馬医に登場する淑徽公主(スッキコンジュ)。
主人公・ペク・クァンヒョンに恋心をいだく王女。兄・顕宗に大変可愛がられ、おつきの尚宮や武官を困らせる姿が印象的です。
実際の公主はどんなひとだったのでしょうか。史実の淑徽公主はどんな人物だったのか紹介します。
なお、ドラマの日本語版では名前は”スッキ”となっていましたが、”スクフィ”と発音するのが韓国語に近いようです。
淑徽公主(スッキコンジュ)の史実
どんな人?
称号:淑徽公主(スッキコンジュ)
生年月日:1642年
没年月日:1696年10月27日
彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の17代孝宗~19代粛宗の時代の人です。
日本では江戸時代になります。
家族
母:仁宣王后
兄弟:
姉:淑愼公主
姉:淑安公主
姉:淑明公主
兄:顕宗
妹:淑靜公主
妹:淑敬公主
子供
長男:鄭台一(チョン・テイル)
養子:鄭健一(チョン・ゴンイル)
家系図
淑徽公主の生涯を分かりやすく解説
淑徽公主は1642年、李氏朝鮮王朝16代王・仁祖の次男である鳳林大君と、その正室・仁宣王后の間に生まれた4女です。
両親は清の人質になっていたので清の瀋陽に滞在。そのころに生まれました。そのため、淑徽公主は幼少期を清国で過ごしました。
王族の華やかな日々
やがて朝鮮に帰国。叔父である昭顕世子の早世により、父・鳳林大君が世子となり、淑徽公主は王族として華やかな日々を送ります。
父・孝宗と兄・顕宗に可愛がられ、恵まれた環境で育ちました。
結婚と悲劇
12歳で鄭齊賢と結婚。
16歳で長男・鄭台一をもうけます。しかし、夫の早逝とその後の一人息子の死という大きな悲劇に見舞われます。
若くして未亡人となり、その後は養子の鄭健一を迎えて暮らしました。
淑徽公主の最後
晩年は病に伏せるようになりました。
1696年(粛宗11年)。淑徽公主の病気がひどくなり、甥の粛宗がお見舞いに行きました。でも病気は回復せずその年の10月27日。亡くなりました。
享年44歳。
粛宗は自ら公主の家に弔問に行き、葬儀を丁重に行うように命じました。
まとめ
淑徽公主は、華やかな王族の生まれながら、若くして夫と息子を亡くすなど、数々の悲劇に見舞われた生涯を送りました。
馬医の王女と史実の淑徽公主の違い
ドラマ「馬医」の淑徽公主
ドラマ「馬医」では、淑徽公主は兄である顕宗に深く愛され、宮廷内で重要な役割を担う人物として描かれています。
特に、主人公の白光炫(ペククァンヒョン)とのロマンスはドラマを盛り上げる要素の一つになっていて、ドラマを見る私達に強い印象を与えました。
また宮廷内の政治闘争にも巻き込まれ、その中で毅然とした態度を見せる姿も描かれました。
史実とドラマの比較
でもドラマで描かれた淑徽公主は、史実とは大きく違います。
- 宮廷での生活: ドラマでは顕宗が即位した後も宮廷で暮らしていたように描かれていますが、史実ではすでに結婚しています。宮廷の外で暮らしていました。そのため、ドラマで描かれたような白光炫との出会いや、宮廷内の出来事に関わることは考えられません。
- 宮廷闘争: ドラマでは姉の淑安公主のように宮廷の政治闘争に巻き込まれる様子が描かれていますが、史実では宮廷の争いとは無縁に過ごしていたようです。
- 晩年: 史実では12歳で結婚し、21歳で夫を亡くすなど比較的平穏なながらも寂しい生涯を送ったと考えられています。ドラマのように華やかでドラマチックな人生を送っていたわけではありません。
ドラマオリジナルの要素
ドラマ「馬医」の淑徽公主のエピソードは、多くがドラマオリジナルです。
ドラマは史実を基にしていますが、視聴者の興味を引くために様々な脚色が加えられています。
淑徽公主の場合、主人公とのロマンスや宮廷での活躍など、史実にはないドラマチックな要素が加えられ、より魅力的なキャラクターとして描かれているのです。
史実における淑徽公主
史実の淑徽公主は、ドラマのように華やかな人生を送っていたわけではなく、むしろひっそりと暮らしていたと考えられます。
もしドラマで取り上げられなければ、その存在を知っている人はいなかったかもしれません。
まとめ
ドラマ「馬医」の淑徽公主は、史実を基にしながらもドラマならではの解釈と脚色によって生まれたキャラクターです。
ドラマを見る上で、史実とドラマの違いをよく理解して見ると、より深く楽しむことができると思います。
テレビドラマの淑徽公主
馬医 MBC、2012年 演:キム・ソウン
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