王貞( ワン・ジョン)は高麗の初代国王・太祖王建(ワン・ゴン)の息子。
4代国王・光宗(ワン・ソ)や3代国王・光の同母弟になります。
ワン・ジョンは王にはなってません。でもなぜか「文元大王」という名前がついています。なぜでしょうか?
史実の王貞( ワン・ジョン)はどんな人物だったのか紹介します。
王貞( ワン・ジョン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:不明
名前:王貞( ワン・ジョン)
称号:文元大王
父:太祖(王健)
母:神明順聖王后 劉氏
妻:文恵王后 柳氏
子供
長男:千秋殿君
次男:阿志君
長女:獻懿王后(景宗の妻)
高麗王朝、初代国王・太祖王建(ワン・ゴン)の息子。
日本では平安時代になります。
ワン・ジョンとは
父は高麗王朝の初代国王・太祖王建(ワン・ゴン)。
太祖の14男。神明順聖王后(皇后ユ氏)にとっては4番めの息子です。
神明順聖王后の実家は忠州(韓国のほぼ中央部)の有力な豪族・劉兢達(ユ・グンダル)でした。母の実家は大きな力を持っていましたが、ワン・ジョンには既に同母兄が3人いました。僧侶になった弟が1人います。
一番上の同母兄は若くして亡くなりました。2人の兄ワン・ヨとワン・ソは有力な王位継承者とみられていました。
優秀な兄2人が母の実家の援助をうけて王位を狙ってるのでワン・ジョンには王位争いに加わるすきがありません。早くから王位はあきらめていたと思われます。
名門の柳氏の娘を妻にして2男1女をもうけました。
同母兄ワン・ソ(光宗)が王になると王族の粛清が行われました。異母兄弟やその子どもたちが処刑されました。
でも、光宗の実弟だったことや野心がなかったことも幸いしたのでしょう。ワン・ジョンの娘が兄・光宗の息子・景宗の妃になりました。
つまり光宗の時代も生き延びたということです。
歴史にはあまり名を残していませんが、王族にしてはささやかな人生を歩んだのかもしれません。
王じゃないのに王
ワン・ジョンは王にはなっていません。ところが「文元大王」という称号をもらっています。亡くなったあとに贈られたものだと思われます。でもなぜ王の称号が与えられたのかは分かっていません。
手がかりになりそうのはワン・ジョンの娘です。
ワン・ジョンの娘は5代国王景宗の妃(第2王妃・獻懿王后)になりました。
景宗の第1妃の父は新羅の最後の王様(敬順王)でした。
景宗の第3妃献哀王后と第4妃献貞王后の父も王ではありません。でもあとで「戴宗」の廟号(墓石に刻む宗教上の名前)と「宣慶大王」の諡号(王としての名前)をもらってます。
これは献哀王后と献貞王后の兄・成宗が即位した時に、王の父親だというので王の名を送ったからです。
成宗・献哀王后・献貞王后の母は王建の第6王妃・貞徳王后柳氏。第6王妃・貞徳王后柳氏は後で出てきます。
すると景宗の第2妃の親だけ王じゃありません。そこで第2妃の親にも王の名をあたえたのかもしれません。
あるいは、ジョンの娘が景宗に嫁いだとき。第1妃に負けない格にするために、高麗系の重臣が主張して王の称号を与えたのかもしれません。
この時代は新羅系と古くから王建に従っていた重臣が派閥争いをしていました。政治にもバランス感覚が必要でした。
いずれにしても、後の時代の人が政治的な目的があって王の名を与えたのだと思われます。
ワン・ジョンの妻の実家は有力豪族 柳氏
ワン・ジョンは異母妹の柳氏と結婚しました。文恵王后ともよばれます。
柳氏の母は太祖王建の第6王妃・貞徳王后柳氏です。柳一族は劉一族、皇甫一族とともに王建を支えた有力な豪族でした。
柳一族からは第一王妃・神恵王后柳氏が嫁いでいましたが、神恵王后は子供ができませんでした。そこで同じ柳一族から嫁いできたのが貞徳王后なのです。その柳一族の血筋を引いているのが文恵王后 柳氏なのです。
柳氏は王妃にはなっていません。でも、文恵王后という王妃の称号をもらっています。夫のワン・ジョンが王の称号をもらったので王妃という扱いになったのでしょう。
テレビドラマ
麗・花萌ゆる8人の皇子たち 2016年 SBS 演:ジス
”麗・花萌ゆる8人の皇子たち”では、ワン・ジョンとして登場。ヘ・スヘ・スを慕う弟分のような存在です。正妻がいますが、ヘ・スを匿います。
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