帝王の娘・スベクヒャンに登場する苩加(ペクカ) は実在の人物。
百済の東城王の時代に生きた豪族です。東城王に反乱を起こして殺害しました。しかし武寧王によって鎮圧され処刑されました。
史実の苩加(ペクカ)はどんな人物だったのか紹介します。
苩加(ペクカ) の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:502年
名前:苩 加(ペク・カ)
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に12代仁宗~13代明宗の時代です。
日本では古墳時代になります。
おいたち
百済の大姓八族のひとつ苩氏を率いる豪族。苩氏はもともとは馬韓(朝鮮半島南西部の地域)の出身。
ペク氏には「苩」と「白」があったとされます。同じ発音の漢字をあてはめただけで同じ一族だったのか、別の一族なのかは不明です。
苩氏は能津周辺を本拠地にする豪族でした。漢城を失った百済王族は、能津との豪族の協力がなければ再興はできませんでした。苩氏は王族とも親しい関係にありました。
486年。東城王の時代。苩加(ペク・カ)は衛士佐平になりました。衛士佐平は百済の最高の官職です。総理大臣のようなものです。
苩加は宿衛兵を管理下におき軍を動かすことができました。
501年。東城王は苩加に新しく造った加林城(現在の忠清南道)を守るように命令を出しました。加林城が新しい都・能津を守る重要な防御の拠点だったからです。ところが苩加は拒否しました。
しかし東城王は苩加の訴えを認めず強制的に赴任させました。都からでることになった苩加は東城王を恨み反乱を起こします。
11月。苩加は東城王が狩りのため馬浦村に来ることを知ると、暗殺者をおくりこみます。東城王は馬浦村で宿泊していたところを襲われて重症を負いました。すぐには死亡しませんでしたが12月に死亡しました。
東城王の死後、苩加は加林城を本拠地にして挙兵しました。
502年に武寧王が即位すると、解明に命じて討伐させます。不利になった苩加は降伏しましたが捕らえられて処刑されました。彼の死体は白江に投げ込まれました。
百済王族と親しくしていた苩加でした。しかし王族を中心とした旧漢城から来た一族と、地元の能津の豪族との間でトラブルがあったようです。蓋鹵王の時代から百済は王族を中心にした国を作ろうとしていたようですが、地元の豪族の反発は根強かったようです。
この反乱で苩氏は一時的に力を失います。後の時代にも苩氏は要職にあったので、大姓八族のひとつとしては残っていたのかもしれません。
テレビドラマ
帝王の娘・スベクヒャン MBC、2013年、演:アン・ソックァン
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