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王振 は正統帝の信頼を得て宮廷を牛耳った宦官

明 2.3 明の臣下と人々

王振(おう・しん)は明の宦官。

6代皇帝・正統帝に仕えました。

頭のいい宦官で皇太子時代の正統帝に気に入られ家庭教師になりました。正統帝即位後は宦官の最高位に就き。明の政治を動かすようになります。

ところがオイラトとの戦争が始まると、正統帝に出陣を要請。自らも軍を率いますが大敗してしまいます。

史実の王振はどんな人物だったのか紹介します。

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王振の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1449年

姓 :王(おう、ワン)氏
名称:振(しん、ジン)

国:明
地位:→→

父:不明
母:不明

日本では室町時代の人物になります。

おいたち

生まれは蔚州(中国・河北省蔚県)。経書(儒教の経典)の知識があり府学館(公立学校)の教師になりました。

その後、宦官を養成する内書堂という組織に入り、宦官になりました。国の役人になりたかったけれども科挙に落ちたから宦官になったともいわれます。

宦官になったばかりの頃は、若い宦官に読み書きを教えていました。

しかし宮中の他の頭の鈍い宦官とは違い、物知りな学者だったので周囲からは歓迎されていました。

やがて王振は宣徳の皇太子・ 朱祁鎮(しゅきちん、英宗)と知り合います。朱祁鎮は王振が知らないことをたくさん知っているので王振を尊敬し、

朱祁鎮は王振を「先生」と呼ぶようになりました。

信頼を得た王振は皇太子の家庭教師になりました。

英宗 正統帝の時代

宦官のトップになって力を蓄える

1435年。宣徳帝が死去。

朱祁鎮が9歳で皇帝に即位しました。正統帝の誕生です。

その8ヶ月後。王振は司礼監の長、掌仰太監(内務長官)になりました。宦官の最高位です。

宣徳帝の信頼が厚いのをいいことに、文書を改ざんしたりしていました。

朝陽門の外に施設を作り、都の護衛と称して軍を作りました。正統帝を招いて兵の訓練を見せたりして信頼を得ました。

正統帝が即位してしばらくは、太皇太后 張氏、張福、楊栄、楊志喜、楊普たち宣徳帝時代から仕える重臣たちがいたので表立って政治に口を出すことはできませんでした。

政治を動かす

1442年。太皇太后張氏が死去。他の古い重臣たちが死亡したり引退して減っていきました。

すると王振の発言力が大きくなりました。

賄賂で私服を肥やし、東廠(宦官で組織された組織)を配下にしました。東廠は武力と警察組織をあわせたような組織です。東廠の下部組織になる錦衣衛(秘密警察)を使って反対派を排除していきました。

王振は自分の地位を高めるため、オイラトの使節には寛大に接していました。

オイラトは返礼品目当てに使者の数を増やしました。使者の数だけ返礼品を出すことになっていたからです。定員は50人のところを1000人連れてくることもありました。大量の返礼品は明の財政を圧迫しはじめました。さらにオイラトが使者の数を水増しして報告している事もわかりました

1448年。使者の数は3,598人と報告しているのに実際には2000人程度しか来ていないことが分かりました。

オイラトへの厚遇を撤回。返礼品は3,598人分の2割に削減しました。ところが返礼品を売って利益をあげるつもりだったエセンは激怒。挙兵を決定します。

オイラトとの戦い

1449年7月。オイラトのエセンは、ハーン(皇帝)トクトア・ブハと協力して3方向から明の国境を攻めました。

国境軍の敗北を聞いた王振は正統帝の出陣を要請。

正統帝は重臣たちの反対を押し切って出陣を決めました。

王振を総司令官とする50万の大軍が召集され、正統帝とともに出陣しました。

ただし50万と号していても定員が全て埋まっているわけではありません。実際にはその数分の一の戦力しかなかったりします。

とはいえ2万のオイラト運相手には圧倒的な戦力に思えました。

7月15日。エセン率いるオイラト軍は長城を越えて明の領土に侵入、守備隊を次々と破っていきました。

一方の、明軍本体は豪雨で道がぬかるみ思うように前進できません。食料の輸送も難しくなってきました。武官たちが撤退を進言してきましたが、王振は却下。

王振のやりかたに不満を持つ反対派が王振を暗殺しようとしましたが未然に防ぎました。

土木堡の変

8月1日。王振と正統帝率いる明軍は大同に到着。前線に派遣していた宦官郭敬が命からがら戻ってきて「前線部隊がほとんど全滅している」ことが知らされます。ここにきてオイラトの驚異を思い知った王振は大雨を理由に撤退を決定。それでも「この進軍は勝利に終わった」と宣言、皆を驚かせました。

王振は紫荊関(現在の河北省保定市易県北西部)を経由。正統帝を自分の出身地・蔚州に案内しようとしましたが、郭登や曹鼐の反対で断念しました。進路を北よりに変更しました。

8月13日。オイラト軍は撤退する明軍の追撃を開始。明の軍を次々に破って本隊に迫ります。

そして懐来城から20里の土木堡に到着したところで王振は野営を決定。1000輌の荷物運搬車をひきつれては城に入れないと判断しました。

鄺埜は居庸関に入るよう王振に言いますが却下します。しかも水不足になり兵士たちの士気は下がっていました。

8月15日。オイラト軍が土木堡にいる明軍を包囲。攻撃をし始めました。

明軍はすでに内部で仲間割れして兵士たちの士気も低いまま。オイラトの攻撃を防ぐことができずに大敗しました。

戦いの最中、王振は護衛将軍 樊忠に刺されて死亡します。樊忠もオイラトとの戦いで戦死しました。王振に従う将兵たちも次々に死亡しました。

さらに正統帝はオイラトの捕虜になりました。

正統帝の信頼をいいことに権力を握り好き放題した王振でした。しかし、戦場のどさくさに紛れて味方に殺されるあっけない最期でした。

いくら知識はあっても王振は軍人ではありません。将軍たちの意見を聞かずに無謀な作戦を決行した結末、大敗します。

王振の判断ミスは自分の死だけではすみません。多くの将兵の死と中国史上唯一の「戦場で生きたまま捕虜になった皇帝」という不名誉な記録まで作ってしまいます。

ドラマの王振

女医明妃伝 2016年、中国、演:朱子聰
大明皇妃  2019年、中国、演:黄德毅

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