百済にはどのような王がいて、それぞれの時代に何が起きたのでしょうか?
この記事では、『三国史記』に記された初代温祚王から最後の義慈王までの歴代王31人を一覧で紹介。
建国年代をめぐる説や漢城・熊津・泗沘の時代区分も解説します。
この記事で分かること
- 百済の歴代王31人の名前・在位期間・主な出来事
- 温祚王の建国伝説と実際の百済成立時期の違い
- 漢城・熊津・泗沘の各時代における百済の変化
- 近肖古王や武寧王、聖王、義慈王など重要な王の功績
百済の歴代王一覧
『三国史記』によると百済には初代の温祚王から第31代の義慈王まで31人の王がいたことになっています。
ただし後世に編纂された記録に基づくため在位年や事績がそのまま史実とは限りません。
次の表では百済歴代王の名前、在位期間、各王の時代に起きた主な出来事を紹介します。
| 代 | 王名 | 在位 | 主な出来事 |
|---|---|---|---|
| 1 | 温祚王 オンジョワン |
紀元前18~28年 | 慰礼城を都として百済を建国。高句麗を建国した朱蒙の息子とされています。 |
| 2 | 多婁王 タルワン |
28~77年 | 靺鞨の侵入を退け、新羅との国境でも戦いました。 |
| 3 | 己婁王 キルワン |
77~128年 | 新羅へ使者を送り、両国の関係を改善しました。 |
| 4 | 蓋婁王 ケルワン |
128~166年 | 北漢山城を築き、北方の守りを強化しました。 |
| 5 | 肖古王 チョゴワン |
166~214年 | 新羅の城を攻め、東部の国境で戦いを続けました。 |
| 6 | 仇首王 クスワン |
214~234年 | 新羅や靺鞨と戦い、百済の領域を守りました。 |
| 7 | 沙伴王 サバンワン |
234年 | 幼くして即位しましたが、王として政務を担うことができず、まもなく退位しました。 |
| 8 | 古爾王 コイワン |
234~286年 | 官位を16段階に定め、官位によって服の色を変える制度を設けました。 |
| 9 | 責稽王 チェッキェワン |
286~298年 | 帯方郡の太守の娘を王妃に迎えました。漢の軍勢との戦いで戦死しました。 |
| 10 | 汾西王 プンソワン |
298~304年 | 楽浪郡を攻撃して領土を奪いました。その後、楽浪郡が送り込んだ刺客に殺害されました。 |
| 11 | 比流王 ピリュワン |
304~344年 | 約40年間在位し、民衆の生活を支える政策を進めました。 |
| 12 | 契王 ケワン |
344~346年 | 即位から約2年で亡くなり、古爾王につながる王統は終わりました。 |
| 13 | 近肖古王 クンチョゴワン |
346~375年 | 百済の領域を大きく広げました。371年には平壌城を攻め、高句麗の故国原王を戦死させました。 |
| 14 | 近仇首王 クングスワン |
375~384年 | 高句麗との戦いを続け、中国の東晋や倭国との外交を進めました。 |
| 15 | 枕流王 チムニュワン |
384~385年 | 東晋から僧の摩羅難陀を迎え、百済で仏教を受け入れました。 |
| 16 | 辰斯王 チンサワン |
385~392年 | 高句麗の広開土王に攻められ、北方の城を失いました。 |
| 17 | 阿莘王 アシンワン |
392~405年 | 高句麗と戦いましたが広開土王に敗れ、倭国へ協力を求めました。 |
| 18 | 腆支王 チョンジワン |
405~420年 | 倭国から帰国して王になりました。中国南朝へ使者を送り、外交関係を築きました。 |
| 19 | 久爾辛王 クイシンワン |
420~427年 | 中国南朝の宋へ使者を送り、百済王としての地位を認められました。 |
| 20 | 毗有王 ピユワン |
427~455年 | 新羅の訥祇王と同盟を結び、高句麗の南下に対抗しました。 |
| 21 | 蓋鹵王 ケロワン |
455~475年 | 北魏に高句麗への攻撃を求めました。475年に高句麗軍が漢城を攻め、蓋鹵王は捕らえられて殺害されました。 |
| 22 | 文周王 ムンジュワン |
475~477年 | 漢城を失った百済の都を熊津へ移しました。有力貴族の解仇が送った刺客に殺害されました。 |
| 23 | 三斤王 サムグンワン |
477~479年 | 幼くして即位しました。解仇が起こした反乱を鎮圧しましたが、在位約2年で亡くなりました。 |
| 24 | 東城王 トンソンワン |
479~501年 | 新羅王族の女性を王妃に迎え、新羅との同盟を強めました。側近の百加が送り込んだ刺客に襲われて亡くなりました。 |
| 25 | 武寧王 ムリョンワン |
501~523年 | 高句麗や靺鞨の攻撃を退け、熊津時代の百済を立て直しました。中国南朝の梁とも外交を進めました。 |
| 26 | 聖王 ソンワン |
523~554年 | 538年に都を泗沘へ移し、国号として南扶余を使用しました。554年に新羅との管山城の戦いで戦死しました。 |
| 27 | 威徳王 ウィドクワン |
554~598年 | 聖王の戦死後に即位し、百済の再建を進めました。中国王朝や倭国との交流も続けました。 |
| 28 | 恵王 ヘワン |
598~599年 | 高齢で王になりましたが、即位から約1年で亡くなりました。 |
| 29 | 法王 ポプワン |
599~600年 | 殺生を禁じ、民家で飼っていた鷹を放つよう命じるなど、仏教を重んじる政策を進めました。 |
| 30 | 武王 ムワン |
600~641年 | 新羅との戦争を続けました。益山に弥勒寺を建立し、大規模な寺院建設を進めました。 |
| 31 | 義慈王 ウィジャワン |
641~660年 | 即位当初は新羅の城を次々に奪いました。660年に唐と新羅の連合軍に敗れ、百済は滅亡しました。 |
百済滅亡後には倭国に滞在していた扶余豊が帰国して百済復興軍の王に迎えられました。しかし扶余豊は百済が存続していた時代の王ではないため、歴代王31人には含めません。
温祚王の建国伝説は史実か?
実際の百済建国は紀元前18年ではない?
高麗時代に作られた歴史書『三国史記』では温祚王が紀元前18年に百済を建国したとされています。
温祚王は高句麗を建国した朱蒙の息子で兄の沸流とともに南へ移りました。温祚は漢江流域の慰礼城に国を築き最初は十済と名づけます。その後、沸流の人々も加わったため国名を百済に変えたという物語です。
でも温祚王が紀元前18年に百済という国家を建てたことを裏づける同時代の史料や遺跡は見つかっていません。
実際の百済建国は3世紀後半から4世紀前半
中国の歴史書『三国志』には3世紀半ばの朝鮮半島中西部に馬韓の54か国があり、その一つとして伯済国が登場します。この伯済国がのちの百済になったと考えられますが。伯済国はまだ小さな国でした。
一方、漢江流域にある風納土城や夢村土城などの遺跡が見つかっており、国家といえる勢力があったのは確かでしょう。これらの考古資料から百済が古代国家として成立した時期は3世紀後半から4世紀前半と考える説が有力です。
つまり紀元前18年に温祚王がいきなり百済王国を建国したのではなく、漢江流域にあった伯済国が周辺の小国を従え3世紀後半から4世紀前半に百済へ発展したと考えられます。
温祚王の物語には百済成立の記憶が含まれている?
温祚王の建国話はあくまでも伝説ですが。すべてが後世の創作とはいえないかもしれません。
百済は北方から漢江流域へ移ってきた扶余系の人々と、現地に暮らしていた馬韓の人々が結びついて成立したと考えられています。温祚と沸流が北方から南へ移った物語には百済の支配者となった人々が北方から来たという記憶が反映されているのかもしれません。
温祚と沸流が別々の土地に住み最後に温祚の勢力へ人々が集まった話も、漢江流域にあった複数の集団が争いながら一つの国へまとまった過程を表している可能性があります。
温祚王が実在したのかはわかりません。紀元前18年という建国年も実際に百済が国家として成立した年代とは考えにくいです。
でも温祚王の物語には北方から来た集団が支配者となり伯済国が百済へ成長した歴史が形を変えて伝わっているのかもしれません。
百済の時代区分
百済は建国以来、漢城、熊津、泗沘と何度か都を変えています。それぞれの時代ごとに特色があります。
漢城時代:温祚王から蓋鹵王まで
漢城時代は初代温祚王から第21代蓋鹵王までの時代。中心地は現在のソウルと漢江周辺にあり百済は漢江の水運と西海へ通じる交通路を利用して成長しました。
ただし先ほども書いたように実際の百済建国は3世紀後半から4世紀前半とされています。漢城時代の前半は伝説と考えたほうがいいでしょう。
近肖古王の時代には高句麗と戦い中国南朝や倭国との外交も活発になりました。371年には平壌城を攻め高句麗の故国原王を戦死させています。
475年。高句麗の長寿王が漢城を攻め、蓋鹵王を殺害しました。百済は漢江周辺の主要地域を失い、いったん百済は滅亡します。
落ち延びた王族が熊津で即位、文周王となりました。
熊津時代:文周王から聖王前半まで
熊津(ウンジン)は現在の忠清南道公州市のあたり。山と錦江に囲まれた土地でした。文周王はこの地で百済を再建。しかし地元勢力によって文周王が殺害され、三斤王が幼くして即位するなど王権は安定していませんでした。
東城王と武寧王の時代になると百済は新羅や中国南朝、倭国(日本)との外交を進め、国力を回復させました。
泗沘時代(南扶余):聖王から義慈王まで
聖王は538年に泗沘(サビ)、現在の忠清南道扶余郡へ都を移し「南扶余」という国号を掲げましたが対外的には「百済」の名称も使われています。中央官庁と地方制度を改め新しい王都を中心に国を立て直そうとしたのです。
聖王は新羅と協力して漢江下流域を取り戻しましたが後に新羅へ奪われました。554年、聖王は新羅への反撃に向かい管山城の戦いで戦死しました。
武王の時代には益山の弥勒寺など大規模な寺院が築かれました。
最後の義慈王は即位初期に新羅を圧迫しましたが、660年に唐・新羅連合軍が侵攻し、百済は滅亡しました。
百済史で重要な歴代王
温祚王:百済を建国したと伝わる初代王
『三国史記』では、温祚王は高句麗を建国した朱蒙の息子とされています。兄の沸流と南へ移り、温祚は慰礼城に国を建てました。温祚の母や父については同じ史料の中にも異なる説があります。伝説上の人物と考えたほうがいいでしょう。
近肖古王:百済の全盛期を築いた王
近肖古王は領土を拡大し371年には高句麗の平壌城を攻撃して故国原王を戦死させました。東晋へ使者を送り、倭国とも交流しています。百済が勢力を広げた時代の王です。
武寧王:熊津時代の百済を立て直した王
武寧王は高句麗や靺鞨の攻撃を退け、梁との外交を進めました。武寧王陵から王と王妃の墓誌が見つかったため、生没年を同時代の資料で確認できる貴重な百済王でもあります。
聖王:泗沘遷都と日本への仏教伝来
聖王は538年に泗沘へ遷都しました。日本へ仏像や経典を送った王としても知られています。仏教公伝の年は『日本書紀』では552年、ほかの記録では538年とされ、二つの年代説があります。
武王:『薯童謡』の主人公になった王
武王は600年から641年まで在位し益山の弥勒寺を建立しました。『三国遺事』には、薯童が新羅の善花公主と結ばれ、後に武王になったという説話があります。弥勒寺西塔の舎利奉安記には佐宅氏出身の王后が記されており、説話と確認できる歴史には違いがあります。
義慈王:百済最後の王
義慈王は即位初期に新羅の城を奪い、642年には大耶城を攻略しました。660年に唐の蘇定方と新羅の金庾信が百済へ侵攻。階伯は黄山伐で戦いましたが敗れ、義慈王は唐へ連行され。百済は滅亡します。
韓国時代劇に登場する百済王
| 作品 | 登場する王 | 史実との関係 |
|---|---|---|
| 『朱蒙』 | 温祚王 | 温祚を朱蒙の息子とする建国伝承を採用しています。母や出自には異説があります。 |
| 『百済の王 クンチョゴワン』 | 近肖古王 | 近肖古王の対高句麗戦と百済の勢力拡大が中心です。恋愛や会話には作品独自の内容があります。 |
| 『帝王の娘スベクヒャン』 | 東城王、武寧王 | 二人の王は実在しますが。主人公スベクヒャンは実在を確認できない架空の王女です。 |
| 『薯童謡』 | 武王 | 『三国遺事』の薯童と善花公主の説話や、阿佐太子の記録をもとにしています。史実の武王の若いころをドラマ化した作品ではありません。 |
| 『階伯』 | 武王、義慈王 | 義慈王と階伯は実在します。宮廷の人物関係や私生活には脚色が含まれます。 |
ドラマに登場する王の実在性と主な史実は、『三国史記』百済本紀や武寧王陵の墓誌などで確認できます。
日本との関係が深かった百済王
百済と倭国(日本)は外交と軍事的な必要性によって深く結びついていました。
近肖古王の時代には百済王家から倭王へ七支刀が贈られました。高句麗と争っていた百済が倭国との友好と軍事協力を求めて贈ったと考えられます。
阿莘王の時代には396年に百済が高句麗の広開土王に敗れ、多くの城を失いました。その翌年、阿莘王は太子の腆支を人質として倭国へ送りました。百済が倭国の軍事支援を必要としていたためです。倭国は軍を派遣して高句麗軍と戦いました。
腆支は405年に百済へ帰国し、王位に就きました。
聖王も倭国へ兵士や武器を求めました。553年に新羅が百済から漢江下流域を奪うと、聖王は新羅との戦いに備えます。554年、百済軍は倭国や加耶諸国の支援を受けて新羅と戦いましたが管山城の戦いで敗れ、聖王も戦死しました。
聖王は日本へ仏像や経典を送り、仏教を伝えた王としても知られています。仏教や技術を伝えることには倭国との関係を保ち軍事協力を得る目的もあったのでしょう。
660年に百済が滅亡した後も、倭国は百済復興軍を支援しました。663年の白村江の戦いでは倭国軍が唐・新羅連合軍と戦っています。
百済は高句麗や新羅に対抗するため倭国の兵力や武器を求め、倭国は百済から鉄製品、仏教、漢字、寺院建築の技術などを受け入れました。人や物の移動は両国がそれぞれ必要とするものを得るための外交上の取引だったのです。
百済歴代王についてのよくある疑問
百済の王は何人いたのですか?
『三国史記』の王統では31人です。初代は温祚王、最後は義慈王です。
百済の全盛期を築いた王は誰ですか?
一般には第13代近肖古王の時代が百済の全盛期とされます。近肖古王は371年に高句麗の平壌城を攻撃し、東晋や倭国との外交も進めました。
百済最後の王は誰ですか?
第31代義慈王です。660年に唐・新羅連合軍の侵攻を受けて降伏し、唐へ連行されました。
日本へ仏教を伝えた百済王は誰ですか?
聖王です。仏教公伝の年は552年と538年の二説があります。その後も威徳王の時代に僧侶や寺院建築の技術者が派遣されました。
『薯童謡』のチャンは何代目の王ですか?
チャンのモデルは第30代武王です。薯童と善花公主の物語は『三国遺事』に載っています。
『階伯』の義慈王は何代目の王ですか?
義慈王は第31代で、百済最後の王です。武王の子として641年に即位しました。
まとめ
百済の歴代王は『三国史記』の王統では31人です。初代温祚王の建国伝承から始まり漢城、熊津、泗沘へ都を移しながら約700年続いたことになっています。
百済史では領域を広げた近肖古王、熊津時代を立て直した武寧王、泗沘へ遷都した聖王、弥勒寺を建立した武王、最後の王となった義慈王が特に重要といえるでしょう。
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