汪直は明朝時代の宦官。
秘密警察兼軍隊の西廠の長官でした。容赦のない取締で臣下たちに恐れられました。西廠は安易に人を逮捕して処分する権力の乱用で評判の悪い組織でした。
そのため汪直は明朝でも四大宦官の一人といわれ、悪い臣下の代表のように言われます。
ところが汪直には国境を守る軍人としての一面もありました。異民族との戦いでは意外と功績をあげています。
成化十四年では 汪植(おうしょく)の名前で登場します。
史実の汪直(おうちょく)はどんな人物だったのか紹介します。
汪 直の史実
明軍の捕虜になって宦官になる
汪直の生年、家族は不明。
大藤峡(広西チワン族自治区桂平市)の瑤(ヤオ)族の出身。
成化帝が即位してまもなく大藤峡で瑤族の反乱が起きました。明軍によって鎮圧され、子供だった汪直は捕らえられました。
成化3年(1467年)。汪直は北京に連行され、宮中につれてこられて拷問された後、宦官になりました。
最初は招徳宮の万貴妃に仕えました。
成化帝の信頼を得る
その後は御馬監太監になりました。
御馬監とは皇帝の馬を管理する宦官。皇帝の領地(皇荘)や牧草地も管理。騎馬軍団にとって馬は「兵器」なので軍にも繋がりがあります。御馬監は権限が大きいので宦官にとっては出世コースになっています。
成化12年(1476年)。呪術者の李子龍が太監の韋舍と結託して宮中に侵入。黒眚(しい)という化け物が出現したと言って騒ぎを起こします。黒眚は不吉な魔物で、悪い出来事の前触れと信じられていました。事件後、李子龍は処刑されました。
成化帝はこの事件に嫌気がして、外で何が起きているのか知りたくなりました。
汪直は頭が良かったので成化帝に上手く取り入りました。成化帝は汪直を民間人に変装させ、2人の錦衣衛と一緒に宮殿の外で何がおきているか偵察に行かせました。
他の役人たちは汪直の活動を知りません。都御史の王越とは親しくしていたので知っていました。
汪直は外で見たり聞いたりしたことを報告しました。成化帝は汪直の報告に喜びました。
中国版KGB 西廠 の 長官になる
西廠の設立
成化13年1月(1477年)。成化帝は新しい警察組織兼軍隊を作りました。それが西廠(せいしょう)です。
それまでにも明には東廠(とうしょう)という秘密警察がありました。東廠は宦官が支配する秘密警察兼軍隊です。スパイを使って臣下を見張り、怪しい者がいると捕らえて処分していました。東廠には軍隊も持ってますし、秘密警察の錦衣衛を支配下においてました。
中国版のKGBです。
でも成化帝は東廠だけでは安心できなくなったのです。
そこで成化帝は西廠を作り汪直を長官に任命しました。
西廠は皇帝の直属の組織。どの組織の命令も受けません。西廠もやっていることは東廠と同じですが、西廠に所属する人数は東廠の倍。権威も東廠や錦衣衛よりはるかに上です。
つまり偉い順に並べると 西廠 > 東廠 > 錦衣衛 >六扇門 になります。
西廠の長官になったばかりの汪直は早速いくつかの事件を担当します。
楊曄 事件
楊曄は かつて永楽帝~正統帝に仕えた三楊の一人・楊栄の曾孫。
成化13年2月(1477年)楊曄とその父・楊奏は地方で殺人を働き、被害者から訴えられました。
楊曄は朝廷の重臣に賄賂を渡そうと親戚の董璵を頼って北京にやってきました。汪直と西廠は楊曄親子、董璵を逮捕。買収しようとした役人の名簿も発見しました。賄賂を渡す前だったので西廠は金銭を押収できませんでした。そこで楊曄と董璵を拷問にかけて渡す予定の財産を楊仕偉が持っていることを吐かせて楊仕偉を逮捕しました。
楊曄は拷問で死亡。楊奏は死刑になりました。董璵と楊仕偉は降格になりました。楊家は財産没収されて没落しました。
西廠の長官を解雇
ところが、西廠のやりかたにあまりにも強引で性急すぎると批判が起こります。
5月。内閣首輔(宰相)の商輅(しょう・ろ)は11の罪を並べて万安、劉珝、劉吉たち重臣を説得。汪直に弾劾を起こしました。
成化帝はしぶしぶ汪直を西廠から解任して御馬監に戻しました。
汪直は西廠の長官ではなくなりました。でも西廠への影響力は残っています。成化帝からの信頼も失われていません。
1ヶ月後。汪直は「商輅が楊曄から賄賂を受け取った」と訴えました。成化帝は商輅を解任。汪直は再び西廠の長官になりました。
覃力朋 事件
同じ年。南京の鎮監(総督)覃力朋(たん・りきほう)が都に貢物を運んだ帰り。百隻の偽装船で塩を運んで密売しました。南京に戻った覃力朋は騒ぎを起こして役人に尋問されそうになりました。覃力朋は塩の密売がバレるのを恐れて役人達を殺傷しました。汪直はそれを知って南京に部下を派遣して逮捕。処刑しようとしました。
覃力朋は司礼監太監(宦官の最高位)に助けを求めて命は助かりました。でも役職につくことはできなくなりました。
その報告を聞いた成化帝は「汪直は有能な人物だ」と思いますまます重用しました。
皇帝の信頼をさらに強くした汪直と彼の率いる西廠は疑いのある人達を次々に逮捕していきました。
その後も商輅は「汪直は若くて未熟だ。世間に疎いので韋瑛たちに操られている」と批判しました。韋瑛とは汪直が腹心の部下として使っていた錦衣衛です。
しかし商輅にはどうすることもできません。
汪直に逆らう人はいなくなりました。
軍人としての汪直
女真との戦い
成化14年(1478年)。建州女真が国境に侵入。軍でのキャリアを積みたい汪直は討伐に行こうとしました。
でも大学士の万安たちに阻止されます。
そこで成化帝はまずは部下の王英を遼東に向かわせ、その後。汪直が行ってもよいと命令しました。
成化15年(1479年)。陳鉞は遼東巡撫でしたが地方の事情を理解していないという理由で馬文升に交代していました。
陳鉞は親しくしていた汪直に訴えました。汪直は成化帝に遠征の許可をもらって監軍(軍の監視役)として遼東に行きました。
陳鉞は汪直を出迎えてもてなしました。
馬文升は汪直を快く思っておらず対立していました。汪直の取り巻き達は馬文升のせいで女真からの攻撃を受けていると誹謗中傷。成化帝は汪直に馬文升の逮捕を命令。馬文升は重慶に左遷になりました。
その後、将軍の朱永が軍を指揮。朝鮮の李娎の軍も合流して女真と戦いました。
この戦いで国境付近の建州女真は散り散りになり、しばらく女真の驚異はなくなります。この後ヌルハチが建州女真を統一して明の驚異になるのは約100年後です。
この功績で汪直は加増され、後に十二団営(軍団)の指揮を任されます。
モンゴルとの戦い
成化16年(1480年)。モンゴル(元)が河套に侵入。成化帝は汪直に監軍(軍の監視)させ、兵部尚書(国防大臣)の王越に軍の指揮を任せました。
明軍は即位して間もないダヤン・ハーン率いるモンゴル軍と戦闘になり、モンゴル軍を敗走させました。
成化17年(1481年)にもモンゴルは大同を略奪しました。汪直は軍を率いてモンゴル軍と戦い追い払うことに成功します。
汪直は次々に加増され、成化帝は前例を破って汪直に高い加増をしました。
7月。成化帝は汪直に監軍、王越に平胡将軍の地位を与えてモンゴルを討つように命令しました。兵たちが言うことを聞かないときは厳しく罰して良いと汪直に命令しました。
モンゴル軍が退却しました。汪直と王越は成化帝に軍を撤退させるように求めましたが、成化帝は許しませんでした。
成化18年(1482年)。成化帝は汪直を「大同鎮守太監」に任命。
西廠の解体と汪直の影響力の低下
汪直は国境の守りで手柄をたてました。しかし何年も都から離れている間に中央での求心力が下がり。そのスキに他の者達が成化帝に取り入りました。
都での汪直の影響力が下がるとそれまで汪直や西廠への非難の声が高まりました。
御史たちは西廠の専横な行いで民衆が苦しんでいると訴えました。
東廠の提督・尚銘は「汪直は宮中の秘密を漏らした」と成化帝に報告。
成化帝も汪直への信頼をしだいに失っていきます。
内閣首輔・万安は汪直を西廠の長官から外すように上奏。
成化帝は万安たちの意見を認め汪直は西廠の長官を解任され。西廠は解体されました。汪直と西廠を恐れていた臣下たちは喜びました。
6月。モンゴル軍が攻めてきました。汪直と王越は軍を分けて迎え撃ち勝利しました。汪直はさらに加増されました。
汪直の没落
成化18年8月(1482年)。万安達は地方で実績を残している汪直と王越が結託して中央に戻ってくるのを恐れました。そこで延綏を守る許寧と王越を交代させるように皇帝に言いました。
国境で守っている間。汪直は軍人の怠慢を厳しく追求。何人も処分しました。
汪直はモンゴルのダヤン・ハーンが軍を集めているのを知り。大同の兵力では勝てない可能性があるので都の軍を送るように要請しました。
6月。郭鏜は汪直と将軍の許寧との仲が悪くうまくいっていないことを大げさに報告しました。成化帝は前線の指揮官が不仲ではモンゴル軍との戦いに敗れると思い汪直を南京に異動させて御馬監にしました。
8月。成化帝は汪直を奉御官(六品)に降格させました。さらには王越も解任されました。
9月。右都御史の李裕たちは、汪直は有罪になったもののまだ納得していない者もいる。汪直に解任された者達を元の役職に戻すように訴えました。
でも成化帝は「汪直の問題はもう終わったこと。李裕たちの側にも問題がある。汪直に嵌められたわけではない」と言って錦衣衛に命じて都御史たちを調べさせ、李裕を半年の減給処分にしました。
成化20年(1484年)。大同で戦っていた明軍でしたが。汪直や王越が去った後の明軍は散発的な抵抗しかできずダヤン・ハーンの作戦にはまって敗北。大同をほぼ失いました。敗戦を知った成化帝は激怒、軍の関係者を処分しました。
弘治元年(1488年)。南京の戸部員外郎の周從時は「汪直、銭能たち、先帝時代の逆賊を追求すべき」と訴えを起こし、彼らの資産を没収しようとしました。弘治帝は訴えを却下しました。
その後。汪直は地方でひっそりと暮らしたようです。
誇張された悪者のイメージ
汪直は遼東や大同で戦っている間も西廠の長官でした。確かに西廠は強引な捜査と権力の乱用で評判が悪かったです。でも国境で戦っている汪直が、都で活動している西廠の行いをどこまで把握していたかは疑問です。
商輅が言うように成化帝の信任が厚い汪直の権威を利用して配下の者たちが好き勝手にやっていた可能性は高いです。自分の立場をわきまえずに自分が大きな力を持っていると勘違いしていた汪直にも問題があります。
汪直のやり方も強引でやりすぎなところはありました。でも四大宦官の他の3人、王振、劉瑾、魏忠賢に比べると悪事のスケールも小さく。汪直が持っていた権力は他の3人ほど強くはありません。国に大きな損害を与えたとまでは言えません。
明朝の宦官制度の悪い部分がでたのは確かですが。西廠の被害を受けた者や汪直を妬む者によって必要以上に汪直=悪者のイメージが作られているのです。
テレビドラマ
王の後宮 2013年、中国 演:譚耀文
成化十四年 2020年、中国 演:劉耀元 役名:汪植
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