真興王(チヌンワン)は新羅の領土を広げ発展させた王

2019年4月17日

真興王は新羅の24代国王。

韓国ドラマ「善徳女王」ではチヌン大帝と呼ばれ、「花郎(ファラン)」では若い頃の真興王がサムメクチョンという名前で登場します。

新羅の領土を拡張し高句麗、百済とともに三国時代を作りました。真興王の時代は大陸の進んだ文化や仏教を積極的に取り入れ、新羅が発展しました。

新羅は高句麗や百済よりも発展が遅れていた国なのですが、真興王の時代に領土を拡張し大きく発展します。それまで百済よりも格下のような存在だったのが立場が逆転するのものこのころ。真興王は新羅史上でも特別な王といわれます。

真興王はどんな人物だったのか紹介します。

真興王(チヌンワン)の史実

いつの時代の人?

称号:真興王(チヌンワン・しんこうおう)
姓:金(キム)
諱:彡麦宗(サムメクチョン)
生年月日:534年
没年月日:576年
在位:540~576年
父:立宗
母:只召夫人
妃:思道夫人

新羅の24代国王です。

日本では古墳時代になります。

おいたち

本名は彡麦宗(サムメクチョン、深麦夫とも書きます)
父:立宗は23代法興王の弟。母・只召夫人は法興王の娘です。
産まれて間もなく父・立宗が死亡。

只召(チソ)太后の摂政時代

法興王には息子がいなかったので彡麦宗が7歳で即位しました。しかし子どもでは国を収めることができません。最初の1年は法興王の妃の保道夫人が摂政を行いましたが、そのあとは母・只召夫人が摂政になりました。その後、10年近く只召太后が摂政を行いました。

即位して間もない541年。百済から同盟を持ちかけられたので同盟を結びました(羅済同盟)。

548年。高句麗が濊とともに百済に攻めてきました。このとき新羅は百済から援軍を求められたので援軍を送り百済に味方しました。

449年。この年、新羅に梁の使者がやって来て仏舎利を贈られ盛大な仏教行事が行われました。梁からの仏教導入が新羅の仏教をさらに発展させることになります。しかしこの年に梁が滅亡。これが最後の使者となりました。

この頃から百済との同盟にも変化がではじめます。

550年。百済が高句麗に戦いを仕掛けました。新羅も将軍・異斯夫を中心にして軍を派遣。百済が高句麗から奪い取った道薩城を奪います。高句麗が百済から奪った金峴城もせめて奪いました。百済と高句麗が闘っている間に2つの城を手に入れたのです。

真興王の親政時代

真興王は成人すると只召太后の摂政はなくなりました。王が自分で政治を行う親政政治がはじまります。真興王が親政を始めたのは成人した550年頃だといわれます。

551年。新羅は百済、伽倻連合軍ともに高句麗の漢江上流流域を攻撃。この戦いでは百済は高句麗に奪われていた漢城を奪回しました。百済が漢城攻略に夢中になっている間に多くの領土を獲得しました。さらに百済が占領した地域も奪おうとしましたが、あわてた百済が和睦を持ち替えてきたので戦いを止めました。新羅にとっては大きな収穫でした。

隨書によると、新羅の躍進は高句麗からの渡来人が貢献していました。このころ高句麗での圧政を嫌がった人々が新羅に亡命していました。当時の新羅は新興国だったので優秀な能力を持つ渡来人を積極的に採用していたのです。

百済との戦い

553年。百済が高句麗から取り戻したばかりの漢城を攻撃、漢江流域を占領。新羅の新しい州にしました。この戦いで新羅は初めて黄海側に領土を持ちました。

自力で中国に使者を送れるようになったのです。新羅は大陸の進んだ文化の輸入は高句麗や百済よりも遅れていました。使者を送るにも百済経由で送っていました。自力で大陸に行き来できることは大きなメリットです。新羅発展の大きな転機になった戦いでした。

この戦いで百済は危機感をもちましたがもはや自力では新羅に対抗できません。百済の聖明王は伽倻や倭国に援軍を養成するとともに、娘を真興王に嫁がせました。人質を出してきたのです。

554年。百済は伽倻、倭国から来た物部氏が率いる千の援軍とともに新羅に戦いを仕掛けてきました。油断していた新羅は初戦は百済・伽倻・倭連合軍に破れました。しかし新州の軍主・金武力の活躍で百済を撃退しました。金武力は伽倻出身の元王族で金庾信の祖父です。この戦いで百済連合軍側は29600の兵を失い百済の聖明王が戦死しました。新羅の大勝利でした。

もはや百済は怖くありません。真興王は残された伽倻諸国を狙っていましたが、ここで気になるのは倭国の動向です。倭国には伽耶諸国を配下に置きたいという願望があり何度か軍を派遣しているからです。

560年。新羅は倭国に使者を派遣しました。新羅の使者は倭国で予想外の歓迎をうけました。
561年。新羅は再び使者を派遣。今回は前回よりも役職の高い者を派遣しました。ところが朝廷の態度もそっけなく交渉に応じません。どうやら前年の使者に対して朝廷内で新羅を歓迎しすぎだという批判が起きたため扱いが低くなったのです。新羅の使者はこの扱いの酷さに腹を立てて帰国していしまいます。

使者が途中で帰ったのはまずいと思ったのか新羅はさらに使者を送りました。ところが百済の使者よりも低い扱いでした。

この倭国の対応で倭国は新羅に好意は持っていないこと、伽耶諸国を本気で守る意志がないと判断したようです。

伽耶諸国の滅亡

562年。真興王は将軍の異斯夫と斯多含を大伽倻国に派遣。異斯夫は優れた将軍で、降伏と見せかけて襲撃。伽倻に駐留していた倭軍の河内臣は為す術なく降伏。新羅軍は策略も使った戦いで伽倻諸国を次々に占領します。伽倻諸国連合の盟主・大伽倻国は降伏、伽耶諸国の土地は新羅のものとなりました。

564年。北斉に朝貢。翌565年2月には「使持節・東夷校尉・楽浪郡公・新羅王」に冊封されました。

また、南朝の陳にも朝貢を行っています。

以後、毎年のように朝貢を行いました。

576年。死去。

仏教信仰

新羅は中国の南北朝(梁)から仏教が伝来。新羅の仏像は梁の影響が強いのが特徴です。先代の法興王の時代に仏教が新羅公認の宗教になりました。真興王も仏教崇拝の厚い王だったので仏教が栄えました。

544年。法興王の時代から建設していた法輪寺が完成。566年に祇園寺と実際寺を建て、皇龍寺を建設開始しました。576年には皇龍寺が完成しました。

晩年には出家して法雲と名乗りました。

新羅の仏教は「国家守護の神」としての性格が強いのが特徴です。仏教の持つ慈悲や平和(殺生をしない)はあまり重視しません。仏教を信仰しながらも積極的に戦争を行うっても矛盾しないという考え方でした。北方の騎馬民族が仏教を信仰するときにみられる傾向です。

花郎制度の開始

新羅を舞台にしたドラマでよく話題になる花郎は真興王の時代に制度化されました。
あるとき重臣たちが人材を選ぶのに困っていました。そこで2人の王女を選び、そのファンを集めることにしました。ところが王女たちは互いに嫉妬して一方がもう一方を殺してしまいました。そこで美形の男子を選んでリーダーにして若者を統率させました。それが花郎の始まりだといわれます。

古代の東アジアには、部族の若者が集まって部族の一員として教育を受ける習慣がありました。その中から将来の部族を背負う人材が育っていきました。

新羅ではそのような古い習慣を制度化したのが花郎だといわれます。ただしドラマで描かれるような軍隊ではありません。集まって教育を受けたり娯楽を楽しむ青年団のようなものです。ただし兵が足りないときは学徒出陣のように花郎が戦地に行くこともあったようです。

新羅発展の時代

真興王の時代は新羅が大きく発展した時代でした。それまでは中国からは朝鮮半島の小国として思われ百済よりも格下の扱いを受けていました。この時代に百済との力関係が逆転。朝鮮半島の最強国としての扱いをうけます(中国から見ると高句麗は契丹同様に大陸の国としての扱い)。後に百済を滅ぼし、朝鮮半島の統一を行うのですが、その基礎は真興王の時代にできあがったといえます。

テレビドラマ

善徳女王 MBC 2009年 演:イ・スンジェ
花郎 KBS 2016年 演:パク・ヒョンシク

花郎ではジデイ(サムメクチョン)として登場。こちらでは通説と違い326年誕生説を採用しているようです。サムメクチョンが成長しているのにいつまでも母親が政治をしているというストーリーにするためでしょう。

当然ですが真興王自身が花郎だったという記録はありません。

善徳女王では晩年の真興王が登場。曾孫が善徳女王になります。


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