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十四皇子 胤禵 雍正帝の同母弟は仲が悪かった

康煕帝の皇子 1.3 清の皇子・男の皇族

 

愛新覚羅・胤禵は清朝の第4代皇帝・康熙帝の第十四皇子。

十四阿哥とも書きます。

他の皇子とともに第八皇子胤禩を次の皇太子に指示していました。

胤禩が康煕帝の信頼を失ったあとは、周囲から後継者候補と考えられるようになります。

雍正帝の同母弟です。でもあまり仲はよくありません。

雍正帝の時代には爵位を奪われたり幽閉されたりしました。

胤禩はどのような人物だったのか紹介します。

 

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胤禵 の史実

生年月日:1688年2月10日
没年月日:1755年2月16日
享年:67

姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:胤禵(いんてい、満洲語:インティ) →允禵
称号:多羅恂郡王

父:康煕帝(こうきてい)
母:恵妃 烏雅(ウヤ)氏(追尊:孝恭仁皇后)

兄弟:第四皇子 胤禛(雍正帝)、胤祚(早世)
姉妹:皇七女、固倫温憲公主、皇十二女

正室:嫡福普・完顏氏
側室:側福普・舒舒覚羅氏
側福普・伊爾根覺羅
妾・卓甲氏、呉氏

子供:
男子 弘旺 母:張氏
女子 不明 母:毛氏
養子 弘時

胤禵 が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝から6代・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

母の身分は低かった

1688年(康煕27年)2月10日に生まれました。

胤禵は康熙帝の十四男です。
清朝では「十四阿哥」とも呼ばれました。阿哥は満洲語で王子・息子の意味。清朝では「皇子」の意味で使われました。

父は康煕帝。
母は側室の恵妃 烏雅氏

同母兄に第四皇子 胤禛(後の雍正帝)がいます。
同母姉に固倫温憲公主がいます。

八阿哥 胤禩に味方する

胤禵たちが物心ついたときにはすでに二阿哥 胤礽(いんじょう)が皇太子になっていました。

でも十四阿哥 胤禵(いんてい)は九阿哥 胤禟(いんとう)、十阿哥 胤䄉(いんが)といっしょに八阿哥 胤禩(いんし)を支持していました。

1708年(康煕47年)。康煕帝が皇太子・胤礽を廃しました。

すると皇子たちが皇太子の座を巡って争い始めます。

そして大阿哥 胤禔と八阿哥 胤禩の支持者が皇太子を殺そうとしていたことがわかりました。康煕帝は怒って胤禩を処分しようとしました。

八阿哥 胤禩は、親しくしている占い師から「廃太子を殺しましょう」と言われて怒って追い返した。という話を十四阿哥 胤禵は胤禩から聞いたことがありました。

胤禵たち八阿哥支持派の皇子たちはひざまずいて「八阿哥にそのような意図はありません。私達は彼を守りたいと思っています」と康煕帝に懇願しました。

康煕帝は「そのように大事なことを皇帝に言わず皇子だけが知っているとは何事か」とさらに怒ります。

康煕帝は短剣を胤禵に向け、殺しそうな勢いでした。

でも皇子たちの懇願がとどいたのでしょうか?胤禵本人が廃太子を殺そうとしたという証拠もありません。

大阿哥 胤禔は爵位を取り上げられ自宅謹慎になりましたが、八阿哥 胤禩への処分は爵位の返上だけですみました。

1709年(康煕48年)。胤禵は固山貝子(グサイベイセ)の称号を与えられました。和碩親王・多羅郡王・多羅貝勒に継ぐ4番めに高い爵位です。

ジュンガルとの戦いで存在感を見せる

1717年(康煕56年)。ジュンガル帝国がチベットのラサを占領。

1718年(康煕57年)。チベットの救援要請をうけて康煕帝は清軍を派遣しました。ところが、清軍はチベットのサルウィーン川の戦いでジュンガル軍に敗退。

そこで康煕帝は胤禵を 撫遠大将軍 に任命し30万の大軍を与えてジュンガルの討伐に向かわせました。

このとき康煕帝は出陣する兵隊たちの士気をあげるために「皇子は余の代理である」と言いました。十四阿哥が率いる兵は皇帝直属の満洲黄旗からなる軍団。

兵たちの士気は大いに盛りあがりました。

軍団総司令=皇太子ではありません。でも重臣たちの中には「康煕帝は十四阿哥を後継者に決めたのか?」と考える人もでました。

胤禵の率いる清軍はジュンガルの指導者ツェワン・ラブタンと戦いました。
実際には胤禵は前線には出ず、配下の将軍たちが軍を動かしていました。

1720年2月(康煕59年)。胤禵は副官のガルビとヤンシンにラサを奪取するように命じました。胤禵は西寧に残り、モンゴルの同盟国と協力して、ダライラマ七世をラサのポタラ宮殿まで護衛しました。

戦で手柄をたてた十四阿哥胤禵の評判はますます上がりました。

1720年9月24日。胤禵はラサを占領。ダライラマ七世をラサのポタラ宮殿に戻しました。

その後もジュンガルとの戦いは続きトルファンなどを攻め落としました。

1722年(康煕61年)。康煕帝が死去。

父・康煕帝が後継者に指名したのは兄の胤禛でした。

胤禛は遠征中の胤禵に使者を派遣。軍の指揮は年羹堯に任せて胤禵は戻るようにと指示しました。胤禵は急いで首都・北京に戻りました。

 

雍正帝の時代

 

胤禵が都に戻った時、四阿哥 胤禛(雍正帝)はすでに皇帝になっていました。

ところが胤禵は兄弟のつもりで雍正帝に会いました。臣下が皇帝に挨拶するときは拝伏(ひざまづいて頭を下げる、いわゆる土下座)します。ところが胤禵は拝伏しませんでした。

雍正帝は胤禵に拝伏を強制します。胤禵は「大将軍の凱旋に対してなんて仕打ちだ」と怒り。雍正帝も「皇帝に対して無礼だ」と怒ります。

すでに兄弟の仲とはいえ、皇帝と臣下になってしまえばかつてのような付き合いはできません。しかも2人はもともと仲が悪いのです。

中華王朝では皇帝の本名に使われている漢字を使ってはいけません。雍正帝は兄弟たちに「胤」の字を使うのを禁止しました。同母弟の胤禵も例外ではありません。允禵(いんてい)と名乗ることになります。

1723年(雍正元年)。雍正帝の命令で馬蘭峪の東にある湯山に移転。康煕帝の墓を守りました。允禵は多羅郡王に昇格しました。

しかし雍正帝の即位にはかつての八皇子派や十四皇子たちは不満でした。雍正帝の即位後からさまざまな噂が流れます。雍正帝は十四阿哥 允禵や彼を支持する皇子たちを 皇位を脅かす存在と考えました。 

 允禵を担いで謀反を起こそうという者も現れたので雍正帝も放置するわけに行きません。

1723年(雍正3年)。多羅郡王から降格。固山貝子になりました。

1724年(雍正4年)。固山貝子の地位も剥奪され、景山壽皇殿に幽閉されました。

 

乾隆帝の時代

 

1736年(‎乾隆元年) 雍正帝の四男・弘暦が即位しました。

允禵は幽閉から開放され皇族としての待遇を受けるようになりました。

1737年(乾隆2年) 允禵は 奉恩輔國公になりました。

1747年(乾隆12年) 允禵は 多羅貝勒になりました。

紫禁城内での騎馬を許されました。

1748年(乾隆13年) 多羅恂郡王になりました。

1755年(乾隆20年) 死去。

 

テレビドラマ

 

宮廷女官 若曦 2011、中国 演:林更新
宮廷の茗薇 2019、中国 演:辛雲来

 

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