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錦衣衛とは明朝の秘密警察

明 2 明

錦衣衛とは明朝時代に存在した秘密警察・軍事組織。

錦衣衛(きんいえい)は、明朝の秘密警察・軍事組織で、禁衛軍の1つ。

ドラマや娯楽作品ではエリート部隊として描かれています。でも歴史的にみると錦衣衛は格好良いだけの組織ではありません。

最近は中国ドラマが放送され日本でも知られるようになりました。ドラマの解説などではCIAやFBIみたいなものと言われることがあります。でもイメージ的には「KGB」に近いですね。

錦衣衛はどんな組織だったのか紹介します。

 

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錦衣衛の役目

主な役目

錦衣衛は皇族から役人、軍隊内部の取締も行います。

一般庶民の犯罪は取り締まりの対象ではありません。一般的な犯罪は六扇門の担当です。

でも反体制的活動、危険思想の取締、皇帝や国家への反逆とみなされる場合は錦衣衛の担当になります。

皇帝や朝廷の権威を脅かしたり、皇帝を侮辱する発言や行動をする者を監視・逮捕・尋問できます。

つまり「錦衣衛に目をつけられている」という時点で国にとっては危険な人物だと思われてるのです。

廷杖も錦衣衛の役目です。
皇帝を怒らせた大臣を庭に引きずり出して制服を脱がせ、荒縄で縛って杖で80回叩きます。実行するのは錦衣衛の隊員。司禮監太監が監督します。罪の重さによって打ち殺す場合とそうでない場合があります。明朝が続く間に500回以上廷杖が行われ、50人以上の大臣が死亡しました。

主な部署

・親衛隊
 皇帝の護衛、儀仗隊(儀式や式典への出席)、皇帝の命令の伝達。廷杖を行う。

・南鎮撫司
 軍隊内の犯罪捜査、尋問、判決、情報収集、武器の研究。

・北鎮撫司
 藩王、役人の秘密監視、汚職、違反の取締。偵察、逮捕、裁判、投獄、諜報活動。通常の司法組織を通さずに錦衣衛の独自の判断で裁判ができます。

 ドラマ「花様衛士」の陸繹(りくえき)が所属しているのもココ。

・経歴司:錦衣衛の公務文書の管理と保管。

歴史

錦衣衛の誕生

1361年。明の建国前。呉国公だった朱元璋(しゅ・げんしょう)が「拱衛司」という名の部隊を作りました。自分を守るための親衛隊です。

明の建国後は「都尉司」や「儀鑾司」という名前に変わりました。

洪武15年(1382年)。洪武帝・朱元璋は明の軍隊を再編成。
一般兵が所属する5つの軍隊「五軍都督府」と。皇帝直属の軍隊の上十二衛に分けました。

このとき「儀鸞司」を制編成して作ったのが「錦衣衛指揮使司」通称「錦衣衛」です。

上十二衛のひとつですが、錦衣衛は皇帝の親衛隊なのでとくに地位が高い部隊です。皇帝の信頼する選りすぐりの人物が配属されました。

洪武帝時代の錦衣衛は500人程度でした。

錦衣衛の拡大

3代・永楽帝の時代。錦衣衛は大幅に強化されました。永楽帝は建文帝に対して反乱を起こして即位しました。そのため建文帝時代の臣下の不満を押さえつけるため、錦衣衛を増員させました。

また永楽帝は、秘密警察の東廠(とうしょう)を設置。永楽帝は自分の反乱に味方した宦官に大幅に権限をもたせ東廠を任せました。錦衣衛は東廠の下部組織のようになりました。

6代 正統帝の時代。錦衣衛に裁判権が与えられ、調査、逮捕から裁判までも錦衣衛が担当できるようになりました。警察が裁判所を兼ねるようなものですから逮捕=有罪が決まったようなものです。

錦衣衛の最盛期

12代 嘉靖帝の時代。嘉靖帝は宦官の力を弱めたこともあって錦衣衛の権力は最高になりました。錦衣衛は東廠を凌ぐ権威を持つようになります。

その後、数が増えたので12代嘉靖帝の時代に半分に減らして3万人になりました。つまりそれまでは6万人もいた計算になります。

錦衣衛の最後

しかしその後、宦官の力が強くなると錦衣衛は東廠の下に置かれるようになります。

明朝の終わり。崇禎帝の時代には15万人に増えていたといいます。清朝末期は役人たちの汚職が当たり前になっていて。すでに錦衣衛まで賄賂にまみれて腐敗していました。

李自成軍が北京を占領。崇禎帝が紫禁城の裏山で首吊り自殺した時。大勢の錦衣衛は皇帝を守ろうとしませんでした。逃げたり反乱軍に寝返ったりしたのです。

その後、李自成軍は清に鎮圧されました。

北京を新しい首都にした清は錦衣衛を廃止。別の親衛隊組織を作ります。

錦衣衛の階級

錦衣衛の長官は「指揮使」。
隊員は「緹騎(ていき)」といいます。

指揮使:正三品、定員1人、錦衣衛の長官

指揮同知:従三品、定員2人、指揮使の補佐

指揮僉事:正四品、定員3人

鎮撫使:従四品、定員2人

千 戸:正五品、定員14人(14部隊にひとりずつ)
副千戶:従五品
百 戶:正六品
試百戶:従六品
総 旗:正七品
小 旗:従七品
力 士:一般兵士
校 尉:一般兵士

これ以外に錦衣衛の正規の隊員の下に雇われて働く手先がいました。街のゴロツキや訳ありな者その他様々な経歴の者を雇って情報を集めたり、ちょっとした仕事をやらせるのです。

制服を着た錦衣衛の隊員だけでなく、街の中にまぎれて錦衣衛の手下となって働くものがさまざまな所にいました。上は皇族から重臣、役人、下は庶民まで監視していました。

錦衣衛は役人や庶民にとっても恐ろしい存在でした。

なぜ錦衣衛が存在するのか

明は中国史上、最悪レベルの独裁国家

どの王朝にも親衛隊や不正や反乱分子取締を取り締まる組織は存在します。

でも組織の大きさ、権限の強さ、役目の広さでは明朝時代の「錦衣衛」は特別です。

明朝は歴代中国王朝でも特に独裁が激しかった国でした。明は独裁を強化するための組織を作って大規模に国民を監視しました。

そうなったのはどうやら建国者の素性に原因がありそうです。

建国者の朱元璋は秘密結社出身

明を建国した朱元璋(しゅ・げんしょう)は秘密結社の紅巾軍・白蓮教の隊員でした。

よく「朱元璋は貧しい農民から皇帝になった」とサクセスストーリーとして語られます。でもそれはほぼウソです。朱元璋の家が貧しい農家だったのは事実です。でも幼いころ寺に入れられた朱元璋はその後、宗教団体に入り反乱軍の構成メンバーになりました。

田畑を耕す農民をしていて一揆に加わって出世したのではありません。

紅巾軍は白蓮教という宗教を中心に集まった人たちです。宗教結社は中国では弾圧を受けるので秘密の組織になりがちです。

紅巾軍は今で言えばタリバンみたいなものです。

朱元璋は王になって権力を持つと逆に紅巾軍・白蓮教を弾圧しました。秘密結社や反政府勢力の怖さをよく知っているからです。

朱元璋は自分が秘密結社の隊員でしたから、それを捕まえるためにはどうすればいいのかよく分かっています。

そして自分の親衛隊にその役目を行わせました。それが錦衣衛です。

反乱を正当化する永楽帝

錦衣衛を大きくして東廠まで作ったのは3代永楽帝です。

永楽帝は反乱を起こして甥の建文帝を倒しました。

そして自分を正当化するために建文帝は即位していないことにしました。歴史を書き換え文書を改ざんしました。

でも建文帝を支持する臣下は大勢いました。放置しておくと反乱を起こすかもしれません。もちろん粛清もしました。

それだけでは不十分と考えた永楽帝は国民を取り締まるため錦衣衛を大きくして東廠も作りました。

後の明の皇帝は永楽帝の子孫です。代々その教えは引き継がれ明朝の皇帝の多くが独裁になっていきます。

錦衣衛は国民を守るために存在しているのではありません。

皇帝の独裁を助けるために存在するのが錦衣衛です。

錦衣衛は中国語の文献を調べてもあまりいいことが書いてないです。

ドラマ「女医明妃伝」では東廠や錦衣衛は悪者みたいな描かれ方をしていました。でも「花様衛士」みたいに錦衣衛を格好良いエリート集団みたいに描くドラマや小説もあります(情け容赦がなくて偉そうにしている描写はありますが)。作家によって受け止め方が違うのでしょう。

 

参考文献
陳 舜臣,”中国の歴史 11 明から清へ”,平凡社

 

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