王垣(ワン・ウォン)は高麗の太祖王建の息子。
母方の父は高麗初期に活躍した武将・庾黔弼(ユ・グムピル)。
王位争いには加わらず、結婚して二人の子供も出来ました。ところが、光宗の時代に処刑されました。謀反を企てた罪で捕らえられ、光宗かあ毒薬を与えられ自害しました。
二人の息子は庶民として暮らしましたが、後の時代に身分を回復しています。
史実の王垣(ワン・ウォン)はどんな人物だったのか紹介します。
王垣(ワン・ウォン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:不明
名前:王垣(ワン・ウォン)
称号:孝隠太子(ヒョウン太子)、東陽大君
父:太祖(王健)
母:東陽院夫人庾氏
妻:不明
子供
東陽君王琳
温潔公王禎
高麗王朝、3代国王です。
日本では平安時代になります。
父は高麗王朝の初代国王・太祖(王健)。
母は第9妃・東陽院夫人庾氏。
母の父は庾黔弼(ユ・グムピル)。高麗初期の武将です。高麗が建国してまもないころ。また朝鮮半島は統一できていませんでした。北方や後百済との戦いで活躍しました。
ワン・ウォンには同母兄の孝穆太子がいます。出家して僧侶になりました。
ワン・ウォンの子供時代については記録がなく。どのような人物だったのかはわかりません。
光宗(ワン・ソ)の時代までは生きていたのは間違いありません。
高麗史によると、ワン・ウォンの性格は乱暴だった、気性が悪かったと書かれています。
光宗の王族粛清で毒薬を飲む
光宗時代のことです。よからぬことを企む人々と徒党をくみ、反逆を計画していたというので捕らえられました。光宗はワン・ウォンに毒薬を与えて自害させました。
光宗は様々な改革を行った王様ですが、容赦のない人物だったことでも有名です。あまりにも急激な改革だったので豪族が反対していました。豪族の中には王族と手を組んで抵抗するものもいました。
光宗は960年以降、逆らう王族や豪族を次々と粛清しました。
ワン・ウォンは改革に反対する豪族たちと手を組み、反乱を計画していたのかもしれません。あるいは豪族に担がれたのかもしれません。
もしかすると兄が出家したのもワン・ウォンの反乱と関係があるのかもしれません。
性格が悪かったのは本当かどうかはわかりません。処刑された人間はたいてい悪く書かれているからです。もしかすると、自信過剰だったのかもしれませんね。
ワン・ウォンには息子が二人いました。王琳と王禎です。二人は幼かったので処刑は免れました。しかし逃亡生活を送り庶民に紛れて暮らしていました。
息子たちの身分回復
7代国王・穆宗の時代。武将の康兆(カン・ジョ)が反乱を起こし、8代国王・顕宗が即位しました。
二人の息子、王琳と王禎は東陽君と温潔公の爵位と土地と奴婢を与えられ。王族としての身分を回復することが出来ました。
カンジョの反乱はドラマ「千秋太后」でも描かれました。王琳と王禎は登場しませんでしたが。光宗によって地位を追われた王族も後の時代には回復した人もいるということです。
テレビドラマ
帝国の朝 KBS、2002年 演:ゴ・ドンヒョン、パク・ジンヒョン
輝くか狂うか MBC 2015年 演:ジ・ウンソン
麗・花萌ゆる8人の皇子たち 2016年 SBS 演:ユン・ソンオ
”麗・花萌ゆる8人の皇子たち”では、ナルシストな王子という設定。
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