朝鮮王朝は1392年に李成桂(イ・ソンゲ)によって建国されました。
李成桂には8人の息子たちがいました。彼らは父の建国事業を支え、また時には激しく対立しながら朝鮮王朝初期の歴史に名を残しました。
この記事では李成桂の息子たちの生涯と、息子たちが争った王子の乱を紹介します。
李成桂(イソンゲ)の息子たちと家族構成
李成桂には二人の妻がいました。
一人目の妻は神懿王后 韓氏。彼女との間に6人の息子をもうけました。
二番目の妻は神徳王后 康氏。彼女との間に2人の息子をもうけました。

太祖 イソンゲの家系図
李成桂の妻たち
朝鮮と違い、高麗は一夫多妻制。韓氏と康氏はどちらも妻です。
それに対して李氏朝鮮は一夫一婦制。妾や側室は家来扱いになります。
第一夫人の韓氏は李成桂と若い頃に結婚。主に地方に住んでいたので「郷妻」と呼ばれます。第二夫人の康氏は都の開城の名家出身。「京妻」と呼ばれ、李成桂の晩年は一緒に過ごす時間も長かったようです。
韓氏の方が先に結婚して年上でもあるので家の中では韓氏の方が地位は高いのですが、社会的には名家出身の康氏の方が影響力があります。
李成桂の息子たち
神懿王后韓氏の息子たちは李成桂の朝鮮建国に大きく貢献しました。でも神徳王后康氏の息子たちは幼かったこともあり、建国には功績はありません。
しかし朝鮮建国後は唯一の王妃となった康氏の息子として存在感を発揮。後継者争いに巻き込まれてしまいます。
李成桂の娘たち
神懿王后韓氏の娘は二人。高麗の役人と結婚。歴史上はほとんど登場しません。
韓氏の娘は一人。特に慶順公主の夫・李済は韓氏の忠実な家来として働きました。
李成桂と神懿王后韓氏の息子
長男 李芳雨(イ・バンウ)
没年:1393年
官位:鎮安大君
性格:病弱であったとされます。
業績:特に目立った業績は残していません。
最期:病死
李芳雨(イ・バンウ)の生涯
父・李成桂が朝鮮王に即位後鎮安大君という称号を与えられましたが、病弱であったため政治や軍事の舞台で活躍することはほとんどありませんでした。
李芳雨は穏やかな性格だったとされ、父や弟たちの間で繰り広げられた激しい権力闘争とは距離を置き静かに生涯を送りました。
1393年。まだ朝鮮王朝が成立して間もないころ、彼は病によりこの世を去りました。
次男 李芳果(イ・バングァ)/定宗
没年:1419年
官位:永安君→永安公→定宗
性格:温厚で争いを好まなかったとされます。
業績:第二次王子の乱後、王位を継承
最期:在位2年で退位し、上王として生涯を終えました。
李芳果(イ・バングァ)の生涯
李芳果は有能な武将で父・李成桂が朝鮮を建国する過程で彼は常に父を支えました。
しかし朝鮮建国後に繰り広げられた二度の「王子の乱」は、彼の運命を大きく変えました。五男の李芳遠(後の太宗)が起こした第二次王子の乱の後、彼は兄として、また父・李成桂の意志を尊重して王位を継承することになります。
定宗となった李芳果は争いを好まない穏やかな性格から、在位中は政治的な安定を重視しました。
しかし命の危険を感じ、弟・李芳遠に王位を譲ることを決意します。わずか2年という短い在位期間でしたが彼は混乱の収束に努めました。
退位後は上王として静かで穏やかな日々を送りました。
三男 李芳毅(イ・バンウィ)
没年:1404年
官位:益安君
業績:第一次王子の乱で活躍。
最期:詳細は不明
李芳毅(イ・バンウィ)の生涯
李芳毅は武勇に優れた人物として知られていました。
父・李成桂の朝鮮建国を支え、第一次王子の乱では五男の李芳遠(後の太宗)を助けて勝利に大きく貢献しました。
乱の後はその功績により重用されましたが、その後の生涯については詳しい記録が残っていません。
四男 李芳幹(イ・バンガン)
没年:1421年
官位:懐安君
性格:野心家であったとされます。
業績:第二次王子の乱を起こしましたが、失敗。
最期:流刑に処された
李芳幹(イ・バンガン)の生涯
李芳幹は武勇に優れ、野心家であったと伝えられています。
第二次王子の乱では彼は四男の李芳遠(後の太宗)と対立、自ら王位を狙って挙兵しました。しかし芳遠の軍に敗れ乱は鎮圧されました。
その後、彼は流刑に処され失意のうちに生涯を終えました。
五男 李芳遠(イ・バンウォン)/太宗
没年:1422年
官位:靖安君→靖安公→太宗
性格:優れた政治手腕と強いリーダーシップを持っていました。
業績:二度の王子の乱を経て第3代国王となり強力な王権を確立。
最期:病死
李芳遠(イ・バンウォン)の生涯
彼は兄弟の中でも最も頭がよく、科挙の文科に合格。高麗では文官になっていました。聡明で決断力に優れ父の建国事業を積極的に支えました。
王位継承を巡る二度の「王子の乱」は彼の生涯を大きく変えました。第一次王子の乱では異母弟の李芳碩(イ・バンソク)を殺害、政敵を排除。
第二次王子の乱では兄の李芳幹(イ・バンガン)を破り、最終的に王位を手にしました。
太宗となった李芳遠は強力なリーダーシップを発揮。朝鮮王朝の基盤を確立しました。中央集権体制を強化、軍事力と経済力を増強しました。また多くの人材を育成、世宗時代に活躍する重臣が誕生しました。
一方で、彼の治世は血なまぐさいものでした。王権を脅かす可能性のある人物は徹底的に排除され、多くの人々が犠牲となりました。
でもその協力なリーダーシップによって朝鮮王朝が長く続く基礎を作ることができたともいえます。
六男 李芳衍(イ・バンヨン)
没年:不明
生母:神徳王后康氏
官位:撫安君
業績:特に目立った業績は残していません。
最期:若くして死亡。死因は不明。
李芳衍(イ・バンヨン)の生涯
李芳衍の生涯については、詳しい記録が残されていません。父・李成桂が国王担ったときにはすでに亡くなっていたようです。おそらく病死と思われます。
李成桂と神徳王后康氏の息子
七男 李芳蕃(イ・バンボン)
没年:1398年
官位:宜安君
最期:第一次王子の乱で殺害されました。
李芳蕃(イ・バンボン)の生涯
宜安君(ウィアングン)の生涯は短く悲劇的なものでした。
神徳王后 康氏の息子として彼は異母兄弟たちとの間で繰り広げられた王位継承争いに巻き込まれました。
異母兄の李芳遠(後の太宗)との対立は避けられず、第一次王子の乱では李芳遠との対立を避けようとしたにもかかわらず、李芳碩とともに殺害されました。
八男 李芳碩(イ・バンソク)
没年:1398年
官位:撫溪君→世子
最期:第一次王子の乱で殺害されました。
李芳碩(イ・バンソク)の生涯
李芳碩は朝鮮建国後に若くして世子に立てられました。
父・李成桂の寵愛を受け将来を期待されていましたが、異母兄たちとの政争に巻き込まれました。
異母兄の李芳遠(後の太宗)との対立は避けられず、第一次王子の乱にでは芳遠によって殺害されました。
王子の乱とその影響
朝鮮王朝が建国してまもなく。李成桂の息子たちの間で二度にわたって王位継承を巡る争いが怒りました。この争いを「王子の乱」と言います。
これらの争いは単なる兄弟間の後継者争いにとどまらず、建国初期の政治情勢や人間関係が複雑に絡み合ったものでした。
第一次王子の乱の経緯と結果
乱の背景と原因
第一次王子の乱は。1398年に起こりました。
その背景には、朝鮮の世子選びがありました。李成桂は二番目の王妃である神徳王后康氏の末子、李芳碩を世子に指名しました。
これは神懿王后韓氏の息子たちの不満を高めました。
特に五男の李芳遠は建国に大きく貢献したにもかかわらず、世子に選ばれなかったことに強い不満を抱いていました。また李芳遠は神徳王后康氏や儒学者による国の運営を目指す鄭道伝(チョン・ドジョン)との対立も深めていました。
経緯
神徳王后康氏の死後。李成桂が病気になると李芳遠は挙兵。
まずは鄭道伝を殺害。次に李芳碩と李芳蕃を殺害しました。
結果
この乱によって、李芳遠は実権を掌握。太祖 李成桂は退位。二男の李芳果が王位を継ぐ事になりました。
第二次王子の乱
乱の背景と原因
第二次王子の乱は1400年に起こりました。
この乱は李芳遠と四男の李芳幹の対立が原因でした。李芳遠は第一次王子の乱後、実質的な権力を握っていましたが、李芳幹はこれに不満を持っていたのです。
経緯
李芳幹は李芳遠を排除し、自らが王位に就くことを目指して挙兵しました。しかし頼りにしていた三男 李芳毅の協力が得られず。李芳遠の軍に敗れて乱は鎮圧されました。
結果
この乱によって李芳遠は反対勢力を一掃し、王位継承への道を確固たるものにしました。
その後、李芳果は李芳遠に王位を譲り李芳遠が太宗として即位しました。太宗は強力なリーダーシップを発揮、朝鮮王朝の基盤を確立しました。
王子の乱の影響
王子の乱は朝鮮王朝初期の政治に大きな影響を与えました。
王位は「正妻の長子(生存している中で最年長)が継ぐ」という王位継承の原則が確立されます。この原則は14代宣祖が即位するまで守られました。
さらに太宗によって中央集権体制が強化されます。
一方で多くの血が流れ兄弟間の深い亀裂が残りました。
イ・ソンゲの息子たちとその争い:まとめ
この記事では李成桂とその息子たちの生涯、そして王子の乱について詳しく見てきました。
李成桂は激動の時代を生き抜き、朝鮮王朝を建国した英雄である一方、家族との間には複雑な感情を抱えていた人物でした。
息子たちは父の偉業を支え、また時には反発しながらそれぞれの道を歩みました。
王子の乱は、朝鮮王朝初期の政治を大きく揺るがしましたが、その後の王朝の基盤を築く上で重要な出来事でした。この記事を通して、李成桂と息子たちの物語が、皆様の心に深く残ることを願っています。
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