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聖王 ・日本に仏教を伝えた百済王は新羅との戦いで戦死

2 百済

聖王は百済の26代国王。

聖王は死後に贈られた名前。生前は明王と呼ばれていたようです。

百済は高句麗に対抗するために新羅や倭国との同盟を行っていましたが、聖王の時代もひきつづき同盟関係を維持しました。

日本に仏教を伝えた王として知られます。

史実の聖王はどんな人物だったのか紹介します。

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聖王 (ソンワン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:554年
在位期間:524~554年

諡号:聖王 (ソンワン、せいおう)
日本では「聖明王、明王」。
中国・梁では「明」とよばれます。

姓:扶餘(ぷよ)
名前:明禯(ミョンノン)

父:武寧王
子:威徳王

百済の26代国王。
日本では飛鳥時代、継体天皇から欽明天皇の時代になります。

おいたち

524年。父の武寧王が死去すると即位。

新羅との同盟関係を強化しようとします。

中国南朝の梁から持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王の称号を与えられました。

529年。高句麗の安臧王(あんぞうおう)が百済に攻めてきました。百済軍は高句麗軍と戦いましたが敗退。2000人の死者を出すなど大きな被害を受けました。

534年。梁(中国南北朝時代の南朝)に使節を送りました。

538年。首都を熊津(ウンジン、忠清南道公州市)から泗沘(サビ、忠清南道扶余郡)に遷都しました。国の名前を「南扶余」にしました。

540年。燕會将軍に命じて高句麗の牛山城を攻撃させましたが敗退しました。

そのころ新羅は伽耶諸国を次々と支配下にしていました。伽倻をめぐって新羅と嫌悪になり、倭国(やまと)との連携を強めます。

541年。中国南朝の梁に朝貢しました。梁から仏教の経典、工匠、絵師などが与えられました。聖王はもともと仏教の信者でした。梁から新しい経典などが伝来したことでますます仏教に熱心になります。梁の武帝は熱烈な仏教信者だったのでその影響を受けたようです。

541年と544年。聖王は任那復興を名目に倭国の軍事援助を求めました。これが日本書紀にある任那復興会議です。任那を取られた倭国の怒りを利用して倭国に新羅を討たせようとしたのです。聖王は百済が中心になって伽耶諸国をまとめるのを認める代わりに、倭国に軍隊を派遣してほしいともちかけました。しかし安羅をはじめとする伽耶諸国は百済を信用してなかったので反応はいまひとつでした。任那日本府(当時はこの呼び方はなかったと思われますが、伽耶にあった倭人が常駐する役所のことでしょう)の役人も百済に反抗的で従おうとしません。

武寧王の時代に伽耶諸国の一部(任那四郡)を百済に割譲したことで伽耶諸国の崩壊が一気に進みました。また倭国の朝廷内でも任那四郡の割譲を主導した大伴金村が失脚。任那復活を目指す物部氏らが力をもっていたので武寧王のときのようにすぐには交渉には応じませんでした。

そこで百済は毎年日本に貢物を贈り、日本府の反百済派の役人を辞めさせるように要求しました。でもなかなか援軍が来ません。

548年。欽明天皇は百済に援軍を出すと返事しました。高句麗は濊と協力して獨山城を攻撃してきました。倭国は返事をしたばかりで遠征の準備ができていません。

あわてた聖王は新羅に救援を求めました。新羅は3000の援軍を送ってきました。百済・新羅連合軍は高句麗軍に勝利しました。ちなみにこのときの高句麗軍は王位交代があったばかりで高句麗軍は十分な編成できず、濊人ら高句麗に征服された民族が主力でした。

551年。達己将軍と兵一万を送り漢山城を奪回しました。百済は6の郡、新羅は10の郡を得ることができました。新羅の真興王は更に領土を拡張しようと戦争を続けました。高句麗は突厥とも戦争していたので南の守りが手薄になっていたのです。

聖王は新羅の真興王に高句麗の首都・平壌を攻めることを提案します。ところが真興王は百済の提案を拒否。百済を裏切って高句麗と同盟を結びました。

552年。高句麗に続き新羅まで敵にした聖王は倭国(日本)に達率(大臣クラスの重臣)を派遣。このとき倭国に釈迦仏や経典を送りました。高句麗・新羅との戦いに備えて軍事援助を要請するためです。

553年。新羅が漢山城を新羅に奪われてしまいます。百済が高句麗から奪った領土の殆どを新羅に奪われてしまいました。

聖王は新羅と和睦したくて百済の軍の前進を止め、王女を新羅に送り政略結婚を進めようとしました。しかし新羅との戦争になってしまいます。

そこで日本から来た援軍とともに新羅に戦いを挑みます。

554年。聖王は昌王子(後の威徳王)に兵を与えて新羅を攻撃させます。昌王子が指揮する百済軍に加え、伽倻と日本から来た援軍が加わり新羅軍の管山城(忠清北道沃川郡)を攻撃。管山城を陥落させました。

聖王は奮闘した昌王子をねぎらうため、あるいは戦後処理のため側近と50騎ばかりの護衛兵をつれ管山城に向かいました。ところが狗川(忠清北道沃川郡)あたりで伏兵に襲われ命を落としました。

死後、聖王の諡がおくられました。

王が前線で命を失うという大事件に百済は衝撃を受けます。以後は百済は高句麗との戦いを止めて新羅との戦いに全力をかけることになります。

聖王は中国南朝の梁に朝貢して仏教や工芸・絵画の技術を導入しました。聖王は梁の武帝を見習って轉輪聖王(インドで理想的な王を意味する言葉)を目指し、積極的に仏教を広めました。国内だけでなく同盟国の日本に対しても仏像や経典を輸出しました。これらは軍事援助の見返りとして贈られたものです。

高句麗仏教が北魏の影響が強いのに対し、百済仏教は梁の影響を受けています。大陸で栄えた仏教が日本に伝わった背景には国同士の取引があったのです。

テレビドラマ

ソドンヨ SBS 2005年 演:アン・ソックァン
帝王の娘スベクヒャン 2013年 MBC 演:チョ・ヒョンジェ

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