武寧王・百済を復活させた日本とも縁の深い王

2019年4月4日

武寧王は百済の25代国王。

高句麗に敗れ滅亡寸前まで衰退していた百済を新羅や高句麗に対抗できる国に復興させた王だとされています。

半島で力をつけるだけでなく、日本や中国と積極的な外交を行った王でした。

韓国ドラマ「帝王の娘スベクヒャン」では武寧王がスベクヒャンの父として登場します。

しかし実在の武寧王はドラマとはかなり違った人です。史実の武寧王はどんな人物だったのか紹介します。

武寧王(ムリョンワン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:462年
没年月日:523年

諡号:武寧王(ムリョンワン、ぶねいおう)
姓:扶餘(ぷよ)
名前:
三国史記では斯麻(サマ、しま) あるいは隆(ユン、りゅう)
梁書では隆
日本書紀では嶋(しま)

ドラマ「帝王の娘スベクヒャン」では隆(ユン)説を採用。

父:蓋鹵王か昆支
子:
純陀太子
聖王
斯我君

百済の25代国王。
日本では古墳時代。国内では倭(やまと)、対外的には倭(ワ)と呼ばれていました。雄略天皇~継体天皇の時代になります。

おいたち

父親は蓋鹵王か昆支といわれています。
蓋鹵王は百済の第21代国王。
昆支は蓋鹵王の息子か弟。昆支は日本書紀に昆支王と書かれている人物。百済から倭(日本)に人質として派遣された王族です。

日本書紀では「百濟新撰(百済の歴史書)」からの引用として
461年。百済の蓋鹵王が弟の昆支を日本に送るとき、妊娠中の蓋鹵王の夫人と一緒に送り出しました。要するに蓋鹵王はお手つきの女性(おそらく妾)を昆支に与えたのです。そして途中で子供が生まれたら送り返せと伝えます。筑紫の加唐島(佐賀県唐津)まで来たとき、男児が生まれたので嶋(斯麻)と名付けて百済に送り返しました。これが武寧王だと書かれています。

しかしこの話は武寧王が東城王と血縁で自らの正当性を主張するための創作とする説もあります。

475年。蓋鹵王は高句麗の長寿王との戦いに破れ戦死しました。百済は首都の漢城を奪われ事実上百済は壊滅しました。その後、南に逃れていた(あるいは新羅に援軍を求めに行ってた)弟の文周王が熊津を都にして百済を再興しました。その後も百済は内部争いで混乱。

479年。倭にいた昆支王の息子・東城王が百済に戻りあとを継ぎました。

百済にとって大変苦しい時代から始まるのが「帝王の娘スベクヒャン」です。

百済王になる

武寧王の異母兄弟・東城王が反東城王派の貴族・苩加(ペク・カ)に暗殺されました。

武寧王が22代国王になりました。

501年。武寧王は加林城にたてこもる苩加(ペク・カ)を軍を送って討伐しました。

同じ年には高句麗の水谷城を攻撃しました。
503年。領土に侵入した靺鞨族を撃退。

このころ日本に銅鏡を贈っています。この鏡は和歌山県隅田八幡神社が所有し日本の国宝に指定されています。

この鏡には「男弟王(おおど王は継体天皇の生前の呼び方)が意柴沙加の宮(忍坂宮か石坂宮)にいます時、斯麻(武寧王)が長寿を念じて河内直、濊人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」と書かれています。 

512年には葦川の北で高句麗と戦い大きな打撃を与えます。

積極的な外交

高句麗に対して劣勢になっていた百済は武寧王の時代に力を取り戻しました。そして半島の外に目を向け積極的な外交をおこないます。半島内部の勢力争いでは外の勢力の力を借りることが生き残りの大きなカギになるからです。

511年。百済は加羅(伽倻)の割譲を倭(やまと=日本)に求めます。
というのも倭国王(雄略天皇)は宋から「使持節 都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事 寧東大將軍 倭王」に任命されていました。つまり宋からみると倭王は日本列島と朝鮮半島の五カ国で軍隊を動かせる権利を持っているのです。いくら領土が欲しくても倭と同盟している百済としては勝手に加羅に攻め込むわけにはいきません。

ところが当時の倭(やまと)は継体天皇が即位して間もないころ。畿内をまとめるのに精一杯で朝鮮半島まで手が回りません。継体天皇は大友金村(おおともの かなむら)と相談して加羅の軍事的支配権の一部譲渡を認めました。

ただしこの決定はあとで倭国内で問題になり大友金村が失脚します。一部とはいえ倭が加羅の軍事的支配権を放棄したことで加羅は周辺国から狙われやすくなりました。加羅諸国の中には百済と敵対している新羅に従属を誓う地域も出てきました。結果的に加羅の滅亡を早めることになったのでした。

513年。倭は任那四郡つまり伽耶諸国の上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁を百済に渡しました。
百済は倭に易経博士・段楊爾(ダン ヨウニ)を派遣。領土を割譲する代わりとして最新の学問を身に着けた学者を派遣したのです。

百済は北方の大国・梁に朝貢しており最新の文化を輸入していました。段楊爾は梁からやってきた博士でしたから百済にとっても貴重な人材ですが領土が手に入るなら安いものです。百済は中国から手に入れた文化を日本に売ることで何らかの利益を獲得していたのでした。日本にしても実際には支配できておらず名目だけの支配権になってましたから手放しても惜しくないと思ったのでしょう。

ところが伽耶諸国にとっては迷惑な話です。倭国の軍事的支配権があるということでかろうじて百済に吸収されずにいたのです。その倭国が支配権を放棄したことで伽耶諸国は一気に滅亡に近づいてしまうことになります。

514年。さらに己汶、滞沙の二郡も百済に譲渡しました。
517年。百済は倭に五経博士漢高安茂(コウ アンモ)を派遣。段楊爾との交代です。高安茂も梁か中国系の人物。

521年には中国の梁に使節を送りました。「高句麗に破れて何年も朝貢できませんでしたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになりました」と使節を送ります。

梁は百済に「使持節 都督百濟諸軍事 寧東大將軍 百済王」と与えました。武寧王は百済の王であると梁に認められたのです。

523年。武寧王は死亡。熊津に陵墓が造られ葬られました。

韓国の忠清南道公州市にある古墳が武寧王陵と確認されています。金の飾りや中国南朝から贈られた銅鏡、陶磁器など多くの遺物が見つかっています。また武寧王の棺は日本にしかない高野槇(こうやまき)で造られていました。

諸外国と積極的に交流していたことがわかります。

一時は滅亡寸前にまで衰退していた百済は武寧王の時代に力を回復しました。

武寧王の死後、息子の明禯(ミョンノン)が即位。聖王となりました。

武寧王の子どもたち

武寧王に娘がいたことは確認できません。でも息子はいました。

26代聖王は武寧王の息子です。

日本書紀によると他にも兄弟がいたようです。
純陀太子は日本に派遣され現地の女性と結婚して日本に帰化。子孫は倭氏(やまとうじ)となっています。

斯我君も日本に派遣されました。しかし純陀太子と同一人物ではないかといわれます。

ちなみに桓武天皇の母親・高野新笠が和氏出身です。倭氏と和氏が同じかどうかはわかりませんが、平安時代に作られた和氏の系譜では同じということになってます。

しかし高野新笠の時代と継体天皇の時代は200年以上も空いており、朝鮮の歴史書に純陀太子と斯我君は出てきません。「本当に和氏は百済王家の末裔なのか?」と疑問視する研究者もいます。

テレビドラマ

帝王の娘スベクヒャン 2013年 MBC 演:イ・ジェリョン

韓国ドラマ「帝王の娘スベクヒャン」では武寧王の娘スベクヒャンが登場します。スベクヒャンは本当にいたのか?何者なのかについてはこちらで紹介しています。

・スベクヒャンの正体

3.2 百済

Posted by Fumiya


PAGE TOP