王建(ワン・ゴン)は高麗の初代国王。
新羅の衰退後、分裂していた朝鮮半島を統一し、400以上続く高麗王朝を造った人物です。
史実の王建(ワン・ゴン)はどんな人物だったのか紹介します。
王建(ワン・ゴン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:877年1月31日
没年月日:943年7月4日
名前:王建(ワン・ゴン)
廟号:太祖
父:王隆(世祖)
母:韓氏(威粛王后)
妃:
神恵王后柳氏
荘和王后呉氏
神明順成王后劉氏
神静王后皇甫氏
神成王后金氏
貞徳王后柳氏
王建は高麗王朝の初代国王です。
日本では平安時代の人になります。
おいたち
877年。松嶽(開城)の豪族・王隆と妻・韓氏の長男として生まれました。
父・隆は松嶽(開城)を中心に貿易で財をなした新興豪族でした。王建の家系には様々な説がありよくわかっていません。また「王」という姓は王建が高麗王になってからつけたものだともいわれています。
王建が育った時代は新羅の力が衰え各地で反乱がおきていました。各地の豪族が反乱を起こし事実上の独立国が乱立する戦国時代のような有様になっていました。そのような乱世で半島中部で大きな勢力をもっていたのが弓裔でした。弓裔は将軍を自称し勢力を拡大しました。豪族たちは次々に弓裔に投降しました。弓裔は味方にした者たちに公平に領地を分け与えたので弓裔に従うものは多かったのです。
895年。王隆と王建は弓裔に投降。弓裔は王隆・王建親子に官位を与えました。
898年。王建は精騎大監に任命され楊州と見州で戦いました。王建の初陣といわれますが勝ったかどうかは記録がないのでわかりません。
後高句麗の将軍として活躍
899年。弓裔は松嶽を都にします。弓裔には松嶽とその周辺の豪族の協力が必要だったからでした。
901年。弓裔は高句麗の復活を主張して国号を「高麗」としました。歴史上は高氏の高句麗と区別するために弓裔の建てた国は「後高句麗」と言います。
900年ごろから王建は西南海域の水軍を指揮して後百済の甄萱と戦いました。各地で後百済と戦い手柄を立てます。
豪族の良吉は後百済と同盟を結び後高句麗と対立していました。王建は良吉や後百済と戦います。
王建は羅州攻めの最中、地元の豪族の娘と結婚。生まれた息子が王武(ワン・ム:2代恵宗)です。
905年。弓裔は都を鉄原に移し、住民一千世帯を移住させます。松嶽周辺の豪族は弓裔の決定が不満でした。松嶽周辺の豪族にとって不満は残り続け後の反乱の元になります。
弓裔と王建の活躍で後高句麗は新羅や後百済を超える勢力に成長しました。すると王建の周りには彼を頼って人が集まってくるようになります。王建は派閥が大きくなって弓裔に危険人物扱いされるのを怖れて自分を地方に移動させるように願い出ました。弓裔は王建の希望を受け入れて水軍を任せました。
再び水軍を指揮した王建は後百済を圧迫しました。弓裔は王建が羅州地域を平定したという話を聞き王建を称賛しました。その一方で王建を驚異に感じ始めていたので都に呼び戻し王建に忠誠を誓わせます。弓裔の疑いは晴れたものの王建の危機感はむしろ強まりました。
このころの弓裔は王妃や王子を粛清したり多くの臣下を殺害するなど横暴になっていました。豪族たちは危機感を強めます。
918年。弓裔の部下である洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜智謙らが謀反を起こして弓裔を追放。王建を新しい国王にしました。
高麗建国
919年。王建は都を松嶽に移し国号を「高麗」にしました。
現在では王建が建国した国を「高麗」、朱蒙が建国した国を「高句麗」といいます。ところが朱蒙の国も古くは「高麗」と言いました。長寿王のあたりから「高句麗」という国号を使い始めたといわれます。王建は朱蒙から続く高麗の末裔だと主張したのです。
920年。後百済に押され気味だった新羅と同盟しました。
926年。後百済が新羅の都・金城を占領。新羅の景明王は自害します。
927年。新羅の金城が再び後百済に襲撃され景哀王が死亡。後百済によって敬順王が即位します。新羅の領土を巡って高麗と後百済が戦いますが一進一退が続きました。
929年。高敞の戦いで後百済に勝利。
930年。古昌郡の戦いで大勝利。
以後、後百済の将兵の投降が増え後百済の勢力は弱くなります。
933年。後唐に朝貢して「高句麗王」の称号を得ました。
934年。後百済は和睦を申し入れてきました。王建は和睦するつもりでした。しかし重臣の庾黔弼(ユ・グムピル)が反対したため百済と戦い。熊津(公州市)より北を領地にしました。
935年。後百済で王位継承問題がおこり、国王の甄萱が長男の甄神剣に島流しにされました。甄萱は脱出して高麗に亡命します。
また新羅の敬順王が降伏してきたため、新羅を併合します。ここに新羅は滅亡しました。
半島統一
936年。王建は後百済の甄神剣を討ち後百済を滅ぼしました。
ここに朝鮮半島は統一されました。
統一後、王建は新羅の貴族や自分に協力した豪族たちをとりたて要職につけます。国内の混乱を抑えて反乱が怒らないようにするためです。様々な制度や組織を作り国としての形を整えました。
中国の五代の国々に朝貢を行い良好な関係を作りました。
寮に対抗するため日本の朝廷に使者を送りましたが拒否されています。日本では敵対関係にあった新羅が名前を変えただけだと思って不審感を持っていたためです。
寮に滅ぼされた渤海の移民を受け入れました。そのためか、渤海を滅ぼした遼(契丹)に過剰な敵対心をもっていました。遼から贈られたラクダ50頭を餓死させ、使者を処刑しました。このときは遼は宋との戦いで忙しかったので問題は怒りませんでしたが。後の時代に遼に攻め込まれることになります。
943年。王建は死去。67歳でした。
訓要十条
死の直前。高麗の歴代王が守るべき規則を残しています。訓要十条といいます。
訓要十条の内容
1.仏教の信仰は行うが、寺院間の争いは禁止する。
2.風水で寺を作る。
3.通常は長男に継承させる。もし適切な人物がいない場合は、序列に関係なく徳のある王子を継承させる。
4.中国の風習にむやみに従わない。契丹は蛮族なので風俗と言語は見習ってはいけない。
5.西京(平壌)は王室にとって重要な場所なので100日以上とどまること。
6.提灯会(仏教行事)と八関会(神の行事)は増減せずに維持すること。
7.臣下と民に対する賞罰を明らかにして讒言(いつわり)を信じて民の信望を失ってはいけない。
8.車嶺山脈以南、公州江の外の人々は反逆の怖れがあるので役職を与えてはいけない。
9.臣下と軍人の給料をむやみに増減しない。兵士たちの士気を高めるため毎年武芸に秀でた者に適度な官職を与えること。
10.経典や歴史書物を読んで昔のことを教訓に反省する姿勢で政治に励むこと。
王建は分裂していた朝鮮半島を統一し、高麗が400年続く基礎を作りました。
王建の子どもたち
王建は豪族を味方にするため、さまざまな豪族から妃を迎えました。そのため子供の数も非常に多くなっています。王建の子を紹介します。
荘和王后 呉氏
恵宗( 王武:ワン・ム)
神明順成王后 劉氏
太子泰
定宗(王尭:ワン・ヨ)
光宗(王昭:ワン・ソ)
文元大王(王貞:ワン・ジョン)
證通国師
安貞淑儀公主
興芳公主
神静王后 皇甫氏
戴宗旭(王旭:ワン・ウク)
大穆王后
神成王后 金氏
安宗郁(王郁:ワン・ウク)
貞徳王后 柳氏
王位君
仁愛君
元荘太子
助伊君
文恵王后
宣義王后
公主
貞穆夫人 王氏
順安王大妃
献穆夫人 平氏
寿命太子
東陽院夫人 庚氏
孝穆太子義
孝隠太子(王垣:ワン・ウォン)
粛穆夫人
元寧太子
天安府院夫人 林氏
孝成太子琳珠
孝祇太子
興福院夫人 洪氏
太子稷
公主
小広州院夫人 王氏
広州院君
聖茂夫人 朴氏
孝悌太子
孝明太子
法登君
資利君
公主
義成府院夫人 洪氏
義城府院君
TVドラマ
龍の涙 KBS、1996年 演:キム・ギョンウン
太祖王健 KBS、2000年 演:チェ・スジョン、オ・ヒョンチョル
帝国の朝 KBS、2002年 演:イ・ムンス
千秋太后 KBS、2009年 演:チョ・ミョンナム
輝くか狂うか MBC、2015年 演:ナム・ギョンウプ
麗・花萌ゆる八人の皇子たち SBS 2016年 演:チョ・ミンギ
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