられます。
その毅然とした態度には反乱軍すら怯み、彼女の前では動けなかったとされます。
最期:命を懸けた出産と王の深い嘆き
至正25年(1365年)2月、妊娠した王妃の出産を祝して、王は大赦(恩赦)を発令しました。国中が「世継ぎ誕生」を期待していたのです。
しかし、出産は難産となり、王妃は容体が急変。
恭愍王は仏寺で祈りを捧げ自ら香を焚いて妃の枕元から離れず、あらゆる手を尽くしますが、王妃はその日のうちに息を引き取ります。
王の悲しみは深く、家臣が「別殿へ移られては」と勧めても、
「公主と交わした約束がある。私だけが離れることなどできぬ」と拒否。
さらに王は、自ら描いた公主の肖像画を食卓に置き、毎日涙を流しながら食事をとったといいます。さらに3年間、肉を断ち、喪に服したとも伝わります。
死後の礼遇と、狂気にも近い愛
王は公主の冥福を祈るため、前例のない豪華な仏事と葬儀を行います。
喪服を着るよう全官僚に命じ、影殿(えいでん)という追慕のための別殿も建てられました。この工事は民衆に重い負担を強いたため、反対する官僚も多かったのですが、王はそれを「愛妃を侮辱するもの」と受け取り、処罰しようとしたとまで記録されています。
元朝からは公主に「魯国徽翼大長公主(ろこくきよくだいちょうこうしゅ)」の諡号(死後の名)が贈られました。
(『高麗史』卷八十九 列傳 卷第二 后妃)
数年後、恭愍王も政変の末に命を落とすと、その遺体は彼女の墓の隣に葬られます。
2人の合葬墓は「玄正陵」として、今も南楊州市に残されています。
シンイ-信義-で描かれた恭愍王と魯国公主
ドラマと史実との違いと、脚本が描きたかったものは何でしょうか?以下にまとめてみました。
出会いと結婚のきっかけ
『シンイ-信義-』では恭愍王とノグク(魯国公主)はすでに夫婦という設定で登場します。元の都から高麗へ戻る途中で襲撃に遭い、瀕死となったノグクを救うため王が現代の医師を“天の扉”から呼び寄せるというのがドラマの始まりです。
もちろん、こうした展開は完全な創作です。
史実では二人は1349年に元の首都・大都で結婚。2年間、大都で暮らしました。この期間は大きかったかも知れません。まだ王と王妃の関係ではない重圧のかからない期間。この間一緒に過ごすことでお互いの距離が縮まったのかも知れません。
史実では1351年に何事もなく高麗に移動しています。このとき反乱勢力が王妃を襲ったという記録はありません。
彼女は皇帝の娘だったのか?
ドラマの魯国公主(ノグクコンジュ)はドラマでは「元の公主」として登場します。このときの皇帝トゴン・テムルはまだ若いです。結婚適齢期の娘はいません。
史実の魯国公主(ブタシリ)は皇帝の実の娘ではなく、元の名家・ボルジギン氏に連なる皇族の一員です。皇帝のはとこの関係です。ただ元朝の正式な称号である「承懿公主」を授けられており(魯国公主は死後につけられた称号)、高麗では間違いなく「皇帝の娘のような存在」として扱われていました。
宮廷での立場と、王との関係
ドラマでは、魯国公主は王と苦楽を共にしながら、王に寄り添う王妃として描かれています。
実際の史料でも彼女は目立った政治介入を行わず、控えめな態度で周囲の信頼を得ていたことが記録されています。
史実では子どもがなかなか生まれず、王に側室を持たせたエピソードもあります。魯国公主本人は最初これを受け入れたものの、のちに後悔して深く落ち込んだと記されています。
ドラマではこうした側室問題には触れられず、「王妃は王の唯一の伴侶」として描かれているのが大きな違いです。
ピンチに異常に強い王妃
ドラマでも王妃は王の側にいて王を支えますが、史実の魯国公主はドラマ以上に強い女でした。
魯国公主(承懿公主)は高麗王宮に15年いたにもかかわらず、政治に私的な口出しを一度もしなかったと記録されています。元から来た王妃にしては珍しく、出しゃばらず控えめでした。しかし、いざ国が揺らぐ場面では誰よりも強い姿を見せました。
1360年。紅巾軍が高麗へ侵攻。混乱の中で公主は輿を捨てて馬にまたがり、恭愍王と共に避難しました。自分で馬に乗るのは騎馬民族らしい行動力です。
さらに1363年、「興王の変」が勃発。反乱軍が王宮に迫ったとき、恭愍王は太后の部屋に逃れ隠れます。そんな中でも公主は一人で宮殿の門前に座り、反乱者と向かい合いました。彼女の気迫に誰も彼女の前を通れず、やがて反乱は鎮圧されました。
普通は王が王妃が守るものだと思うのですが、この夫婦は逆なのです。
政治には関わりませんが、王が本当に危機に瀕したときだけ立ち上がる。こうし姿勢が恭愍王から絶対の愛情と信頼を得た理由だったのでしょう。
死別と王の深い悲しみ
『信義』の中での魯国公主(ノグクコンジュ)は、刺客による重傷から命をとりとめその後も王の支えとして登場します。
史実でも王室を襲った危機を王とともに何度もくぐり抜けました。しかし1365年に懐妊し出産の際に母子ともに命を落としました。
このときの恭愍王の反応は記録に残るほど深いもので、僧侶を呼び寄せて祈り自ら香を焚いて見守り、死後は3年間も肉を断ち、妃の肖像画の前で食事をとっては涙を流したと伝わります。
王は彼女の冥福を祈るために極端なほどの葬儀を行い、喪服を官僚全員に着せ彼女を祀るための殿堂まで建てました。結果的に民衆が疲弊するほどだったとも言われています。
史実の愛とドラマの描き方の違い
ドラマでは魯国公主は人質として元に来ていた恭愍王に恋心を抱き。政略結婚で一緒になった後も深く愛し合った夫婦として描かれます。
では、史実にもそのような愛はあったのでしょうか?これまで紹介してきた王妃の態度からは王を想う気持ちがよく分かります。
それは恋愛感情から発展したものとは違うかも知れません。王妃としての務めから生まれた可能性もあります。でも少なくとも政略結婚以上の愛情があったのは確かでしょう。
脚本はこの点を恋愛感情の要素を強め、王妃が王に寄り添い命をかけて支える“愛”として美しく仕上げているといえます。
ドラマの魯国公主
- シンドン〜高麗中興の功臣〜 2005年、MBC 演:ソ・ジヘ
恭愍王との愛、彼女の死が王の変化に与えた影響が描かれています。 - シンイ-信義- 2012年、SBS 演:パク・セヨン
恭愍王と共に元から高麗へ戻る道中や王との愛が描かれた人気作。 - 大風水 2012年、SBS 演:ペ・ミニ
恭愍王を心から愛し、献身的に支える王妃として描かれています。 - 鄭道伝(チョン・ドジョン) 2014年、KBS (肖像画のみ)
彼女の死後の恭愍王の失意と狂乱が物語序盤の重要な背景となっています。

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