慎郡王 允禧(いんき)は18世紀に生きた清朝の皇族。
第4代皇帝 康煕帝 の第21皇子。
康煕帝・雍正帝・乾隆帝の時代を生きました。
康煕帝の時代は幼かったので皇子達の後継者争いには加わらず。その後も政治には無関心で書画や詩など芸術活動に没頭しました。
中国ドラマ「宮廷の諍い女」の第21皇子 慎貝勒 のモデルになった人物です。
歴史上の慎郡王 允禧はどのような人物だったのか紹介します。
慎郡王 允禧 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1711年2月27日
没年月日:1758年6月26日
享年:47
姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:胤禧→允禧(いんき、ユンヒ)
字:謙齋
號:紫噊
称号:固山貝子(グサイ ベイズ)→多羅貝勒(ドロイ ベイレ)→多羅慎郡王
旗籍:正藍旗
父:康煕帝(こうきてい)
母:熙嬪陳氏
正室:嫡福普・祖佳氏
側室:側福普・趙氏、吳氏、関氏
子供
弘昴、弘旬
他に女子3人
永珹が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝から第5代皇帝・雍正帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
康煕帝の時代
康熙50年(1711年)。1月11日誕生。
康熙皇帝の31番目の子供。第21皇子です。
生母は庶妃 陳氏
陳氏は康煕帝の後宮にいましたが側室として正式に冊封されたことはなく「庶妃」と呼ばれていました。
雍正帝の時代に 「皇考貴人」、乾隆帝の時代に「熙嬪」になり。乾隆2年に死去。享年48歲。
胤禧は幼いころから頭がよく学問好きでした。
康熙帝の治世の後半。激しい皇位闘いがありました。
でも胤禧は幼かったため皇位を争う資格も可能性もありませんでした。
康熙59年(1720年)。10歳から行幸に同行し、2年連続で行幸に参加しました。
康熙61年11月13日(1722年12月20日)
康熙帝が亡くなりました。享年68。
このとき胤禧は12歳でした。
雍正帝の時代
兄・雍正帝が即位しました。
雍正帝の命令で名前を允禧に変えました。
雍正8年(1730年)。固山貝子、その後 多羅貝勒に任命されました。
このとき19歲。
雍正11年(1733年)。鑲紅旗満洲都統事務に任命されました。
雍正13年(1735年)。慎郡王になりました。
正黄旗漢軍都統に任命されました。
このとき24歲。
この年、雍正帝が崩御。乾隆帝が即位。
乾隆帝の時代
乾隆4年(1739年)八月,奉命在內廷行走。
乾隆5年(1740年)。監理正白旗滿洲都統事務に任命されました。
乾隆7年(1742年)。大学士 鄂爾泰充と共同で 玉牒館総裁に就任。玉牒館は皇家一族の系譜を作る組織。臨時に作られる組織なので、役目を終えたら解散します。
乾隆21年(1756年)。宗人府事を辞任。
乾隆23年(1758年)5月21。死去。享年48歲。
政治よりも芸術に没頭
允禧は質素倹約を大切にし、郡王でありながら礼儀正しく学問にも熱心でした。
詩画の才能は康煕帝の子どもの中でも抜き出ていました。自ら「紫琼道人」と名乗り「春浮居士」とも呼ばれました。『花間堂』や『紫琼厳詩草』などの著作があります。
彼は若いころから名誉や利益に無関心で政治にも関わらず、芸術活動に専念していました。 彼は書画に優れ、特に山水画や花卉画(花や草だけを題材にした絵)が得意。精密な筆使いには高い評価がありました。
山水画では倪瓚から指導を受け「我が国で一番」と評価されました。
また詩も詠むことができ、乾隆帝は彼の詩を高く評価しました。 彼の詩には「花間堂詩鈔」「紫瓊崖詩鈔」などが収められています。
慎郡王 允禧は兄たちと争えるい年齢でもなく母方の後ろ盾もありません。若い頃に後継者争いに敗れた皇子たちが粛清されるのを見ていた允禧にとっては。政治的な野心を持たず芸術活動に打ち込むことが生き延びる道だったのかも知れません。
テレビドラマ
宮廷の諍い女 2012年、中国 演:康福震 役名:慎貝勒
宮鎖珠簾 2012、中国 演:陳暁
糊塗県令鄭板橋 2016年、中国 演:胡亜捷
瓔珞 2018年、中国 演:張彬
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