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石 亨(せき きょう)横暴で自滅した奪門の変の首謀者

明 2.3 明の臣下と人々

石 亨は明朝の武将。

15世紀、正統帝~景泰帝の時代に活躍した人物。

明とオイラトとの戦いでは于謙のもとで北京を守りました。

奪門の変では于謙を相手に反乱を成功させ朱祁鎮の2度目の即位を成功させました。

横暴な人物で最後は皇帝にも見放されて謀反の罪で投獄され獄中死します。

奪門の変はあまりにもあっさりと反乱が成功したので奪門の変は茶番劇のように言われます。でも実際に大勢の生死がかかった反乱では茶番劇では成功させることはできません。

石亨の側にも反乱を成功させるだけの理由がありました。

史実の石亨(せき きょう)はどんな人物だったのか紹介します。

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石 亨(せき きょう)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1460年

姓 :石(せき)
名称:亨(きょう)

国:明
地位:軍事將領

父:不明
母:不明
夫:鄭氏

日本では室町時代になります。

おいたち

石 亨(せき きょう)は華州渭南県の出身。

生年は不明。

両親の名前は不明。

石亨は角張った顔に長身、長い髭を蓄えた異形の男でした。

「石」姓はソグド姓のひとつ。タシュケント出身のソグド人(イラン系の人々)が名乗ることが多いです。石亨も祖先がソグド人で漢民族とは見た目が違っていたのでしょう。

馬に乗って矢を射るのが得意で、大刀(長い柄に幅広の刃が付いた武器)を使い戦いのたびにこれを壊していました。

父のあとを継いで寛河衛 指揮僉事(部隊の司令官:正四品)になりました。
明朝の「衛」は軍隊のことで「寛河衛」は「寛河を守る部隊」。

正統年間に都督同知(軍団副司令:従一品)になって、山西でウリャンカイ(モンゴルの部族)の侵入を阻止しました。

正統14年(1449年)。都督僉事(副司令の下の役職:正二品)の馬麟とともにウリャンカイと戦い撃退しました。

石亨は何度かモンゴル系部族と戦い勝っています。戦闘指揮官としてはそれなりに有能だったようです。

オイラトとの戦い

正統14年(1449年)秋。明とオイラトの戦争が始まりました。

エセン率いるオイラト軍が明の国境を越えて侵入。西寧侯 宋瑛、武進伯 朱冕たちとともに陽和口でオイラト軍と戦いましたが敗北。宋瑛と朱冕は戦死しました。

石亨は一人で逃げて帰りました。罰として降格になって徴兵を担当しました。

土木の戦いで正統帝が捕虜になり。監国(皇帝代理)郕王 朱祁鈺(しゅ きぎょく)のもとで兵部尚書(国防大臣)于謙がオイラトとの戦いの指揮を任されました。

景泰帝の時代

正統14年9月6日(1449年9月22日 )。朱祁鈺が皇帝に即位。景泰帝が誕生しました。

あるとき石亨は軍機違反をして投獄されてしまいます。于謙が景泰帝にとりなして釈放させてもらいました。

石亨は右都督(軍団司令:正一品)に任命され、北京防衛の任務につきました。北京を取り囲む城壁の防衛を担当しました。

オイラト軍が攻めてきて北側の徳勝門がまっさきに攻撃されましたが、都督の高禮たちが防ぎました。その後、明軍は城壁の外に出て戦い石亨は于謙の指示で待ち伏せしました。オイラト兵を多数討ち取りました。

その後、オイラト軍は西直門を攻撃。石亨は兵を率いて西直門の守備隊を援護。5日間の戦闘の後に、オイラト軍は撤退しました。

于謙は武将たちにオイラト軍の追撃を命令。石亨が軍を率いてオイラト軍を追いかけ、清風店(現在の河北省定州市)のあたりで追いついて戦闘になりました。

石亨たちはこの戦いでオイラト軍に勝利。オイラトに大きなダメージを与えました。

戦いの後。石亨は功績が評価され世襲の爵位「武清侯」が与えられました。

ところが石亨は于謙の息子・于冕が相応しいと皇帝に推薦しました。

しかし于謙から「国が大変な時期に大臣が個人的な功名心を考えてはいけない。石亨は大将だが、部下を推薦したという話は聞かなない。なのになぜ我が息子を推薦するのだ?こんなことが許されるのか?」と注意され恥をかいてしまいます。

景泰元年。石亨は「鎮朔大将軍」に任命され3万の軍を率いて大同に進軍。国境を越えて侵入するモンゴルを撃退しました。

その後。「太子太師」の役職が追加されます。

于謙は軍団を設立。石亨を提督に任命しました。于謙は国の守りを強くするため実力主義で人事を行い功績のある者をとりたてました。石亨も高く評価されていました。

石亨は于謙の次に影響力のあるナンバー2の地位に上りつめました。

しかし石亨は于謙の言いなりになるのが嫌であまり好きではなかったようです。

于謙は景泰帝から信頼されていましたが。他人に厳しすぎるところがあり、高官や皇族からは嫌われていました。

石亨は自分が上に立とうと思うようになりました。

奪門の変

景泰8年(1457年)。景泰帝は地方に行幸。ところが病の発作に襲われ祭祀を行うことができなくなり代わりに石亨が祭祀を行いました。

石亨は景泰帝の病の重さを知ります。

そこで石亨の手で朱祁鎮を復権させて于謙を排除して自分がトップに立とうと考えました。

石亨は宦官の曹吉祥、左副都御史の徐有貞たちと反乱を起こすことにしました。

孫太后から「上皇(英宗)の聖徳は欠けてはいない。天の意志は我らにある」と勅命をえて反乱に正当性を与えました。

明軍ナンバー2の実力者が皇太后の権威を味方につけ、朝廷内に賛同者もいます。しかも于謙が頼りにする景泰帝は死にそうです。これだけの条件が揃えば孤立気味の于謙を追い落とすのは難しくありません。あとは景泰帝が死んで于謙が次の皇帝を担ぐ前に実行しなければいけません。

1457年(景泰8年)1月16日の夜。石亨たちはモンゴルが攻めてきたと嘘の情報を流し。兵たちがその対応に追われている間に2000の兵たちとともに挙兵。紫禁城の門を占領しました。ほとんど抵抗らしい抵抗はありません。

南宮に幽閉されていた上皇帝・朱祁鎮を救出。そのまま輿に乗せて石亨たちが護衛して宮殿に運び。孫皇太后が朱祁鎮を再び皇帝に任命しました。

于謙は謀反の罪で投獄。于謙に味方する王文、王誠たちも逮捕。于謙とその仲間を処刑しました。

景泰帝は郕王に降格、幽閉。まもなく死亡しました。

・奪門の変 のくわしい経緯はこちらを見てください。

天順帝の時代

天順元年(1457年)。朱祁鎮は再び即位(天順帝)。

石亨、曹吉祥、徐有貞の三人は朱祁鎮を復位させるために協力しました。

しかし文官の徐有貞は武官の石亨、宦官の曹吉祥を見下していました。徐有貞は天順帝から気に入られていたこともあり、自分が一番偉いと思っていました。

やがて石亨、曹吉祥と徐有貞はいがみ合うようになります。

曹石の変

御史の楊瑄が石亨と曹吉祥が権力を乱用して民の田を奪っていると弾劾を起こしました。

天順帝は徐有貞と李賢に「本当なのか?」聞くと「そのとおりです」と答えました。天順帝は石亨と曹吉祥を大目に見ましたが、二人は徐有貞を恨みました。

あるとき天順帝と徐有貞が国政について何度か話し合っていました。曹吉祥は部下の宦官に盗み聞きさせ、わざと天順帝の前で離させました。天順帝が驚いてなぜ知っているのかと聞くと宦官たちは「徐有貞から聞いた」と答えました。天順帝は次第に徐有貞を遠ざけるようになりました。

御史の張鵬が石亨の罪を弾劾しようとしましたが、王鉉が石亨と曹吉祥に漏らしました。石亨と曹吉祥は天順帝のもとに行き「私たちは、陛下を玉座にお迎えするために、一生を捧げてきました。なのに今の内閣は独裁的で私達を追い出そうと躍起になっています。そうでなければこんなに弾劾が起きるはずがありません」と訴えました。それを聞いた天順帝は感激して徐有貞を「権威を乱用して功労者を追い出そうとした」罪で流罪にしました。

徐有貞が排除されたあと。石亨と曹吉祥はますます傲慢になりました。

石亨の一族50人ほどが官職に就きました。対立する大臣や役人を解任したり。逆に、官職に就こうとする者たちから賄賂を取りました。石亨は自分に都合のいい人事を行い一時は石亨が好き勝手に政治を動かしていました。

石亨は毎日・天順帝に会いに行き、呼び出されていないのに口実を作って会いました。そして要求が認められないと顔色を変えて怒りだし、騒いで自分の功績を主張するのでした。

たまりかねた天順帝・朱祁鎮は内閣大臣・李賢に相談しました。李賢は「宮中の重要な事柄を決定できるのは、陛下だけです」と助言。

天順帝・朱祁鎮は「こちらから呼ばない限り、武官は入れるな」と門番に命令。

それ以来、石亨の来る回数は減りました。

天順3年(1459年)。石亨の甥の石彪(せき・ひょう)は大同の守りを強化しようと天順帝のいる前で錦衣衛の楊彪に兵を出すように命じました。

天順帝は何かあると思い楊彪たちを捕らえて拷問にかけました。すると石彪の違法行為が次々と明らかになり投獄されました。

石亨の屋敷も家宅捜索をうけてご禁制の品物が次々と見つかりました。すると石亨を追い込むなら今だと思った官僚たちから次々に弾劾を起こされ、石亨は解任されました。

天順4(1460年)。石亨は反逆罪で投獄され、獄中死しました。

その後。危機感をもった曹吉祥は反乱を起こして鎮圧されます。

奪門の変の功労者は朝廷から姿を消し、明の朝廷は宦官が支配するようになります。

 

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