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趙載浩(チョ・ジェホ) 思悼世子(イ・ソン)と関わり命を落とした少論穏健派重臣

5 李氏朝鮮の重臣

韓国時代劇「秘密の扉」に登場する趙載浩(チョ・ジェホ)は実在の人物。

主人公のイ・ソン(思悼世子)に理解をみせる穏健派の重臣として登場します。

歴史上の趙載浩も、英祖や思悼世子に協力的な人物でした。しかし、派閥争いの中で命を落とします。

思悼世子と関わりすぎたことが命を落とす原因になったようです。

史実の趙載浩はどんな人物だったのか紹介します。

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趙載浩(チョ・ジェホ)の史実

生年月日:1702年
没年月日:1762年
名前:趙載浩(チョ・ジェホ)
本貫:豊壤趙氏
派閥:少論派
父:趙文命
母:安東金氏
妻:
妹:賢嬪趙氏、弟:趙顯命
子供:閔弘燮

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗~21代英祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

妹は賢嬪趙氏。賢嬪趙氏は、英祖の長男・孝章世子の妃です。賢嬪趙氏は大韓帝国時代に追尊され孝純王后とよばれることもあります。

正祖との意外な関係

正祖は孝章世子と賢嬪趙氏の養子になったので形の上では趙載浩は正祖の叔父になります。ただし、正祖が産まれたのは孝章世子と賢嬪趙氏の死後。本人同士は面識がありません。趙載浩が正祖の叔父になったのも、趙載浩の死後。生前の趙載浩はまさか正祖の叔父になるとは思わなかったでしょう。

少論派の穏健派

父・趙文命は少論派の重臣。少論派の中でも、強硬な李麟佐(イ・インジャ)とは違い、穏健派でした。李麟佐の乱を治めるのに貢献して、英祖の蕩平策に協力してます。

母方の親戚には老論派の金昌集(キム・チャンチプ)がいます。

妹が英祖の長男・孝章世子の妃になるなど。趙載浩の一族は少論派ながらも英祖に協力的でした。

弟の趙顯命は左議政を務めたこともあります。

趙載浩自身も右議政と板中枢府を務めました。

老論派との派閥争いの中で、辞職届を出して郷里に隠居することがよくありました。

思悼世子の平壌行きが問題に

1761年。思悼世子(イ・ソン)が、王に無断で平安道平壌に行く事件が発生しました。思悼世子が平壌で会ったのは隠居中だった趙載浩(チョ・ジェホ)でした。

思悼世子をめぐっては当時、義父・洪鳳漢ら外戚勢力と、非外戚勢力が対立していました。思悼世子は度々問題行動を起こすので、外戚勢力も世子の行動には目を光らせていました。問題が起これば自分たちの身も危なくなるからです。

思悼世子は老論派の外戚勢力、洪鳳漢、洪麟漢。
老論派の非外戚勢力、貞純王妃の父・金漢耉(キム・ハング)、金尙魯(キム・サンノ)、洪啓禧(ホン・ゲヒ)たち、両方から行動をみはられていました。

孤立していた思悼世子は趙載浩に助けを求めるために平壌に会いにいったと言われています。

さらに思悼世子の住んでいた宮殿の地下に隠し部屋があることが発覚。そこに軍旗を隠し持っていたことがわかりました。

謀反を疑われても仕方のない状況です。

洪鳳漢は世子の行動を隠そうとしました。しかし洪鳳漢と対立していた貞純王妃の兄・金亀柱(キム・キジュ)はこの件を英祖に報告。

英祖は激怒しますが、趙載浩ら重臣を処分することで事態を治めようとしました。

趙載浩は家の回りに策をたてられ幽閉状態になりました。しかしその後も処分をもとめる意見はおさまらず。死刑になりました。

 

テレビドラマ
秘密の扉 2014 SBS 演:キム・スンウク

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