南解次次雄(ナメ・チャチャウン)は、斯盧国(新羅)の第2代国王です。始祖とされる赫居世居西干と閼英夫人の子で、紀元4年から24年まで王位にありました。
即位直後に楽浪郡の攻撃で金城を包囲された南解次次雄は、まだ小国だった斯盧国を率いる立場に置かれました。
「次次雄」という王号の意味や、後世に脚色された可能性のある伝承も残されています。南解次次雄とは何者だったのか、生涯・家族・周辺国との関係から初回していきます。
この記事で分かること
- 南解次次雄の基本プロフィールと家族関係
- 即位後の楽浪郡・倭・周辺勢力との関わり
- 「次次雄」という王号にある複数の見方
- 初期の斯盧国が後世の新羅とどう違うか
南解次次雄とは
南解次次雄は、斯盧国(新羅)の2代国王です。名前は南解、姓を含めると朴南解とされます。父は新羅の始祖とされる赫居世居西干、母は閼英夫人です。
プロフィール
・名前:朴南解(ぼく・なんかい/パク・ナムヘ)
・王号:南解次次雄(なんかい じじゆう/ナムヘ・チャチャウン)
・別称:南解居西干、次次雄、自充
・諡号:南解次次雄
・生年:紀元前50年とする系譜あり
・没年:24年9月
・年齢:74歳とされる
・在位:4年3月〜24年9月
・国:斯盧(しろ/サロ)国(後の新羅)
・家門:密陽朴氏?
・陵墓:未詳。ただし蛇陵園の内に葬られたと伝わります。
家族
・父:赫居世居西干
・母:閼英夫人
・王妃:雲帝夫人
・長男:儒理尼師今
・次男:朴桓
・三男:朴奈老
・長女:阿孝夫人。第4代王・脱解尼師今の王后
・次女:夫人朴氏。金鳴玉に嫁いだとされます。
南解次次雄の生涯
南解次次雄は赫居世居西干と閼英夫人の嫡子とされます。赫居世居西干は斯盧(新羅)の始祖とされる人物。
詳しい生年は不明。『三国史記』と『三国遺事』には南解次次雄の生年は書かれていません。後世の族譜に「前漢の宣帝、甘露4年」として書かれているので、紀元前50年生まれという説があります。
もともと新羅初期の王たちは神話や伝承として語られる時代の人物です。南解次次雄も元になった人はいるかも知れませんが、『三国史記』などに描かれる王の姿は実在の王というよりは、後世に作られた姿の可能性もあります。
南解次次雄の生涯
南解王は西暦4年3月。父の赫居世居西干の死後に王位についたとされます。
南解王の即位直後には楽浪郡(漢の属領)からの攻撃を受け都の金城が包囲されました。このとき南解王は臣下に
「二人の聖人が国を去り、自分は国の人々に推されて誤って王位にいる。恐れは川を渡るようなものだ。今、隣国が攻めてくるのは、自分に徳がないからだ。どうすればよいか」
と語ったと伝わります。
臣下たちは敵は国喪につけこんで兵を起こしたのであり、天が助けることはない、過度に恐れる必要はないと答えました。その後、敵はしばらくして退きました。
6年。即位3年目の正月には、先代の赫居世居西干の廟を建てました。廟とは祖先や王をまつる建物です。ここでは始祖廟と呼ばれます。王権を支えるために始祖への祭祀を整えたのでしょう。
8年。昔脱解を長女の婿に迎えました。
昔脱解はのちの第4代王・脱解尼師今です。
この時期の斯盧国は君主を世襲で受け継ぐというのが完全には決まってなかった。王に有力な後継者がいなかったりした場合は、有力な者が周囲の者に支持されて受け継ぐことが可能だったのかもしれません。
10年。脱解を大輔に任命しました。
大輔とは政務や軍事を補佐する高い役職です。南解次次雄は脱解に軍国の政務を任せました。後に脱解が王位につながることを考えるとこの登用は大きな意味を持ちます。
14年。倭が民家を略奪しました。南解次次雄は六部の兵を出して撃退しました。
六部とは新羅を形づくった有力な部族集団のことです。強い権限をもつ王が国を統治するというより、王が部族の意見をまとめたり調整していたのでしょう。斯盧国は部族連合のような国だったようです。
18年には慶州で干ばつが起こりました。7月にはイナゴの害もあり民が飢えました。南解王は倉庫の穀物を民に配って救いました。
その年。高句麗に従っていた七つの国が斯盧国に投降したとされます。ただし、この話はそのまま受け取ることはできません。斯盧国の力を考えると、そこまで強大な力を持っていたとは思えません。いくつかの村が斯盧国の配下になったことは考えられますが。後世の強い新羅のイメージに引きづられて大きく脚色されている可能性もあります。
19年。北溟の人が畑を耕していて「濊王之印」を見つけ、南解次次雄に献上したと伝わります。
陳寿の『三国志』巻30、烏丸鮮卑東夷伝の夫余条にはその国の印章に「濊王之印」と書かれています。つまり斯盧国(新羅)は濊や夫余から王の権利を受け継いだと言いたいのでしょう。
ところが、申采浩は『朝鮮上古史』で、この話に疑問を出しました。北溟を満州の琿春方面(中国東北部、吉林省の東の端)と考えられます。
斯盧国(新羅)と琿春の間には高句麗がいます。そこの農夫が遠く離れた慶州の小さな斯盧国に献上したとはとても考えられません。
そのため景徳王の時代に東夫余、つまり北溟の古跡を現在の江陵へ移した後に作られた話ではないかと考えられます。
22から24年にかけては疫病が流行し、イナゴの害も起こりました。
そして南解次次雄は24年9月に亡くなりました。遺体は慶州の蛇陵園の内に葬られたと伝わります。
南解次次雄の名前と王号
南解次次雄の本名は南解(なんかい/ナメ)です。朴姓のため「朴南解」になります。
『三国遺事』にでは南解居西干は次次雄とも書かれています。これは尊い年長者を呼ぶ称号で、この王だけに用いられたと伝わります。
一方、『三国史記』では金大問の説として「次次雄、または自充は巫者をいう」と書かれています。巫者とは神霊をまつり、祭祀を行う人のことです。人々が巫者を畏れ敬ったため、やがて尊い人物を自充と呼ぶようになったというのです。
このため、南解次次雄は王であると同時に祭祀を担う、祭司王のような性格を持っていたという説があります。
ただし「次次雄」が巫者と書いてあるのはこの部分だけで、他に次次雄が巫者と書いてある資料はありません。他の前後の王も巫者とは書かれていません。
そのため「次次雄」は巫者というのは意味がわからなくなった時代に作られたこじつけ。
本来は他の王につけられた「居西干」と同様に「王」を意味する言葉ではないか?漢字の当て方が違うだけではないかという説もあります。
李泰鎮は次次雄を「ガガウン」とも読めるとし、前の王号である居西干とつながる称号だと考えました。古代には発音や漢字の当て方に幅があり、角干を角粲とも書く例があるため、次次雄だけが違う意味の称号と考える必要はないともいえます。
同時代の周辺国
南解次次雄の時代、斯盧国はまだ後世の新羅のような大国ではなく、慶州周辺を中心にした部族の集まりでした。史料では「国王」とされていますが、実際の勢力はまだ限られていて部族長、酋長のようなものだったでしょう。
同じころ、高句麗では瑠璃明王の時代から大武神王の時代へ移っていきます。高句麗はすでに北方で力を広げていました。
百済では温祚王の時代です。百済も建国したばかりで漢江流域を中心に勢力を築いていきました。
高句麗や百済に比べると、南解王のころの斯盧国はまだ朝鮮半島南東部の小さな一勢力と考えたほうがいいかもしれません。
そのため『三国史記』に書かれているように「高句麗に従っていた七国が投降した」「北溟の人が濊王之印を献上した」といった話は、そのまま史実と考ることはできません。
後世の新羅を強く伝統のある国に見せるために脚色された話が混じっているかもしれません。
南解王を考えるときは後の統一新羅の姿から逆算せずに、まだ小さな斯盧国が周辺勢力と関わりながら徐々に国らしくなっていった時期として考えたほうがいいでしょうね。
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