沈温(シムオン)は朝鮮第4代国王 世宗の王妃・昭憲王后の父です。
朝鮮王朝の最高官職である領議政まで昇進した政治家で、六曹直啓制の建議など王権強化に関わりました。世宗即位直後の政争によって失脚し処刑されました。
この記事ではシムオンの家系、経歴、世宗との関係、処刑されるまでの経緯を紹介します。
この記事で分かること
- 沈温(シムオン)のプロフィールと家系
- 高麗末から朝鮮初期にかけての官僚としての経歴
- 六曹直啓制を建議した政治家としての役割
- 世宗即位後に処刑された政治的背景とその後の名誉回復
沈温(シムオン)の史実
沈温(シムオン)のプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 沈温(シムオン) |
| 生年 | 1375年 |
| 没年 | 1419年(44歳) |
| 字 | 仲玉 |
| 本貫 | 青松沈氏 |
| 父 | 沈徳符 |
| 母 | 仁川門氏 |
| 妻 | 三韓国大夫人 順興安氏 |
| 子女 | 5男6女(昭憲王后など) |
| 代表官職 | 領議政 |
| 封号 | 青川府院君 |
| 諡号 | 安孝 |
シムオンは世宗の王妃・昭憲王后の父として知られますが、もともとは高麗末期から官職を務めていました。
朝鮮建国後には朝廷の重要な役職を次々に担当しています。
沈温(シムオン)の家系図
以下に沈温を中心にした青松沈氏の家系図を紹介します。
沈温の一族は高麗でも名門でした。沈温の弟・沈泟は高麗の王族と結婚。沈泟の孫は8代国王 成宗の側室になりました。
沈温の別の弟・沈淙は李成桂の娘・慶善公主と結婚。
沈温の息子・沈濬は太宗の義弟・閔無恤の娘と結婚しています。

青松沈氏 沈温(シムオン)の家系図
沈温の娘も太宗 李芳遠の四男・忠寧大君(世宗)と結婚。沈温は後に国王 世宗の義父となります。
このように名門同士が婚姻によって結びついていたのです。
沈温(シムオン)年表
- 1375年
開京で誕生 - 1390年
高麗の科挙に合格 - 1392年
朝鮮王朝成立後に官職を歴任 - 1407年
承政院同副代言 - 1411年
豊海道観察使 - 1412年
参知議政府事 - 1413年
大司憲となり六曹直啓制を建議 - 1414年
刑曹判書・戸曹判書・吏曹判書などを歴任 - 1418年
世宗即位
青川府院君・領議政 - 1418年
明への謝恩使 - 1418年12月
帰国後に逮捕・水原で賜死
シムオンの家系とは
沈温(シムオン)は高麗王朝の都・開京で青松沈氏の一族に生まれました。
父は左政丞(後の左議政)を務めた沈徳符。
母は仁川門氏です。母方の祖父は軍職である浪将を務めていました。
青松沈氏は朝鮮王朝でも重臣を多く出す名門として知られています。
シムオンの娘は世宗の王妃・昭憲王后となりました。その子孫からも多くの高官が出ています。
朝鮮中期の重臣・沈連源や沈通源、そして明宗の王妃・仁順王后の父・沈鋼もこの家系の人物です。王室と結びつくことで青松沈氏は朝鮮王朝の政治史の中でも重要な家系の一つとなったのです。
高麗末に科挙へ合格し官僚として出世
シムオンは1390年、高麗王朝の科挙に合格しました。
この時期はちょうど高麗王朝が衰退して新しい王朝が生まれようとしていた時代です。
シムオンは早い段階から高麗の武将・李成桂(イソンゲ)の勢力に加わっていたとされます。1392年に朝鮮建国後は中央官僚として着実に昇進しました。
主な官歴は次のとおりです。
・兵曹や工曹の官職
・承政院同副代言
・左副代言
・義興三軍府同知総制
・豊海道観察使
・参知議政府事
・大司憲
・刑曹判書
・戸曹判書
・吏曹判書
・漢城府判尹
・議政府参賛
中央官庁だけでなく地方官も経験しており、行政、司法、人事など国家運営の主要分野を担当しました。
六曹直啓制を建議した政治家
1413年、シムオンは大司憲として六曹直啓制の導入を建議しました。
六曹直啓制とは六曹(現在の各省にあたる中央官庁)が議政府を経由せず、国王へ直接報告する制度です。この制度は王権を強め、議政府の権限を弱める仕組みでした。
3代国王 太宗 李芳遠の時代には王権強化が進められていました。シムオンの提案は太宗の進める中央集権化に合った内容だったと考えられます。
世宗の時代・栄光と突然の最後
世宗の義父となり国舅となる
1418年。太宗は王位を世宗へ譲りました。
このときシムオンの娘である昭憲王后はすでに世宗の正室でした。そのためシムオンは国舅、つまり王の義父となります。
世宗の即位後にシムオンは青川府院君 の爵位を与えられ朝鮮王朝の最高官職・領議政に任命されました。
長年の官僚としての経歴に加え王妃の父という立場もあり、政治の中心人物となったのです。
明への使節と突然の失脚
世宗が即位すると新しい王の誕生を明へ報告する必要がありました。そのためシムオンは謝恩使として明へ派遣されます。
そのころ沈温は世宗即位を明に報告する謝恩使として明へ派遣されている最中でした。その留守の間に、政敵であった左議政・朴訔(パクウン)らが沈温を弾劾します。
沈温(シムオン)の最期
沈温が明から帰国し義州に到着すると直ちに逮捕されました。
その後漢陽へ送られて取り調べを受けましたが形だけのもので、弁明の機会を与えられないまま官職を剥奪され、処刑の判決が下ってしまいます。
水原へ流されて最終的に1419年1月に賜死となりました(旧暦表記では1418年12月と書かれることもあります)。
この事件では沈氏一族の多くが罪に問われました。沈温の娘である昭憲王后の地位も一時は危うくなりましたが、世宗の強い保護により廃位は免れました。
国王の義父で朝鮮最高官職である領議政であった人物が、わずか数か月で処刑されてしまったのです。
なぜシムオンは処刑されたのか
太宗は高麗王朝の末期のように大臣が政治を支配する状況が再び起こることを警戒、王権を強く維持しようとしていました。
世宗は1418年に即位しましたが、実際の政治には父である太宗が大きな影響力を持っていました。
その状況で王妃の実家が急速に政治力を持つのは王権の安定にとっては危険と考えられた可能性があります。
そのような状況で沈温の弟・沈泟が上王によって国王の権限が制限されていると不満を述べたとされます。
沈温は国王の義父という立場にあったため、この発言は政敵の絶好の攻撃材料になりました。
こうした事情が重なり、政争の中で排除されたとされます。
タブーと名誉回復。シムオンの墓所
太宗が生きている間、この事件は触れることが避けられる問題となりました。
しかし太宗の死後、文宗が即位すると沈温の名誉は回復され「安孝」の諡号が贈られました。
現在、墓は京畿道水原市にあります。
沈温の遺言
沈温自身は朴訔の告発によって破滅に追い込まれた考えていました。そのため、沈温は臨終の際には子孫に対して「潘南朴氏との婚姻を禁じた」と伝えられています。
なお沈温の子・沈澮は世祖の時代に領議政を務めました。
沈温の家系はその後も朝鮮王朝の政治に大きな影響を与え続けることになります。
関連人物
シムオンは朝鮮王朝初期の政治と王室に深く関わった人物です。王族や政敵となった人物の動きも合わせて読むと、彼のことももっとよく分かります。
ここでは、シムオンと関係の深い人物の記事を紹介します。
- 世宗(セジョン)朝鮮第4代国王。
シムオンの娘 昭憲王后の夫、シムオンにとっては義理の息子です。
1418年に即位しましたが、当初は太宗が太上王として強い権力を持っていました。
シムオン事件はこの太宗と世宗の二重権力の時代に起こった政治事件です。→ 朝鮮 世宗の生涯 - 昭憲王后(ソホンワンフ)
世宗の王妃で、シムオンの長女です。
父が処刑されたときには王妃の地位も危うくなりましたが、世宗の保護によって廃位を免れました。その後も王妃として宮中にとどまり、世宗の治世を支えます。
→ 昭憲王后の生涯 - 太宗(テジョン) 朝鮮第3代国王で世宗の父。
世宗に王位を譲った後も太上王として政治の実権を握っていました。太宗は王権の弱体化を強く警戒しており、外戚の勢力拡大にも敏感でした。
シムオン事件はこの太宗の強い政治統制の中で起こった出来事と考えられています。
→ 太宗 李芳遠 の生涯 - 朴訔(パク・ウン)
朝鮮初期の重臣で、当時の左議政。
沈温と政治的に対立していた人物で、沈温が明へ使節として出発している間に弾劾を行いました。この告発がきっかけとなり、沈温は帰国後に逮捕されることになります。
→ 朴訔(パクウン)の生涯
ドラマのシムオン
- 龍の涙 KBS 1996~1998年 演:チョン・ハワン
- 大王世宗 KBS 2008年 演:チェ・サンフン
- 根の深い木 SBS 2011~2011 演:ハン・インソ
- ポンダンポンダン・王様の恋 MBC 2015年 演:チョン・ジョンソ
- 太宗イ・バンウォン KBS 2021年、演:キム・スンウク

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