神明順成王后劉氏は高麗の初代国王・王健の第3王妃。皇后ユ氏と呼ばれることもあります。劉氏は王建の妃の中で最も多くの子を産みました。数多い妃の中でも最も王建の寵愛を受けた妃だったかもしれません。そして息子の中から二人が王になっています。3代国王定宗と、4代国王光宗です。
史実の皇后劉氏はどんな人物だったのか紹介します。
神明順成王后劉氏(皇后ユ氏)の史実
いつの時代の人?
生年月日:900年ごろ?
没年月日:951年ごろ?
名前:劉須人
称号:神明順成王后
父:劉兢達(ユ・グンダル)
母:不明
夫:太祖王建
子供
王泰(ワン・テ)
王堯(ワン・ヨ:定宗)
王昭(ワン・ソ:光宗)
王貞(ワン・ジョン:文元大王)
證通国師
楽浪公主(新羅・敬順王の妻)
興芳宮主
高麗王朝、初代国王・太祖(王健)の第3妃です。
日本では平安時代の人になります。
おいたち
父の劉兢達(ユ・グンダル)は新羅の忠州地方の有力な豪族でした。ところが新羅では国の力が弱まり各地で反乱がおきていました。弓裔が反乱を起こして勢力を拡大すると各地の豪族も弓裔に従うようになりました。劉兢達も弓裔の配下に入ります。
900年。劉兢達は忠州、清酒、槐山を攻撃。淸吉、莘萱などの豪族と戦い後高句麗の勢力拡大に貢献。後高句麗の中で王建が台頭してくると王建と親しくしました。
918年。高麗が建国され。王建が即位すると娘を嫁がせました。神明順成王后劉氏です。王建は国王になりましたが、建国したばかりの高麗は豪族の連合体のようなものでした。王室に大きな権力はなく各地の豪族に協力してもらわないと国が保てなかったのです。半島中部で大きな力をもっていた忠州の劉一族は王建にとっても味方にしておかなければいけない豪族でした。
王建には何人もの妃がいます。その中でも王后劉氏は最も多くの子供を産みました。王建の寵愛を最も受けた妃といえます。
王建の後継者は長男の王武(ワン・ム)と決まっていました。しかし王武の母は身分の低い地方豪族の娘です。劉氏たち有力豪族は不満でした。
944年。王武は即位して恵宗となりましすが2年で死去。病没されたと言われますが定宗を支持する者たちに暗殺されたともいわれます。
劉氏一族は一族の血を受け継ぐ王子を王にするため、有力豪族を味方につけました。
945年。劉氏の息子・王堯(ワン・ヨ)を次の王にすることに成功しました。劉一族は外戚となり高麗で大きな力を持つようになりました。
王建は国をまとめるための多くの豪族から妃を迎えましたが妃の実家同士が争い後継者争いで争うことになりました。新しい王が即位しても別の勢力に殺されることもあります。
王堯も早く死亡しますが、次に王になったのも劉氏の息子です。
749年。王昭(ワン・ソ)が即位して光宗になります。劉氏は光宗が即位して間もなく死去します。
ところが光宗は外戚や豪族の力を弱め、王室の力を強めようとしました。皮肉にも劉氏の息子によって実家の力が弱くなってしまったのです。
神明順成王后劉氏の子供
劉氏にとって最初の子供王泰(ワン・テ)は若くして死亡しました。
次男の王堯(ワン・ヨ)、三男の王昭(ワン・ソ)は成人して王位後継者の有力候補になります。王堯は3代国王定宗、王昭が4代国王光宗になります。
四男の王貞(ワン・ジョン)は死後・文元大王とよばれるようになります。その理由はよくわかりませんが、王貞の娘が5代景宗の妃になったことが関係しているようです。妃の父だから王の名を与えられたと考えられます。
五男の證通国師は出家して僧侶になりました。
長女の楽浪王女は新羅の敬順王と結婚しました。王建は高麗に亡命してきた敬順王と婚姻関係を結ぶことで高麗が新羅を継承する王室だと主張し、旧新羅の臣民をとりこみたかったのです。楽浪王女は神鸞宮夫人とも呼ばれます。
興芳公主は元莊太子と結婚。元莊太子は王建と貞德王后の息子です。つまり異母兄弟と結婚したことになります。
TVドラマ
太祖王健 KBS、2000年 演:チョン・ミソン
帝国の朝 KBS、2002年 演:チョン・ヨンスク
輝くか狂うか MBC、2015年 演:チ・スウォン
麗・花萌ゆる八人の皇子 SBS 2016年 演:パク・ジヨン
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