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「節度使」とは?

唐朝 5 隋・唐

中国時代劇にはときどき 節度使(せつどし)と呼ばれる人が出てきます。

なじみのない言葉なので節度使って誰?何する人?と思う人もいるでしょう。

中国史の本を読んでもいきなり「節度使」の単語が出てきて。何者なのか?なんでそういう者が存在するのかよくわかりません。

役人に与えられたただの役職と思っている人が多いと思います。

でも節度使はただの役人ではありません。中国史では特殊な立場の人達です。

そこで節度使とはどういう人なのかわかりやすく紹介します。

 

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節度使とは?

節度使は軍団司令の役職名

簡単に言うと節度使(せつどし)とは、地方の軍団司令長官。ある地域の守りと治安維持を任され。軍隊を指揮する権限を持ちます。そして多くの場合、税を集める権限も持っています。

本当は個人に与えられた役職名なのですが。節度使が指揮する軍団の意味で使われることもあります。

節度使を省略して節帥(せつし)、節使(せつし)、節度(せつど)と言ったりします。

節度使が他の軍団司令と違うところ

節度使には他の軍団司令にはない大きな特徴があります。

自分で兵を集めることができる。
税を集める権限を持っている。

ことです。

本当は地方行政や税を集めるのは観察使の役目です。

最初は節度使と観察使は別でした。やがて節度使は観察使も兼任することが多くなりました。防衛と治安維持だけでなく。だから税の徴収も仕切っているのです。

節度使は軍隊・警察のトップなので武力を持っています。住民は逆らえません。

節度使が指揮する組織のことを 藩鎮(はんちん)といいます。

つまり本来は節度使は軍団の司令。観察使は行政のトップ。節度使・観察使が指揮する組織は藩鎮。というわけです。

ちょっとした小国の王みたいな存在です。

中国ドラマなどで節度使が住民から恐れられているのはこのためです。

節度使は権限が大きいので下手すると軍が勝手に組織拡大して朝廷のいうことを聞かなくなる可能性もあります。そのため節度使は世襲できません。

節度使は一代限り。しかも一度節度使には任期があります。その後は節度使から朝廷の重臣になった人もいますし、そうでない人もいます。

 

節度使が存在する理由

争いがよく起こる地域には常駐軍が必要

中国王朝では将軍や司令官は普段は大した兵力を持っていません。朝廷から与えられた兵を率いて戦いに向かいます。個人に大きな兵力をもたせていると反乱するかもしれないからです。

でも異民族の侵入や反乱などいちいち中央から軍を派遣していたら間に合いません。そこでよく争いがよく起こる地域にはある程度大きな部隊を常駐させ、戦いがおきたらすぐに対処できるようにしていました。

常駐軍の司令は普以前の王朝では持節都督。北周や隋では総管とよばれていました。

唐の時代に都督の役職名が復活、でも総管と呼ばれる地域もありました。

節度使誕生

太宗 李世民の貞観年間。戦いが減り平和な時代になると常駐軍やそれを指揮する都督は減りました。

唐には「府兵制」という徴兵制があります。府兵制で集められた兵は朝廷が管理。争いが起きると各地に派遣していました。

ところが武則天が唐の皇族やその仲間を粛清。府兵制も壊してしまいます。敵対する武力が減って武則天はそれで良かったのですが。問題がありました。

唐の武力が弱くなったので唐に従属していた突厥が反乱して独立してしまいます。突厥だけではありません。唐が弱くなったので吐蕃は攻めてくる。新羅や契丹は反乱する。渤海は独立する。と各地で戦乱が多発してしまいます。

それに徴兵は誰でも嫌です。武則天がいなくても徴兵逃れは問題になります。

兵の補充が減る。戦乱は続くとなったら兵たちの負担が大きくなって脱走兵が増えます。

その次の中宗・睿宗の時代になるとだんだん朝廷は軍隊を維持できなくなってしまいました。

そこで睿宗の時代に「節度使」が誕生しました。

自前の兵力をもっている武装集団のリーダーに役職を与え、辺境を守らせたのです。つまり朝廷の雇った傭兵部隊です。このころ主に節度使になったのは主にソグド人(ペルシャ系の人)や突厥人などの異民族です。

つまり軍団司令に「徴兵権を与えた」のではなく。「自前で兵を集められる人を雇った」のです。

「徴兵制」から「募兵制」に変えたといわれますが。朝廷は自力では十分な兵力を集められなくなったということです。

また唐の朝廷はできれば異民族には長安の近くには来てほしくありません。国境付近にいて自分たちで領土を守ってほしかった。という事情もあります。

節度使が動かした唐の歴史

節度使が反乱・安史の乱

睿宗から玄宗の時代に節度使は増えました。10の節度使がありました。

やがて力を持った節度使が反乱。これが安史の乱です。反乱を起こした安禄山や史思明はソグド人と突厥人のハーフでした。

この反乱では府兵制で集めた唐の正規軍は役に立ちませんでした。そこで唐はウイグルに助けてもらったり、安禄山とは別の節度使や国内にいる武装集団を集めて反乱軍を討たせました。

賊で賊を倒して賊が役人になる世界

朝廷に協力した武装集団は新しい「節度使」になり。節度使はますます増えます。

玄宗の次の粛宗の時代。世の中はまだ混乱していました。物騒な世の中なので節度使に観察使も兼ねさせ税を集めさせました。力の衰えた朝廷は節度使の武力にに頼らないといけない部分もあったのです。

唐の末期には40~50の節度使がありました。

節度使の力を大きくなるのを防ぐため。節度使の世襲は禁止。

その規則に反抗した節度使もいましたが粛清されました。皇帝は直属の軍隊を作り節度使だけに頼らないようにしました。

反乱が多発して唐が滅亡

ところが税以外に皇帝に多額のお金を治めれば中央で出世しやすくなる。という慣習ができました。賄賂ですが受取人が皇帝なので誰も文句言えません。もちろん節度使が自腹で出す訳ありません。民から余分に取って皇帝に貢ぐのです。ますます節度使の搾取がひどくなります。もちろん私腹を肥やす者もいます。

唐末期には搾取された兵や民衆の反乱が頻発。節度使の力も強くなって唐の朝廷は国内を統治できなくなってしまいます。節度使が勝手に世襲しても止めることができません。

唐は長安とその周辺を支配しているだけの地方国家になってしまいました。

唐の没落ぶりを知った菅原道真が遣唐使の廃止を進言したのもこのころ。

やがて各地の節度使が「王」を名乗り領土争いをし始めます。そして唐は滅亡します。

次の五代十国時代には小さな国がいくつもできました。その王の多くが元節度使でした。

 

後の時代には節度使は廃止

 

最盛期の唐は超大国なのですが。唐の最盛期は短いです。太宗・高宗時代にピークを迎え、玄宗時代にもう一度にピークになったものの、安史の乱で衰退。アジアの世界帝国から。宋や明みたいな中国のいち王朝になってしまいます。あとは衰えるのみ。衰えた唐を代表するキーワードのひとつが「節度使」です。それでも約300年続いたのはさすがは唐です。

それに異民族の襲撃から唐を守っていたのも節度使。安史の乱より後は朝廷と節度使の馴れ合いで続いていました。でも最後は唐の朝廷は下剋上で自滅します。

その後の王朝でも「節度使」という名前は残りました。でも後の王朝は唐の無様な最後を知っているので節度使に権力はもたせません。武官の「称号」になってしまいます。

元の時代に節度使の称号も廃止されます。

なので中国ドラマや小説で「節度使」がでてきたらまず「唐の時代」と思えばいいでしょう。

 

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