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愛新覚羅 溥傑・最後の皇帝 溥儀の弟の生涯

愛新覚羅溥傑 1.3 清の皇子・男の皇族
愛新覚羅溥傑

愛新覚羅 溥傑(あいしんかくら・ふけつ)は清朝最後の皇帝 溥儀の同母弟。

清朝の皇族・醇親王 載灃の息子です。

兄の溥儀が清朝の皇帝になったので、溥傑が醇親王の跡継ぎになりました。

ところが清朝が滅亡。兄・溥儀が皇帝をつとめる満洲国で軍人になりました。

日本の華族の娘・嵯峨浩と結婚しています。

終戦時にソビエトや中国の捕虜になり。戦後は中国で暮らしました。

愛新覚羅 溥傑とはどのような人物だったのか紹介します。

 

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愛新覚羅 溥傑 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1907年4月16日
没年月日:1994年2月28日
享年:86歳

姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:溥傑(ふけつ、プギェ)
漢名:金秉藩

父:醇親王 載灃
母:瓜爾佳 幼蘭

妻:
唐石霞
嵯峨浩

子供:慧生、嫮生

愛新覚羅溥傑は清朝末期、中華民国、満洲国、中華人民共和国を生きた人物。

日本では明治から平成になります。

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おいたち

光緖33年3月4日(1907年4月16日)。北京で生まれました。

父は醇親王(じゅんしんのう) 載灃(ヅァイフェン、さいほう)
 第11代皇帝・光緒帝の弟です。

母は瓜爾佳(グワルギャ) 幼蘭(ようらん)
 幼蘭の父は光緒帝の従弟。西太后の腹心だった栄禄です。

溥儀の1歳2ヶ月違いの弟です。

1908年12月2日。溥儀が第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位。
3歳(数え歳)で皇帝になりました。

醇親王家の跡継ぎ

兄の溥儀が幼い頃に皇帝になったため。溥傑は醇親王家の世子(親王後継者)になりました。

宣統帝の父・醇親王が監国摂政王になって政治を行いました。

1911年10月10日。辛亥革命が起こりました。

1912年2月12日。宣統帝 溥儀が退位。清朝は滅亡しました。

しかし中華民国政府との約束により、清朝の皇室は残されることになり。溥儀は紫禁城で暮らしました。

民国時代・唐石霞との結婚生活

1924年。17歳のとき、満洲貴族の唐石霞(とう・せきか)と結婚。
満洲鑲紅旗の他塔喇(タタラ)氏の出身。端康太妃(光緒帝の側室)の姪です。でも二人の仲はよくありませんでした。

その年。中華民国内でクーデター(北京政変)が起こり。中国は内乱になりました。北京を占領した馮玉祥たちは北京を占領した「清室優待条件」を廃止。清朝皇室は紫禁城を追い出されてしまいます。

溥傑は北京で暮らしました。

引き続き内乱は続いています。

1927年。妻・唐石霞が奉天軍閥を率いる張学良と親密な関係になり、密かに会うようになりました。

1928年。蒋介石の国民革命軍が北京を目指して進軍。

載灃の家族は蒋介石の軍が来る前に北京を脱出。天津租界に避難しました。

唐石霞は溥傑に東北講武堂(奉天軍閥の陸軍学校)への入学を勧めました。張学良の入れ知恵があったと思われます。

溥傑は密かに奉天に向かいました。でも、それを阻止しようとする溥儀が通報。大連で日本の警察に捕まり天津に送り返されました。

この事件で溥儀と唐石霞が対立。溥傑と唐石霞の関係も修復不可能なほど悪化して二人は別居しました。

 

日本に留学

兄・溥儀は溥傑を日本に留学させ、日本の軍事を学ばせることにしました。

1929年3月(昭和4年)。溥傑は婉容皇后の弟・潤麒と共に来日。日本語を学んだ後に学習院高等科に入学しました。

溥傑の日本留学で唐石霞との関係も自然消滅しました。

1932年(大同元年)。兄の溥儀が満洲国執政に就任。

1933年(昭和8年)3月。学習院高等科卒業。
9月。陸軍士官学校本科入学。
1935年(昭和10年)7月。陸軍士官学校卒業。
9月。満洲国陸軍に入隊しました。

満洲国皇帝 溥儀は弟の溥傑を日本の皇族と結婚させたいと考えました。でも日本政府は皇族と外国人との結婚には反対。

そこで関東軍の主導で華族の嵯峨実勝(さが さねとう)の娘・嵯峨浩(さが ひろ)が選ばれました。昭和天皇の遠戚にあたります。

1937年(昭和12年)4月3日。溥傑と嵯峨浩は東京で結婚式をあげました。

9月。溥傑が先に満洲国の首都・新京に移りました。
10月。浩が新京に移りました。

政略結婚でしたが、二人の夫婦仲は良好でした。

1938年(康徳5年)。長女・慧生が誕生。

1938年(康徳5年)10月。溥傑は満洲国駐日大使館の武官を命じられて東京に赴任。

1939年(康徳6年)11月。奉天の歩兵将校軍官学校教官に任命されて、教官になります。

1940年(康徳7年)。次女・嫮生が誕生しました。

1941年(康徳8年)。新京の満州国軍官学校で教師になります。

1941年(康徳8年)12月。日本とアメリカが開戦。太平洋戦争が始まりました。

満洲国内では国民党や共産党のゲリラ活動はありましたが。大規模な戦いはありませんでした。溥傑は前線にでる事はありませんでした。

 

満洲国解体・ソ連の捕虜になる

1945年(康徳12年)8月8日。ヤルタ会談の密約でソ連の対日参戦が決定。
ソビエトが日本との日ソ中立条約を破棄。

しばらくしてソビエト軍が満洲国に攻めてきました。戦力的に貧弱な満洲軍、関東軍はあっさりとソビエト軍に敗北。

溥儀と溥傑、満洲国首脳部は新京を放棄して通化省臨江県の大栗子に避難しました。

8月15日。日本が降伏。

8月17日。満洲国首脳部は満洲国解体を決定。

8月18日。溥儀が満洲国解体を発表。皇帝の座を退きました。

溥儀と溥傑はソビエトに捕まるのを避けるため日本に亡命を決意。奉天の飛行場に向かったところ、ソビエト軍が攻めてきて捕虜になりってソビエトに送られ強制収容所に入れられました。

妻の浩たちは飛行機に乗れず陸路で日本に向かうことになりましたが。途中で八路軍(中国共産党軍)に捕まり捕虜になりその後釈放。日本に戻りました。

 

中国での暮らし

1950年。溥儀と溥傑は中華人民共和国に送られました。

溥傑たちは「戦犯」扱いされ撫順戦犯管理所とハルビンの戦犯収容所に収容され。共産党による「再教育」という名の洗脳を受けました。

 

娘の慧生が無理心中

1954年。日本で暮らしている長女・慧生が中華人民共和国・首相の周恩来に「父に会いたい」という手紙を送り。それを見た周恩来が溥傑と妻子の文通を許可。

溥傑は何度か妻子と手紙のやり取りをしました。

ところが1957年12月。学習院大学に通っていた長女の慧生が交際していた大久保武道と伊豆半島天城山で無理心中しました。この事件は「天城山心中」として当時話題になりました。

慧生は大久保武道と結婚したいと考えていましたが、母の浩は反対していました。悩んだ慧生は、中国で囚われている溥傑に手紙を送って相談したのですが。溥傑は一緒に暮らしている「母に従いなさい」と返事しました。

当時の溥傑には慧生がそこまで思い悩んでいたとはわからず。慧生の死後「あのとき二人の結婚を同意していれば」と悔やんだといいます。

釈放後の暮らし

1960年。溥傑は釈放されて北京に移り住みました。

1961年。妻の浩と再開。

中国で文化大革命が起こりました。

溥傑の家に紅衛兵(毛沢東を支持する過激派)が押し入り威嚇を受けます。浩が日本から持ち込んだカメラが紅衛兵に奪われました。

1967年。兄の溥儀が北京の病院で死去。

溥傑は文化大革命の混乱を生き延びました。

その後は、全国人民代表大会常務委員会委員(共産党の議員みたいなもの)や民族委員会の副主任を務めました。

その後は何度も日本と中国の間を往復。日中友好のために尽力しました。

1987年6月20日。妻の浩が北京で死去。

1989年。昭和天皇崩御時には北京の日本大使館に弔問に訪れました。

1992年。訪中した明仁天皇(現在の上皇陛下)と会っています。

1993年ごろから体調を崩し入院。

1994年。北京で死去。

溥傑の遺言により遺骨は妻・浩、娘・慧生の遺骨とともに日本と中国の両方に分けられました。日本では浩の祖父・中山忠光が主祭神として祀られている中山神社(山口県下関市)の愛新覚羅社に祀られ。中国では中国妙峰山で散骨されました。

 

映画・ドラマ

映画

ラストエンペラー(The last Emperor) 1987年、伊・中・英・仏・米 合作。 演:ファン・グァン

ドラマ

流転の王妃・最後の皇弟 2003年、日本 演:竹野内豊

 

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