良妃 衛氏(康煕帝)八皇子 胤禩の生母は家柄の低さを気にしていた

清王妃側室1.2 清の皇后妃嬪皇太后

 

良妃 衛氏は清朝の第4代皇帝・康煕帝(こうきてい)の側室。

八皇子・胤禩(いんい)の生母です。

ドラマ「皇帝の恋 寂寞の庭に春暮れて」のヒロイン・衛琳琅のモデルになりました。

良妃 衛氏は満洲人ですが、低い家柄の出身でした。

それでも康煕帝に気に入られて側室に史実の 良妃 衛氏 はどんな人物だったのか紹介します。

息子の胤禩は大臣たちから人気があって皇太子候補に推薦されたこともあります。

それでも康熙帝が胤禩を選ばなかったのは自分の身分が低いからだと気にしていました。失意の中で病になり亡くなってしまいます。

史実の 良妃 衛氏を紹介します。

 

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良妃 衛氏 の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1711年12月29日

漢姓:衛(えい)氏
満州姓:覚禅(ガオチャン)
名:双姐
称号:良妃
父:不明
母:不明
夫:康煕帝(こうきてい)

子供: 八皇子・胤禩(いんい)

清王朝の第4代皇帝・康煕帝の時代に生きました。

日本では江戸時代になります。

良妃の一族はヌルハチとは違う部族?

衛という漢姓を盛っていますが、もともとは覚禅(ガオチャン)という姓を持っていました。覚禅は住んでいた地名に由来します。

漢姓をもつのは明に支配された時代があったからです。

良妃の出身部族は烏蘇里(ウスリー)地方などに散らばって住んでいました。現在のロシア共和国沿海地方と中国の黒龍江省のあたりです。

明朝時代には野人女直とよばれた部族だったようです。ヌルハチのマンジュ国(建州女直)とは違う部族です。良妃の家は代々、佛阿拉(フアラ)地区に住んでいました。

ホンタイジの時代に正黄旗包衣に組み込まれました。人数が少ないので辛者庫に在籍していました。でも罪人ではありません。

そのため康煕帝からは「辛者庫の女」(くわしくは後ほど)と呼ばれたことはありますが、良妃の父や兄は中級の官僚でした。

康煕帝の時代、家族が辛者庫に在籍した側室は良妃だけではありません。

確かに満洲族の王侯貴族に比べると地位は低いです。でも良妃の一族が辛者庫で懲罰的に労働させられていたのではありません。役人として務めていたのです。

おいたち

1662年(康煕元年)に生まれました。
本名は「双姐」

1675年(康熙14年)。衛氏は内務府選秀で入宮しました。このとき14歳。

同期には孝恭仁皇后・烏雅(ウヤ)氏(雍正帝の母)、定妃・萬琉哈氏(十二皇子・胤祹の母)がいます。

烏雅(ウヤ)氏や定妃の実家も包衣出身。家柄はよくありません

当時は 孝懿仁皇后佟佳氏が後宮を管理してた時代。家柄よりも性格や容姿に優れた女性を入宮させていたようです。もしかすると康煕帝の好みにあわせて選んでいたのかも知れません。

衛氏と烏雅(ウヤ)氏は同じ日に入宮しました。そのため仲もよかったようです。胤禛(雍正帝)も衛氏を母のように思っていました。

1681年(康熙20年)。 衛氏が 八皇子 胤禩(いんし)を出産。胤禩は恵妃 那拉氏に育てられました。

このころの康煕帝には皇后がおらず。最も仲のよい妃は恵妃でした。恵妃は後宮のトップの地位にあり、何人もの皇子を育てました。

1689年(康熙28年)。後宮に新人が来ました。章佳氏(十三皇子・胤祥の生母)は衛氏のところに配属されました。

このころの後宮は側室の爵位制度がまだできていなかったので、衛氏は長い間称号がないままでした。

1696年(康熙35年)。康煕帝はジューンガルのガルダンと戦うため遠征しました。息子の八皇子・胤禩も出陣しました。

1698年(康熙37年)。胤禩は多羅貝勒(ドロイベイレ)の爵位を与えられました。当時最年少のベイレです。

1700年(康熙39年)。衛氏は「良嬪」になりました。

皇太子問題で息子の胤禩が処分を受けショックを受ける

1708年(康熙47年)。皇太子・胤礽(いんじょう)が廃位されました。

大臣たちは一斉に「八阿哥 胤礽を皇太子に」と推薦します。康煕帝はおかしいと思いました。

調べていくと、第一皇子・胤禔(いんし)と第八皇子・胤禩(いんし)が胤礽の評判を落とそうとしていたことがわかりました。康煕帝は胤禔と胤禩こそが謀反人だと思い、彼らから爵位を取り上げ、。を後継者候補からはずしました。

胤禩は皇籍から外されそうになりましたが、十四皇子・胤禛(いんしん)や重臣たちがとりなして皇籍にとどまることができました。謹慎処分をいいわたされます。

良妃も息子の処遇にはショックを受けたようです。

衛氏は康煕帝が「胤禩の生母の家柄が低いから跡継ぎにしない」「母が辛者庫の女」と言っていた事を気にしていました。

康煕帝は、胤禩の行いや派閥を作って大臣たちのご機嫌取りをしているのが気に入らなかったのです。康煕帝は大臣たちが胤禩を推薦するのを断るために胤禩の生母の家柄を口実にしました。

後に後継者になった四皇子・胤禛も母の家柄だけなら決してよくありません。血筋ではなく能力や行いが問題になったのでした。

でも衛氏は自分の家柄のせいだと恥じていたようです。病気になって死期が迫ると薬を飲むのを拒否しました。自分がいなくなれば息子の重荷にならなくてすむと思っていたようです。

1711年(康熙50年11月20日)。衛氏が亡くなりました。

無くなる前に「良妃」の称号が与えられました。

衛氏の死後、胤禩は非常に悲しみました。

良妃衛氏の葬儀は孝誠仁皇后の妹・平妃 赫舍里氏の葬儀と同格でした。名門出身の妃と同じ扱いをうけました。

良妃が亡くなった年の12月19日。康煕帝は寧朔宮に行ってお別れをした後。
東華門から朝陽門を出て良妃の霊前に酒を捧げて供養を行いました。

 1713年(康熙52年)。良妃の陵墓が完成して納棺しました。

 1714年(康熙53年)。国内を視察中の康煕帝は密雲県にある良妃の実家に胤禩を派遣、良妃。出迎えた宦官と侍女は2羽の鷹を康煕帝に贈りました。

鷹は北京まで運ばれましたが、宮殿に到着した頃には瀕死の状態でした。それを見た康煕帝は激怒したということです。せっかく良妃の実家でもらったのに死なせてしまってはいけない。

康熙帝が良妃におくった言葉が残っています。
「あなたは忍耐強い女性でした。あなたに「妃」の称号を贈ります。あなたの永遠の幸福を願っていました。なぜあなたは突然逝ってしまったのか」

康熙帝は良妃に恨みはなかったのでしょう。でも胤禩の行いを許すことはできませんでした。その結果、良妃の死期を早めてしまったかも知れない。

と悩んだのかも知れません。

 

雍正帝の時代

胤禩の運命

康熙帝の死後、雍正帝の時代になると。八皇子・胤禩は最初は出世しました。

でも雍正帝から与えられる仕事をこなすことができず、追い詰められていきます。やがて弾劾を受けて投獄され、獄中で死亡します。

良妃の家族の運命

ところが雍正帝は良妃の家族に対しては寛大でした。

雍正帝は良妃の一族を辛者庫から解放しました。良妃の兄弟・噶達渾は八旗的正藍旗下世管佐領になりました。旗人(貴族)の仲間入りです。

良妃の一族はその後、佐領という地位を世襲するようになりました。

テレビドラマの良妃

 

宮廷女官 若曦 2011、中国 役名:良妃  演:劉潔
宮 パレス 2012、中国 役名:良妃 演:邵美琪

 

皇帝の恋 2017、中国 役名:衛琳琅 演:鄭爽
 ヒロイン 衛琳琅は良妃 衛氏がモデルです。
 ドラマでは衛琳琅はもとはチャハル親王アブダイの娘だったのが、記憶を失った後、衛琳琅になったことになってます。
 実在の良妃 衛氏はモンゴル・チャハル親王アブダイの娘ではありません。

 

 

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