高宗(コジョン、こうそう)は李氏朝鮮26代国王。
朝鮮最後の国王そして大韓帝国最初の皇帝です。
高宗はあまり良い評価がされないことも多く。亡国の王としてのイメージがつきまといます。
12歳で王になった高宗は大妃や大院君の摂政をうけていました。
大人になり親政をおこなうようになってからの高宗を紹介します。
高宗の前半生はこちらを御覧ください。
高宗(コジョン)の史実
甲申政変
壬午軍乱のあと朝鮮では清の支配が強まっていました。危機感を覚えた金玉均、朴泳孝ら開化派が日本軍と協力して閔氏一族に反乱を起こしました。
反乱当日、高宗は朴泳孝らにいわれるがまま宮殿を移りました。
高宗と一緒に宮殿を写った明成王后は宮殿を移りたいと言って外に出ると逃亡。清に助けを求めました。
反乱に成功した金玉均、朴泳孝は閔一族に変わって政権を握りました。
ところが高宗の救出を名目に清が攻めてきました。王宮にいた日本軍は数の多い清軍に敗退。
高宗は逃げる途中、清軍に捕まります。金玉均は同行しましたが、高宗と一緒にいた朴泳孝は殺害されました。
三度、閔氏一族が政権を握りました。
イギリスの巨文島占領事件
日本やアメリカと条約を結んだ後、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスと条約を結びました。
朝鮮に各国が押し寄せてきました。
1885年。イギリス軍が巨文島を占領するという事件がおこります。
でも高宗はただみてるだけで何もしませんでした。清の実力者・李鴻章はこの状態を危険だと思って忠告してきました。アヘン戦争で負けて香港をとられた清はイギリスの危険性を知っていたからです。
イギリスはロシアに対抗するため巨文島を基地にしようとしていること。貸したとしても既成事実化して領地にしてしまうこと。朝鮮は巨文島を貸してはならない事を伝えてきました。
高宗はイギリスと交渉するため使節を派遣。
李鴻章の考え通り、イギリスは島を貸してほしいといいましたが、ことわりました。しかしなかなかイギリスは立ち退きません。結局、清に仲裁を頼みました。李鴻章が交渉してロシアも占領しないことを条件にイギリスが撤退しました。イギリスが上陸してから2年かかりました。
高宗と閔氏一族は清だけでなく、さらに進んだアメリカから軍事顧問を呼び寄せ士官学校を開設。近代的な軍隊を作りました。近代化に必要な費用は増税で補いました。
東学党の乱
1894年。全羅道で民衆の役人への抗議行動がきっかけになり。東学教徒が挙兵。大規模な反乱が起こりました。
全琫準たち中心メンバーが東学の信者だったので東学党の乱と呼ばれます。反乱に参加した者には東学の信者ではない農民や開放を求める賤民もいました。韓国では「東学農民運動」「東学農民革命」、北朝鮮では「甲午農民戦争」と呼ばれます。
閔氏一族は国が開港で得た利益を私的に流用し、両班は農民から税をしぼりとり高価な輸入品を買って贅沢をしていました。増税も重なり農民は飢え苦しんでいました。
反乱軍のリーダー全琫準は困窮する農民を救うため、不正な役人を罰し、平等な世の中の実現を目指すと呼びかけました。
高宗は朝鮮軍に反乱の鎮圧を命じます。ところが近代化されたはずの朝鮮軍はいまだに火縄銃で武装する反乱軍に敗退。
朝鮮軍だけでは反乱を鎮圧できないと考えた高宗は朝鮮に駐留する清の袁世凱に依頼。
清は軍を出動。日本にも連絡します。1885年の天津条約では朝鮮国内で清と日本が軍を動かすときはお互いに連絡することになっていたからです。
日本も公使館を保護するという目的で日本軍を派遣。朝鮮政府は、呼んでいない日本軍の上陸に抗議しますが日本軍は無視して漢城(ソウル)めがけて進軍。
朝鮮国内で清軍と日本軍が居座る様子をみた東学党の全琫準はさすがに危機感を覚えたのと、農繁期で逃げ出す者が増え戦い続けるのは難しいと判断。和睦を求めました。
このとき東学軍と朝廷の間で和平(全州和平)が成立したとされますが。当時の記録には残っていません。
反乱軍はもとの農村へ帰っていきました。
日清戦争
反乱が静まったので日本軍が朝鮮国内にいる理由はなくなりました。
しかし両軍とも撤退しません。
日本の場合、日本では清に対する反感が高まっていました。伊藤博文内閣は解散総選挙に追い込まれており、戦果がないまま帰ることはできませんでした。
引くに引けない日本政府は共同で反乱軍を鎮圧して朝鮮の近代化をすすめることを提案しますが、予想通り清が拒否。日本は単独で朝鮮の近代化を進めようとします。
高宗のもとには、日本の大鳥圭介が来て世界情勢の説明をして内政改革の必要性を訴えました。高宗は重臣たちに命じて大鳥圭介と内政改革の議論させました。
するとロシアが介入。清の李鴻章がロシアに仲裁を依頼して日本を撤退させようとしました。日本はロシアと敵対しているイギリスに仲裁を依頼。
イギリスは清に日本と共同で朝鮮の改革を進めてはどうかと提案しますが清は拒否しました。
日本は単独で朝鮮改革を進めることを決定。
6月21日。日本軍は突如として景福宮を包囲。王宮の守備隊は反撃を試みましたが、高宗から反撃の停止命令を受けます。日本軍の介入は高宗も了承済みだったようです。
日本軍は改革に抵抗する閔氏一族を追放。開化派を中心にした新政権を作りました。高宗は清から帰国していた興宣大院君を呼び出して新政権で改革を行うように指示しました。
清が宗主権を主張する朝鮮に対する日本の行いに清の光緒帝が激怒。日本との開戦を李鴻章に伝えました。
7月25日。日本軍と清軍との戦いが始まりました。
日本と清が戦っている間、朝鮮国内では日本主導で改革が行われていました。
政治制度を再編して内閣が誕生。
中国式の年号の廃止。
身分制度を解体。特権階級の両班や奴婢が廃止されました。
特権を失った両班階級からは反発が起こります。
9月。日本の目指す改革は興宣大院君の目指すものとは違いました。そこで興宣大院君は日本を排除して孫の永宣君を王にしようとしました。興宣大院君は東学教徒に密使を送って反乱を起こさせました。興宣大院君は清が勝つと思っていたので清の援助もあてにしていました。
しかし、日本軍は東学党の反乱を鎮圧。
清との戦いも日本の勝利で終わりました。
計画がばれた興宣大院君は日本公使館に呼び出され失脚しました。
1985年4月。日本と清は講和条約を結びました。
下関条約です。
下関条約では
清は朝鮮の独立を認める。
遼東半島・台湾を日本の領土にする。
清の港を開港する。
などが決められまいた。
朝鮮が望んだかどうかは別として、朝鮮は建国以来初めて中国の臣下ではなくなり独立国になりました。
清の使者を出迎えるための施設・慕華館と迎恩門が取り壊され、跡地に独立門が建てられました。
迎恩門は清の使者に王が三跪九叩頭の礼をする場所でした。守礼門みたいな施設です。
独立門は清からの独立を記念して建てられたものですが、現在の韓国では日本からの独立を記念していると信じている人が多いようです。
日清戦争の後。ロシアがフランスとドイツを味方にして日本に圧力をかけ、遼東半島を放棄させました。(三国干渉)
明成王后の暗殺(乙未事変)
朝鮮半島では日本の影響力が衰え、ロシアの力が強くなりました。
明成王后はロシアに接近。ロシアの援助で日本のもとで行っていた改革を廃止してしまいました。
明成王后と閔氏一族は訓練隊を解散させることにしました。訓練隊は井上馨が全権公使の時代に作った親衛隊です。このころは三浦梧楼が全権公使になっていました。
8月20日。ここで復権を狙う興宣大院君とその仲間が日本軍、朝鮮軍、朝鮮人民と協力して王宮を襲撃。明成王后と閔氏派を殺害しました。
8月22日。高宗は明成王后の廃妃を発表しました。
王妃の暗殺事件に日本兵が関わっていたことから日本は非難を浴びます。日本政府は三浦梧楼らを取り調べますが、証拠不十分で釈放しました。
高宗は甥の李埈鎔が主犯だと信じていたようです。李埈鎔は興宣大院君に担がれて王位を狙っていたからです。李埈鎔は事件後に出国して日本に向かいました。高宗は李埈鎔の帰国を許しませんでした。
興宣大院君が執政になり親露派を追放。開化派の金弘集が総理大臣となり改革が進められました。税制改革、小学校の設置、太陽暦の採用、断髪令などです。
ところが金弘集内閣の改革は保守的な人々から反発を受けます。李範普はアメリカの助けで金弘集を暗殺しようとしますが失敗、ロシアの助けを借りて政権を取ろうとしました。
高宗の露館播遷(露館播遷)
朝鮮国内ではロシアの支援を受けた両班層の反乱が起こり、宮殿の守りが手薄になりました。
乙未事変で失脚した李完用はロシア兵とともに宮殿に侵入。日本が高宗を廃しようとしていると伝え、高宗と世子(純宗)を連れ出してロシア公使館へ移しました。
高宗の名で新しい内閣人事が発表されました。旧閔氏派やロシア派の集まりでした。
高宗は1年以上ロシア大使館で暮らしました。これを露館播遷(ろかんはせん)といいます。韓国では「露館播遷」ともいいます。「俄」は清の言葉でロシアを意味する「俄羅斯」からきています。
播遷は「王がさすらう」という意味。宣祖、仁祖などが播遷を行いました。
民衆は高宗がロシアに逃げたと思い、権威は失墜しました。
しかし罠に飛び込んだようなものでした。高宗保護の名目でロシアの支配が強まりました。高宗がロシア公使館にいる間、ロシアは朝鮮国内の資源開発権を獲得、アメリカ、フランスも開発権をえて外国資本で開発が始まりました。朝鮮国内の利権を外国に売り渡したのです。
高宗は清に対して下関条約に従って朝鮮を独立国と認めるように伝えます。
しかし清は「外国の公使館に居候する者を君主とは認めない」といわれ相手にされません。
清から独立、大韓帝国に改称
1897年2月20日。高宗は宮殿に戻りました。もとの景福宮ではなく、アメリカやロシア公使館に近い慶運宮でした。
改めて清に独立を求めようやく認められました。
高宗は臣下の勧めで国号を変えることにしました。「朝鮮」は明に決めてもらった名前です。独立国にふさわしい新しい名前が求められました。
国号は「大韓」に決まりました。「大韓帝国」の始まりです。略称は「韓国」ともいいます。
古代に三韓(もともとは馬韓(百済)、辰韓(新羅)、弁韓(伽耶)の意味。後に高句麗、百済、新羅の意味でも使われた)の地と呼ばれていたことに由来します。
10月12日。高宗は自らを皇帝と名乗り。大韓帝国初代皇帝になりました。
名実ともに清から独立を果たしました。でも名前を変えても国力が上がったわけではありません。みかけだけの帝国です。
日露戦争
朝鮮(韓国)国内で独立を喜び合っている最中、周辺では諸外国の争いが続いていました。
ロシアは清で起きた義和団の鎮圧を名目に清に出兵。満州を占領します。
ロシアは満州を支配下におき次に朝鮮半島を狙っていました。ロシアは冬でも凍らない港を求め南下していました。
大韓帝国は帝国とはいうもののロシアに対抗できる力はありません。
朝鮮半島がロシアに占領されると対馬海峡を挟んで目の前に大国ロシアが存在することになります。安全保障上、日本としてはどうしても避けたい出来事でした。日本は日英同盟を結んで対抗しようとしました。
満韓交換論
日本政府内にはロシアと戦うことに対する慎重論も多くロシアに妥協案を出しました。満州はロシアの利権を認めるが、韓国の利権は日本にあるというものです。それに対して、ロシアが出した提案は朝鮮半島を北緯39度線で分割するものでした。
このとき日本がロシア案を認めていれば今頃は中国北東部と北朝鮮はロシア領です。韓国には北朝鮮のような社会主義国ができていたかもしれません。
日露戦争
日本はロシア案を拒否。開戦に踏み切りました。
日本とロシアの戦争が起こりそうになると大韓帝国は中立を宣言。しかし日本やロシアだけでなくアメリカも認めません。
日本は日韓協約(第一次)を結び、韓国国内での日本軍の駐屯を認めさせました。
韓国国内では高宗や重臣たち親露派、開化派の親日派が対立していました。身分の高いものはロシアより、身分の低いもの・開国派は日本よりの立場をとっていました。
高宗はロシアに密使を送りましたが日本に発見されてしまいます。
朝鮮国内では東学党など日本に協力する者も現れてロシアへの破壊工作を行いました。
日本とロシアの戦争は日本が勝ちました。ロシアは朝鮮半島における日本の優越権をみとめることになり、朝鮮半島から手を引くことになりました。
第二次日韓協約(乙巳条約)で外交権を失う
韓国には全権大使として伊藤博文が渡り、第二次日韓協約(乙巳条約)を結ぶことになりました。
日本はイギリスと第二次日英同盟、アメリカと桂・タフト条約を交わしました。イギリスのインド支配、アメリカのフィリピン支配を認めるかわりに日本の朝鮮支配をみとめさせました。
この協約は韓国の外交を日本が監督するというものでした。高宗としてはそう簡単に認める訳にはいきません。
高宗は先延ばしにしようとしましたが、それも難しいとわかると交渉に応じることにしました。交渉を担当した重臣たちは伊藤博文に押し切られ、8人の重臣たちの5人が調印に賛成し3人が反対。第二次日韓協約が結ばれました。
こうして韓国は外交権を失ってしまいます。
このとき賛成した李完用ら5人の重臣は「五賊大臣」と呼ばれ、弾劾を受けてしまいます。現在でも国賊扱いになってます。
漢城に統監府が置かれ、総監に伊藤博文が就任しました。
1907年。高宗はオランダのハーグで開かれる万国平和会議に密使を送り、第二次日韓協約の無効を訴えようとします。
しかし外交権を失っている韓国の参加は認められませんでした。逆に密使を送ったことがばれて高宗は追い詰められます。
7月18日。高宗は皇太子の李坧に代理聴政を命じました。しかし伊藤博文は代理聴政を認めません。
高宗は、伊藤博文の意を受けた大臣の李完用らに迫られて譲位しました。太皇帝となりました。
1919年。67歳で亡くなりました。
もともと高齢だったのですが、高宗の死はニュースになりました。服毒自殺した、毒殺されたなどの噂が飛び交いました。
まとめ:高宗の評価
高宗の一般的な評価は「激変期に愚かな対応をとって国を滅ぼし国民を苦しませた王」というもの。主体的に動くことはなく、周囲に流されるままに行動して事態を悪化ました。
確かに世界の動きがあまりにも過酷すぎて1人の力でどうにかなるものではなかったかもしれません。
いい悪いの問題ではなく。世界の大国が植民地支配を目指していた時代。世界は変化しているのに古い封建時代のまま変化に対応できなかったのは臣下や両班も含めた朝鮮の支配層全体の問題です。他人に頼って目先の問題を解決しようとするのは朝鮮外交の特徴ですが、激動の時代ではそれが通じませんでした。よけいに事態を悪化させるだけでした。
近年の韓国では好意的な評価もあるようですが同情的・感情的なものです。ひとりの人間としては気の毒な面はあっても「統治者としての評価は低い」のが高宗なのかもしれません。
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