睿宗(イェジョン)は李氏朝鮮大8代国王。
世祖・首陽大君の次男です。在位期間が2年足らずと短い王でした。
その間にはナム・イの反乱事件なども起きています。
睿宗が若くして亡くなったせいで、後の仁粋大妃が力を持つ原因になります。
史実の睿宗(イェジョン)はどんな人物だったのか紹介します。
睿宗(イェジョン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1450年2月12日
没年月日:1469年12月31日
名前:李晄(イ・ファン、り・こう)
称号:睿宗(イェジョン、えいそう)
父:世祖
母:貞熹王后尹氏
妻:
章順王后韓氏(韓明澮の娘)
安順王后韓氏(韓伯倫の娘)
側室:
恭嬪崔氏
尚宮奇氏
子供
長男:仁城大君(母:章順王后)早世
次男:斉安大君(母:安順王后)
三男:早世
長女:顕粛公主(母:安順王后)
次女:早世
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の8代国王です。
日本では室町時代の人になります。
おいたち
1450年。首陽大君の次男として産まれました。
首陽大君が即位した後、海陽大君の称号を与えられました。
1457年。兄・懿敬世子が若くしてなくなったため、世子になりました。
1460年。韓明澮(ハン・ミョンフェ)の娘を世子嬪として迎えます。
1461年。世子嬪韓氏は仁城大君を産んだあと亡くなります。世子嬪韓氏には後に章順王后の称号が与えられました。
1463年。喪があけると、側室だった韓氏(韓伯倫の娘)を世子嬪にします。
1468年9月。病床の世祖から譲位され、その日のうちに国王として即位しました。
世祖は翌日亡くなりました。
即位したときには18歳でしたが、母・貞熹王后による垂簾政治が行われました。
南怡の謀叛事件
南怡(ナム・イ)は亀城君とともに李施愛の乱の鎮圧で功績をあげた将軍でした。世祖は亀城君、南怡をとりたてて世子だった睿宗の補佐にしようとしました。
亀城君は世宗の孫。
南怡は世祖の娘・貞善公主の孫でした。
争いのもとになるため王族は要職につけないのが慣習になっていたのですが、27歳の亀城君は領議政に、28歳の南怡は兵曹判書になっていました。
もっとも世祖自身も王族ながら領議政になったので能力があれば王族でもいいと思っていたのでしょう。
ところが、睿宗は世子時代からなにかと比較されてきた亀城君や南怡を嫌っていました。
韓明澮ら重臣も自分たちの権力を脅かす存在だと考えていました。
南怡の後ろ盾となっていた世祖がいなくなると、睿宗は南怡を兼司僕将に降格しました。
そのせいで不満がたまっていたのでしょうか。南怡は同僚の柳子光に世祖時代を懐かしんだあとふと漏らしてしまいます。「奸臣が反乱をおこすかもしれない」といいました。驚いた柳子光が誰が反乱を起こすのかと聞いたところ、「金国光は私腹を肥やしている、盧思慎は無能なのに要職についている」と名前をあげました。
その言葉を聞いた柳子光は怖くなって睿宗に南怡が謀反を企てていると報告しました。
南怡は捕らえられ、厳しい尋問の末に重臣を殺害することを自供してしまいます。自供の中には韓明澮も含まれていました。
南怡と領議政・康純達の他、30人近い武官が処刑されました。
南怡の反乱については韓明澮らの陰謀だとする説もあります。現代では南怡は神格化され被害者ということになっています。
南怡がどの程度本気で謀反を起こすつもりだったのかはわかりません。世祖なきあと、睿宗にに取り入り国を動かそうとする韓明澮たちに反感を持っていたのでしょう。ふと漏らした不満が謀反の口実に使われてしまったのは不運でした。
亀城君も1469年1月。父・臨瀛大君の死の直前に領議政を退きました。睿宗をとりまく重臣たちの圧力があったものと思われます。
睿宗が即位して1年あまり。その間、世祖が作り始めていた「経国大典」を完成させました。
睿宗は病に倒れます。敗血症だといわれます。
睿宗死後の 後継者選び
睿宗が亡くなったその日のうちに、義経世子の次男・者山大君(チャサンテグン)が睿宗の養子となり王位につきました。
睿宗には斎安大君がいましたが、4歳と幼なかったので候補から外されました。
義経世子には長男の月山大君がいましたが、病弱だというので候補から外されました。病弱というよりも、者山大君の義父が韓明澮だったことが大きな理由だと考えられています。
者山大君は成宗となりました。成宗の母親が後に宮中で権力を持つ仁粋大妃になります。
テレビドラマの睿宗
雪中梅 MBC 1984年 演:ハン・ヨウンス
ハンミョンフェ KBS 1994年 演:ビョン・ソンヒョン
王と妃 KBS 1998年 演:イ・ヨンホ
王と私 SBS 2007年 演:ユ・ドンヒョク
インス大妃 JTBC 2011年 演:ノ・ヨンハク
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