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藍玉 明朝建国の功臣は洪武帝に粛清された

明 2.3 明の臣下と人々

藍玉(らん ぎょく)は明の建国に貢献した武将。

洪武帝 朱元璋のもとで戦い、モンゴルやチベットとの戦いで活躍。明朝の建国や勢力拡大に貢献しました。

しかし次第に横暴になり、洪武帝によって粛清されてしまいます。

史実の藍玉はどんな人物だったのか紹介します。

 

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藍玉の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1393年

名前:藍玉(らん・ぎょく)

父:不明
母:不明
妻:不明

彼が活躍したのは元末期から明朝の洪武帝の時代です。

日本では室町時代になります。

 

藍玉の生涯

姉の夫・常遇春のもとで出世

生年は不明。

元朝末期。紅巾軍の反乱が各地で起きていたころ。

藍玉の姉の夫・常遇春(じょう ぐうしゅん)が紅巾軍の幹部・朱元璋のもとで軍を率いていました。

そこで藍玉は常遇春の部隊に参加します。

藍玉は非常に勇敢で数々の戦闘で功績をあげました。そのため常遇春は何度も朱元璋に藍玉の功績を報告しました。藍玉は管軍鎮撫から千戸および指揮使に昇進、後に大都督府僉事に任命されます。

1369年。常遇春が死亡。以後は傅友徳や徐達のもとで戦います。

明の勢力拡大に貢献

洪武4年(1371年)。藍玉は傅友徳に従って四川を攻撃。

洪武5年(1372年)。大将軍・徐達に従って北元遠征に参加。ココテムルの遊撃隊を撃退しました。

さらに沐英と共にチベットを攻撃。

数々の手柄をたて洪武12年(1379年)に永昌侯になりました。

洪武14年(1381年)。藍玉は征南左副将軍となり、傅友徳に従い雲南を攻撃しました。

北元との戦い

洪武20年(1387年)。北元のナガチュ(納哈出)が遼東に侵攻したため、朱元璋は20万の大軍を派遣。馮勝が征虜大将軍、潁国公 傅友徳が左副将軍、藍玉は右副将軍でした。

この遠征でナガチュの部隊は兵糧不足に悩まされ、明に降伏しました。

 

ブイル・ノールの戦い

洪武21年(1388年)。朱元璋は藍玉を大将軍に任命。藍玉は15万の兵を率いて北元に攻め込みっました。ブイル・ノール周辺にいるらしいと情報を得て向かいましたが、なかなか天元帝トグス・テムル(脱古思帖木児)を見つけることができません。戻ろうとしましたが。定遠侯 王弼に説得され軍を進めました。

ハルハ河の付近でトグス・テムルの部隊に遭遇。奇襲攻撃をかけました。油断していたトグス・テムル軍は壊滅しました。

トグス・テムルには逃げられましたが、次男のティボド(地保奴)、妃、公主など百人あまり。男女77,000人余りを捕虜にし、多くの家畜、宝璽、符敕金牌、金銀印などを捕獲しました。

この戦いに負けた北元は一気に衰退、モンゴル勢力は分裂します。

勝報が京城の応天府に届くと洪武帝 朱元璋は大喜びしました。最初は藍玉を梁国公に封じようとしました。ところが藍玉が元の妃を強姦、恥じた妃が自害したとの噂を聞き激怒。藍玉が謝罪しました。

「梁国公」の爵位は取りやめになり、ランクの低い「涼国公」の爵位が与えられました。それでも朱元璋は藍玉を漢の衛青や唐の李靖に匹敵すると称賛しました。

洪武23年(1390年)。施南、忠建でおきた異民族の反乱を鎮圧。

洪武24年(1391年)。チベットを攻撃。元から降伏して建昌指揮使になっていたオルクテムル(月魯帖木児)。が反乱を起こしたので鎮圧。オルクテムル親子を捕らえて処刑しました。

藍玉の最期

傲慢になる藍玉

常遇春や徐達が亡くなった後、藍玉は何度も大軍を指揮し多くの功績を立てました。朱元璋は彼を非常に優遇しましたが、藍玉は次第に傲慢になりました。

藍玉は多くの荘園奴隷や義子を養い、横暴な振る舞いをするようになりました。東昌の民の田畑を強奪、御史が調査に来ると激怒して追い返しました。

あるとき藍玉が北征から戻る時。夜に喜峰関に到着しました。でも守備隊が門を開けなかったので、藍玉は兵士を使って門を破壊し侵入しました。これを聞いた皇帝は非常に不機嫌になりました。

馮勝や傅友徳よりも下におかれるのが不満で洪武帝にかけあいましたが、相手にされませんでした。

また、彼は皇帝の前で臣下としての礼を欠く行動を取り、朱元璋の不満を増していきました。

 

皇太子 朱標との関係

藍玉の娘は太子 朱標の妃。藍玉は朱標の義父でもあるので親しくしていました。

ある時、藍玉はモンゴル遠征から戻ると太子に「燕王(朱棣)の行動が皇帝に似ています。また、燕には天子の気があると言う者もいます。先に対策をして慎重に対応するべきです」と伝えました。でも朱標は「燕王は私に非常に従順であり、そのようなことは決してない」と答えました。

でもこの会話は後に燕王朱棣に知られてしまいます。

皇太子の死後、粛清の標的に

洪武25年4月(1392年)。朱標が死去。

9月。朱標の息子 朱允炆が皇太孫になりました。このとき藍玉は太子太傅に任命されました。

でも朱允炆はまだ15歳。朱元璋は64歳ですからそう長くは生きられません。

洪武帝 朱元璋は過去に胡惟庸、李善長たちを粛清。数万人が犠牲になりました。朱標が跡継ぎならそれで収まったかもしれません。でも朱元璋でも手をやいている藍玉たち建国以来の功臣たちを、若い朱允炆がうまく抑え込めるか不安です。そこで洪武帝はさらに粛清を行うことにしました。

藍玉などの建国以来の功臣の傲慢は変わらず、朱標の死が政情を大きく変えたことに気付いていませんでした。

謀反で処刑される

洪武26年(1393年)2月。錦衣衛指揮使の蔣瓛が藍玉を謀反で訴えました。藍玉は反乱を起こす準備をしており、藍玉の屋敷から日本刀を含む大量の武器が発見されました(当時の日本では日本刀は有力な輸出品でした)。明では日本刀の所持は罪ではありませんが、数が多いので謀反の証拠とされました。

洪武帝は直ちに藍玉を「謀反罪」で処刑。その家産を没収、三族(父、母、妻の一族)を処刑しました。

この事件で朱元璋は1万5千人を殺害。公爵一人、侯爵十三人、伯爵二人が含まれていました。これが「藍玉案」として知られています。

藍玉が本当に謀反をたくらんでいたのかは不明です。むしろ朱允炆が跡継ぎに決まり、藍玉の地位は約束されているのですから。あとは朱允炆の世を待つだけで良かったはずです。

謀反は粛清のための言いがかりだった可能性が高いです。

その後、潁国公・傅友徳、定遠侯・王弼、宋国公・馮勝が殺害され、会寧侯・張温、都督の蕭用らも連座して処刑されました。

明の建国に関わった功臣のほとんどが殺され。残ったのは湯和、耿炳文ら一部でした。

朱元璋の野望の犠牲

藍玉の行いは確かに横暴でした。でも中国の武将では珍しいことではありません。明を建国したのは反乱軍や盗賊や武装集団などならず者の集まりです。モラルの高い武将の方が珍しいです。

朱元璋は明の権力をそうしたよそ者やならず者たちから朱一族に集めようとしていました。そこで様々な理由をつけて力のある者を粛清していきました。そうして子や孫たちが安定した権力を持てるようにしようとしたのです。

 

テレビドラマの藍玉

朱元璋 2004年、中国 演:曾昂
伝奇皇帝朱元璋 2006、中国 演:李翰均
永楽帝 2018年、中国 演:盧星宇

 

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