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奪門の変・明朝の景泰帝が廃されたクーデターはなぜ起きた?

明 2 明

奪門の変(だつもんのへん)とは15世紀の明朝で起きたクーデターのこと。

景泰帝 朱祁鈺(しゅ・きぎょく)が重病になると石亨、徐有貞、曹吉祥たちが協力して反乱を起こしました。

そして幽閉されていた太上皇帝・朱祁鎮を救い出して皇帝にした事件です。

あまりにもあっけない反乱だったので茶番劇扱いされることもあります。でもこの事件が起きた理由、あっけなく成功したのは理由がありました。

なぜ奪門の変が起きたのか。なぜ成功したのか?

奪門の変当日は何があったのか紹介します。

 

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奪門の変が起きたいきさつ

まずは明とオイラトの戦争にまでさかのぼります。

オイラトとの戦争が始まる

正統14年(1449年)7月。明とオイラトは戦争になりました。

土木堡の戦いで明が敗北。正統帝・朱祁鎮がオイラトの捕虜になりました。

文官の徐有貞は星占いを持ち出して副都・南京へ遷都を主張しました。

于謙は遷都に反対。北京の死守を主張しました。

遷都案を激しく批判された徐有貞は于謙を恨みます

孫太后は正統帝の子の朱見深(後の成化帝)を皇太子にしました。

于謙たちは郕王 朱祁鈺(しゅ・きぎょく)を皇帝にするよう孫太后に要求。孫太后は朱見深を皇太子にするという条件で認めます。

正統14年9月6日(1449年9月22日 )。郕王 朱祁鈺(しゅ・きぎょく)が皇帝に即位。景泰帝が誕生しました。

オイラトとの戦いで于謙や石亨は活躍しました。

景泰元年(1450年)。明とオイラトは和平が成立。朱祁鎮は釈放されてもどってきました。

戦いの後。石亨は「武清侯」の爵位が与えられました。

どういうわけか石亨は于謙の息子・于冕が相応しいと皇帝に推薦しました。

でも于謙から「国が大変な時期に大臣が個人的な功名心を考えてはいけない。石亨は大将だが、部下を推薦したという話は聞かなない。なのになぜ我が息子を推薦するのだ?こんなことが許されるのか?」と注意され恥をかいてしまいます。

石亨は于謙へのわだかまりが残りました。

太上皇帝・朱祁鎮の幽閉

北京に戻った朱祁鎮は太上皇帝の地位を与えられましたが。

朱祁鎮は正妻の銭氏とともに南宮に幽閉されました。門は施錠され、食べ物は小さな穴から渡されていました。

母の孫太后は息子を気づかって時々差し入れをしていました。

金の小刀事件

朱祁鎮は親しくしている宦官の阮浪と会話後、金の刺繍がある袋と金メッキした小刀を渡しました。阮浪は上皇から渡された物を皇城使(門の管理人)の王瑤に渡しました。

それを知った宦官の高平は錦衣衛の盧忠と李善に「王瑤は上皇を復位させるつもりだ」と報告しました。

景泰帝は王瑤と阮浪を処刑しました。

皇太子の交代

もともと自分の子供を皇太子にしたいと思っていた景泰帝は、この事件をきっかけに皇太子を実子の朱見済に変える決心をしました。

でも一度決めたことなので簡単には変えられません。

そこで景泰帝は臣下の陳循、高穀、商輅、江淵、王一寧、蕭鎡に贈り物をして。楊善、王文を太子太保(皇太子教育係)に昇進させ。支持を取り付けました。

このため景泰帝は臣下に賄賂を渡す皇帝と呼ばれます。

孝淵景皇后 汪氏は皇太子の変更に反対。景泰帝は激怒して汪氏を廃し郕王妃に降格させました。

かわりに景泰帝は朱見済の生母・杭氏を皇后にしました。

景泰3年 (1452年)。朱見深は皇太子を廃され、朱見済が皇太子になりました。

記録にはありませんが、孫を廃された孫太后は怒ったでしょう。

景泰5年 (1454年)。皇太子・朱見済が病気で死亡。

その後、杭皇后も病死。

景泰帝には子がいません。臣下は朱見深を皇太子にしてはと提案しますが。景泰帝は拒否。皇太子の座は空いたままになりました。

于謙と石亨の関係

石亨はその後もモンゴルとの戦いで手柄をたて。于謙の次に影響力のあるナンバー2の地位に上りつめました。

しかし石亨は于謙の言いなりになるのが嫌であまり好きではなかったようです。

于謙は景泰帝から信頼され。于謙も軍の再編成をして国境の守りを強化。景泰帝の期待に応えていました。

景泰帝は人事を于謙に相談。于謙は実力主義で人を推薦。そのためそれまで官職についていた人の中には選ばれない人もいました。選ばれた人もそれなりの働きを求められるので嫌がる人もいました。

于謙は有能な人物で。景泰帝のもとで国を良くしようと彼なりに頑張りました。でも他人に厳しすぎるところがあり、いざというときに右往左往するだけの軟弱な高官や皇族を見下していました。言動も厳しかったこともあり高官や皇族からは嫌われていました

于謙は高圧的、独善的と何度も弾劾されましたが景泰帝がかばっていました。

朝廷内には于謙への不満が高まり。軍でナンバー2の石亨は自分が上に立とうと思うようになりました。

奪門の変

謀反の準備

景泰8年(1457年)。景泰帝は地方に行幸。齋宮に滞在しました。ところが病の発作に襲われ祭祀が行えなくなりました。

代わりに石亨が祭祀を行いました。

石亨は景泰帝の病の重さを知りました。

いずれ景泰帝は亡くなるかもしれない。そうすれば幽閉中の上皇帝・朱祁鎮か元皇太子の朱見深が即位するでしょう。それでは石亨の手柄になりません。

石亨は自分の手で朱祁鎮を即位させ恩を売ろうとしました。

石亨は仲間になりそうな者に声をかけました。

朝廷には于謙を嫌いな人は大勢いました。

石亨は宦官の曹吉祥、都督の張軏、都察院左都御史の楊善、太常卿の許彬、左副都御史の徐有貞たちと行動を起こすことにしました。

孫太后から「上皇(朱祁鎮)の聖徳は欠けてはいない。天の意志は我らにある」と勅命をもらい反乱に正当性を与えることに成功しました。

クーデター当日

1457年(景泰8年)1月16日の夜。石亨たちはモンゴルが攻めてきたと嘘の情報を流し。兵たちがその対応に追われている間に2000の兵たちとともに挙兵。

紫禁城を襲撃。南宮の門の石垣を壊して侵入。中にいた朱祁鎮を輿に乗せて運びましました。石亨たちが護衛して東華門までくると門が閉まってます。

朱祁鎮は立ち上がって「朕は太上皇帝であるぞ」と言うと。門番は唖然として言われるがままに門を開け彼らを止めようとしませんでした。

流血なしに宮殿に入り。奉天門を通り、奉天殿の中にある玉座まで朱祁鎮を運びました。途中、奉天殿の兵士たちが徐有貞を打ち倒しましたが、朱祁鎮が止めさせました。

徐有貞は「太上皇帝は復辟された!」と言うと。その場にいた者たちは「万歳」と叫びました。

朝になり皇城の門の外では出勤してきた群臣たちが待っています。石亨がドラを鳴らすと門が開けられ群臣たちが入ってきました。

大臣たちが奉天殿にやってくると玉座にいたのは景泰帝・朱祁鈺ではなく、太上皇帝の朱祁鎮 でした。

一晩でいきなり皇帝が変わっているので臣下たちも途方に暮れるしかありません。

朱祁鎮は玉座から群臣に向かって「景泰皇帝が重病のため、群臣たちが歓迎して朕を皇帝に復位させた。それぞれの官職は元のままだ」と言うと。

群臣達は「万歳」と言って新皇帝を迎えるしかありませんでした。

于謙は捕まって投獄されました。

 

その後の影響

天順元年1月17日(1457年2月11日)。再び即位した朱祁鎮は元号を「天順」に変えました。

朱祁鎮は明朝で唯一2回即位した皇帝になりました。

于謙は孫太后から「藩王を担いで陰謀を企てる裏切り者」と批判され処刑が決まりました。王文、王誠たちは于謙の処刑に反対しましたが、彼らも逮捕。

天順元年1月22日(1457年2月16日)。于謙と王文たちが処刑されました。

景泰帝・朱祁鈺は幽閉。

ところが朱祁鎮を皇帝にするので頭がいっぱいだったのか。景泰帝を廃位させるのを忘れていました。瞬間的に皇帝が2人存在してしまいます。

 天順元年2月1日。朱祁鈺を皇帝から廃して郕王に降格させました。

 天順元年2月19日(1457年3月14日)。郕王 朱祁鈺が死亡しました。

景泰帝時代に決めたことは廃止され。正統帝時代の政治に戻されました。于謙と景泰帝が目指した北方の守りの強化はないがしろにされ。のちにモンゴルの侵入に苦しむことになります。

石亨、曹吉祥、徐有貞の三人は朱祁鎮を復位させるために協力しました。でも文官の徐有貞は武官の石亨、宦官の曹吉祥を見下していました。徐有貞は天順帝から気に入られていたこともあり自分が一番偉いと思っていました。

やがて石亨、曹吉祥と徐有貞はいがみ合うようになります。

 

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