善徳女王:新羅最初の女王はなぜ誕生した?

3 新羅

善徳女王は新羅の女王。朝鮮半島史上初の女王です。

新羅には歴史上3人の女王がいます。その最初になった女王です。

韓国ドラマ「善徳女王」のヒロインにもなりました。

どうして新羅に女王が誕生したのでしょうか?そして善徳女王の生きた時代はどのような時代だったのでしょうか?

史実の善徳女王はどんな人物だったのか紹介します。

善徳女王の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日: 647年2月17日
在位: 632~647年

姓:金
名:徳曼(トンマン・とくまん)
称号:善徳女王(ソンドクニョワン・ぜんとくじょおう)
父: 真平王
母: 摩耶夫人
夫:なし
子供:なし

彼女は新羅の27代国王。

日本では飛鳥時代。推古天皇の次の世代。舒明天皇~皇極天皇の時代になります。蘇我氏が最も力を持っていた時代です。

中国では隋が滅亡し、618年に唐が誕生しました。

おいたち

生年はわかりません。

父は26代国王・真平王

母は摩耶夫人

3人姉妹だったとされます。
朝鮮半島の正史「三国史記」では長女です。
「三国遺事」「花郎世紀」では次女になってます。
「花郎世紀」は現代の偽作なので信憑性はありません。

「三国史記」は高麗時代に書かれたものですが新羅出身の儒学者が書きました。「三国遺事」も高麗時代に書かれましたが僧侶が書きました。

「三国史記」は新羅の記録をもとに書かれているはずなので歴史上は長女だったのでしょう。

かつては新羅と百済は同盟国でした。ところが真興王(善徳女王の曽祖父)は同盟を破って百済の領土を奪い、伽耶諸国を滅亡させ新羅は領土を広げました。ところが戦争を繰り返したので周辺国は敵だらけになりました。

父・真平王の時代になると国内統治を優先。様々な制度改革を行いました。高句麗や百済から攻められることもあり苦しい時代でした。

善徳女王の誕生

632年。高句麗や百済との戦争が続く中、父・真平王が死去しました。真平王には息子がいません。

しかも父母ともに王族(聖骨)の男子もいません。

そこで王の娘・徳曼(トンマン)が国王に選ばれました。善徳女王の誕生です。

どうして女王が誕生したの?

朝鮮史上初の女王の誕生です。新羅は歴代朝鮮半島の国の中でも女性の地位が最も高い国です。新羅は仏教が熱心で儒教はほとんど普及していません。女性への差別意識もまだ少なかったのです。

6~7世紀は東アジアで女帝が次々に誕生した時代。

倭国(日本)では593年に推古天皇が即位。

推古天皇から約100年後の690年には唐(武周)で武則天が即位しています。

善徳女王は推古天皇と武則天の中間の時代に生きた女王です。3つの国に共通しているのは、儒教の力が弱く仏教が熱心な国だったこと。新羅はシャーマニズム的な考えも残っていました。有力な男の後継者が皇族(王族)にいなかったのも似ています。

三国史記には善徳女王は、感が鋭く予知能力を持つシャーマン的な人物として描かれています。

当時の人々は正当な資格を持つ王族男子がいない場合、シャーマン的な女性が女王になって精神的な柱となって豪族たちをまとめようと考えたのでしょう。邪馬台国の卑弥呼のようなかんじです。

善徳女王の即位した時代

ところが善徳女王の時代になると百済は高句麗と同盟を結んで新羅と戦うようになります。新羅は百済と高句麗の両方と戦わなくてはいけなくなり、相次ぐ戦争で領土は減り、人々の生活は苦しくなりました。新羅史上でも厳しい時代でした。

即位後、父と同様に唐に朝貢の使者を送ります。

633年。西部国境地帯に百済が侵入。

635年。唐から柱国・楽浪郡公・新羅王の称号を与えられました。父・真平王も受けていた称号です。

636年。百済が独山城(忠清北道槐山郡)を攻撃しようとしていました。そこで閼川(アルチョン)と弼呑(ビルタン)を派遣。百済軍に奇襲をかけて百済軍を壊滅させました。

このあと、大手柄をたてた閼川(アルチョン)を大将軍に任命しました。

638年。高句麗が七重城(京畿道坡州市)に攻めこみました。このときも閼川が高句麗兵を撃退しました。

642年7月。百済せめこまれ西部40あまりの砦を奪われました。

8月には百済と高句麗が同盟し党項城(京畿道華城郡南陽面)を陥落させました。党項城は新羅から黄海に抜ける重要な地域。唐に朝貢するルートが断たれてしまいます。

さらに大耶城(慶尚南道陜川郡)も百済に奪われてしまいます。

そこで高句麗に援軍を求めようと王族の金春秋(後の武烈王)を使者として派遣しました。百済と同盟している高句麗は協力を拒否。金春秋は一時、拘束されてしまいます。

643年。新羅は唐に使者を派遣し高句麗・百済を討つため協力を求めました。ところが唐は女王を廃して、唐の王室から新王をたてるように要求しました。

唐の強行な態度に対して国内の意見は分かれました。「唐の要求は受け入れられない」反唐派と、「それでも従うしかない」という親唐派の対立が始まります。

毗曇(ピダム)の反乱

647年正月。親唐派が反乱を起こしました。上大等の毗曇(ピダム)が中心になり、中央の豪族も反乱に加わっていました。毗曇(ピダム)達の要求は女王の廃位です。

金庾信(キム・ユシン)たちは地方の豪族をまとめて反乱軍を討伐。

戦いが続く中、8日に善徳女王は陣中で死亡します。

「善徳」の諱が贈られ、狼山(慶州市)に葬られました。

その後、金庾信たちは王族の中から勝曼(真徳女王)をかついで女王にしました。「旧唐書」では善徳女王の妹とされていますが、真徳女王は真興王の弟の子孫。善徳女王は真興王のひ孫なので、5親等はなれています。

17日。金庾信たちは毗曇(ピダム)達反乱軍を討伐に成功。毗曇ら20人を処刑しました。

善徳女王は15年在位しました。善徳女王自身のエピソードは巫女的な予言の話が多く、政治的に何かを行ったという記録は殆どありません。

閼川(アルチョン)、毗曇(ピダム)、金庾信(キムユシン)らの活躍が目立っています。

優秀な臣下に恵まれていたのは確かですが、お飾り的な女王だったようです。

テレビドラマ

薯童謠(ソドンヨ) SBS 2005年 演:
ヨンゲソムン SBS、2006年〜2007年 演:イ・ヒョンジョン
善徳女王 MBC、2009年、演:イ・ヨウォン、ナム・ジヒョン
大王の夢 KBS、2012年 演:ホン・ウニ、パク・チュミ、ソン・ジュア

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