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真平王・善徳女王の父は新羅の基礎を作った王だった

3 新羅

真平王(しんぺい王・チンピョンワン)は新羅の26代国王です。

善徳女王の父親としても知られています。

真平王の時代は新羅、高句麗、百済が激しく戦っていた時代でした。

一方で、拡大した領土を治めるために新しい組織を作って、国としての形を整えました。

やがて高句麗や百済とは和解して、新羅は孤立します。随や唐にたよって生き延びようとしますが、志半ばで死亡します。

王と豪族の集まりだった古代国家から、しっかりした組織で治める国としての新羅がはじまったのが真平王の時代といえるかもしれません。

史実の真平王はどんな人物だったのか紹介します。

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真平王(チンピョン王)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1612年2月5日
没年月日:632年日

名前:金伯浄李
称号:真平王(しんぺいおう、チンピョンワン)
父:金銅輪(真興王の長男)
母:仇珍の娘
妻:摩耶夫人(葛文王金福勝の娘)

子供
徳曼公主(善徳女王)、天明公主、善花公主、天花公主(架空の可能性あり)

真平王は新羅の26代国王です。

日本では飛鳥時代になります。

おいたち

産まれた年はわかりませんが、真興王の長男で太子だった金銅輪の子として産まれました。

579年。先代の真智王が死去したため、王になりました。

新羅の官僚組織を整え、位和府(後の吏部。人事)、船府署(航海)、調府(貢賦)、乗府(王の行幸)、礼部(儀礼教育)、領客府(外交)など様々な部署を作りました。

それまでは王と豪族が集まっていたような国だったのが、組織を作って役人たちが役割を分担して治めるしくみが整ったのが真平王の時代だといえます。

真興王から始まった領土拡張で国が大きくなったので、しっかりした仕組みをつくらないと上手く治められないようになったのでしょう。

陳や随に僧侶を派遣して仏教の普及に努めました。

随に朝貢して「上開府・楽浪郡公・新羅王」の称号を与えられました。

真平王も真興王が始めた領土拡張路線を引き継ぎました。

602年。百済との戦いで大勝しました。
603年。高句麗が北漢山城(ソウル)に攻めてきたので撃退しました。

608年。高句麗に牛鳴山城(江原道)を奪われます。

611年。随に使者をおくり、高句麗を討つように上奏文を届けました。

その結果かどうかはわかりませんが、612年に随は高句麗に大軍を派遣します。しかし随の高句麗討伐は失敗。国力を弱めた随は滅亡しました。

随を退けた高句麗は新羅との戦いを再開。百済も新羅への攻撃を強めます。新羅はいくつもの城を失い領土を奪われました。

随の滅亡後、唐が大陸の支配者になりました。

真平王は唐に使者を送って、高句麗を討つように訴えました。しかし唐は高句麗と和解するように勧められ、援助は受けられませんでした。

626年には高句麗と百済が和解しました。それまで三つ巴の争いだったのが、高句麗対新羅、百済対新羅の戦いになってしまいました。

新羅はピンチに立たされます。

629年。高句麗と娘臂城(忠清北道)で戦い勝利します。その後はしばらくは大きな戦いはありませんでした。

ところが631年。国内で柒宿(チルスク)と石品(シクプム)が反乱を起こすなど国内は混乱しました。

真平王は柒宿と石品を処刑しましたが、その後も国内の混乱は続きました。

632年。死去。死因は不明です。

男子の王位継承者がいなくなったことから、娘の徳曼公主が即位。善徳女王が誕生しました。

ソドンヨに登場する善花王女は真平王の三女といわれます。しかし善花王女は正式な歴史書・三国史記には登場しません。正史ではない三国遺事に登場します。そのため善花王女が実在したかはよくわかっていません。

テレビドラマ

ソドンヨ SBS 2005年 演:チェ・ドンジュン
ヨンゲソムン SBS 2006年 演:チャ・ヅオク
善徳女王 MBC 2009年 演:チョ・ミンギ、ペク・ジョンミン
大王の夢  KBS 2012年 演:キム・ハギュン、イ・ホジン

 

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