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恩古(ウンゴ)は実在する?:百済最後の王妃は本当に「妖女」だったのか?【階伯とドラマ比較】

古代百済の王妃・恩古(ウンゴ)とはどのような人物だったのでしょうか?この記事では、百済最後の王・義慈王の妻として名を残した恩古の史実を紹介します。

『日本書紀』や『大唐平百濟國碑文』などの記録をもとに彼女がどのように政治に関わり、なぜ「国を滅ぼした王妃」とまで評されたのかを探ります。さらに韓国時代劇『階伯(ケベク)』で描かれたウンゴ像との違いにも注目します。

この記事で分かること

  • 『日本書紀』と『大唐平百濟國碑文』に描かれた恩古の姿
  • 義慈王と恩古の関係、および百済滅亡の背景
  • 史実とドラマ『階伯(ケベク)』におけるウンゴ像の違い
  • 恩古が後世に「妖婦」とされた理由と再評価の可能性

 

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百済の王妃「恩古(ウンゴ)」とは?

恩古(ウンゴ、おんこ)は百済の王妃で7世紀に実在した人物です。 第31代国王・義慈王(ぎじおう)の妻であり、大夫人ともいいます。

韓国時代劇『階伯(ケベク)』では「ウンゴ」の名前で登場します。

『ウンゴ』は『恩古』の現代韓国語読み。当時の発音は違っていた可能性があります。義慈王を「ウィジャワン」とよぶのも同様ですが、古代の発音は不明なため、現代の発音で書かれていることが多いです。

恩古は義慈王の妻ですが、朝鮮半島の正史である『三国史記』には義慈王の妻が誰なのかが書かれていません。

恩古の名前が載っている史料

「恩古」の名前が載っているのは『日本書紀』です。

  • 『日本書紀』は百済の資料も多く使われており、百済関係の出来事については『三国史記』より詳しい部分もあります。
  • 一方、『三国史記』は新羅の資料を中心に、新羅出身の学者によって編纂されたため、百済のことはあまりよく書かれていません。

他に義慈王の妻が書かれている記録としては、『大唐平百濟國碑文』があります。こちらの記録も短いながらほぼ同じ内容のことが書かれています。

古代の歴史資料をもとに、史実の恩古がどのような人物だったのかを紹介します。


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恩古の史実:基本情報

いつの時代の人?

彼女は百済の王妃で、日本では飛鳥時代にあたります。

生年月日 不明
没年月日 不明
姓・名称 不明 / 恩古(おんこ)
国・地位 百済 / 王妃
称号 なし(大夫人と呼ばれる)
父・母 不明
義慈王(ぎじおう)
子供 不明

恩古の生年や両親、義慈王との結婚の経緯はわかっていません。


史料から見る恩古の評価

『日本書紀』の内容:国権の私物化

『日本書紀』によれば、以下のように書かれています。

「義慈王の妻は恩古」

大夫人が無道で、ほしいままに国権を私物化し、立派な人達を罰し殺したので禍(わざわい)を招いた

(禍(わざわい)とは百済の滅亡を指します。)

古代中国における「夫人」は「王の妃」の意味で、「大夫人」とは妃の中でも最も位の高い、王の正妻を指します。

百済が滅んだ直接の原因は唐と新羅に攻められたことですが、『日本書紀』では別の説として、百済は恩古の振る舞いが原因で自滅したのだとも書かれています。

具体的に恩古が何をしたのかは不明ですが、王に与える影響が大きい女性だったのかもしれません。

義慈王即位後の貴族の粛清

『三国史記』には、義慈王即位後の政情について書かれています。

貴族の粛清と国力の衰退

  • 641年、扶余義慈(ふよ・ぎじ=義慈王)が百済王に即位。
  • 義慈王は即位後、王の権力を高めるために、それまで力を持っていた貴族を粛清しました。
  • これにより王の力は強くなりましたが、貴族は王に不信感を抱くようになります。
  • 649年に新羅に大敗すると、義慈王は酒色に溺れるようになり、王を諫める臣下を処罰したため、忠告する者もいなくなりました。

その結果、660年に唐と新羅が攻め込んできた時には国を守る人材が不足し、百済はあっけなく滅亡してしまいます。

『日本書紀』の内容と合わせて考えれば、義慈王が即位後に行った貴族の粛清に「大夫人=恩古」も関わっていた可能性が高いです。

『大唐平百濟國碑文』:「内信祅婦」

「大唐平百濟國碑文」と呼ばれる碑文にも、恩古らしき人物が出てきます。

碑文の概要

  • 660年、唐が百済を滅ぼした時に、唐の将軍・蘇 定方(そ ていほう)が戦勝を記念して刻ませたものです。
  • 碑文は、現在も韓国の国宝に指定されている「扶餘定林寺址五層石塔」の一面に刻まれています。

碑文に書かれた義慈王の失政

碑文では義慈王について以下のように書かれています。

外棄直臣、内信祅婦

(高潔な臣下を追放し、内にいる妖女を信じた、という意味です。)

この「妖女」が『日本書紀』にある大夫人・恩古と同一人物だといわれています。

詳しさは違うものの、『日本書紀』と『大唐平百濟國碑文』では、義慈王が王妃(恩古)を信じ、有能な臣下を追放したという同じ内容のことが書かれています。

恩古への評価

百済滅亡直後に書かれた碑文で「祅婦」と書かれているということは、少なくとも当時から恩古が快く思われていなかったのは確実です。政治に口出しして、臣下から鬱陶しがられていたのかもしれません。

恩古がどの程度の力を持っていたのかは不明ですが、義慈王への影響力は大きかったようです。

しかし、百済が滅んだのは義慈王の失政や百済の組織の体質、国力など複数の問題によるものであり、恩古ひとりのせいではありません。 人々から快く思われていなかった彼女が、国の滅亡の原因まで押し付けられた可能性があります。


百済滅亡後の恩古

唐への連行

660年(義慈王20年)、百済が唐・新羅に滅ぼされた際、恩古は唐の将軍・蘇 定方(そ ていほう)に捕らえられます。

義慈王、太子の隆、臣下たちとともに唐の洛陽に連行されました。 唐に連行された百済人は、唐の歴史書『旧唐書』では58人となっています。

唐に連行された百済の人たちは、洛陽にいた日本の遣唐使(伊吉博徳など)が目撃しています。

このとき唐の高宗に謁見した百済人は、義慈王、隆、王子たち13人、大臣たち37人のあわせて50人でした。

その後、恩古がどうなったかはわかっていません。

義慈王の子供には豊璋、善光、隆、泰、孝、演らがいましたが、恩古の子が誰なのかは不明です。

『大唐平百濟國碑文』には義慈王、扶餘隆の他、王族や大臣、民12,807人が唐の洛陽に連行されたと書かれていますが、義慈王の妻(恩古)の処遇までは書かれていません。


テレビドラマでの恩古(ウンゴ)

『階伯(ケベク)』での設定

テレビドラマ『階伯(ケベク)』では、史実とは大きく異なるオリジナルの設定で登場しています。

ドラマにおけるウンゴの役どころ

出演・役名

  • 2011年MBC『階伯』:演:ソン・ジョヒョ(宋智孝)、少女期:パク・ウンビン(朴恩玭)、子役:チョン・ミンソ(全敏書) / 役名:モク・ウンゴ

主な設定

  • 商人のモク・ハンビョクの娘。(「モク」という姓はドラマオリジナル)
  • 抜群の知恵をもつ有能な女性で、商団を組織・運営します。
  • 両親の復讐のためにサテク妃に取り入り義理の妹になり、サテク妃を倒すためにウィジャ(義慈)と手を組みました。
  • ケベク(階伯)とウィジャから愛されますが、ウィジャによって無理やり妻にさせられ、ウィジャが王になると王妃になりました。
  • 新羅とも内通し、結果的に百済滅亡に手を貸すことになります。

 

 

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この記事を書いた人

 

著者イメージ

執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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