履端親王 永珹 乾隆帝の第四皇子は皇帝候補から脱落

大清1.8 清・金

履端親王・永璜(えいせい)は清朝の第6代皇帝・乾隆帝けんりゅうていの第四皇子です。

四阿哥ともよばれます。阿哥は男の兄弟という意味です。

母は淑嘉皇貴妃 金佳氏(生前は 淑嘉貴妃 金氏)。

ドラマでは悪役になることが多い金氏ですが、歴史上の淑嘉皇妃 金氏は結婚式の寵愛を集めた妃嬪の一人でした。でも次期皇帝候補として有力なのは淑嘉皇妃 金氏の息子ではなく、第五皇子・永琪でした。

母の寵愛の深さと皇子の評価は別なのです。

永珹はあまり有力な皇位後継者候補にはならず、親王家を継ぐことになります。

ドラマでは母の活躍?に比べると息子の永璜はあまり目立ちませんが、「如懿傳」では王位を狙う野心的な人物として描かれます。

史実の履端親王・永璜 はどんな人物だったのか紹介します。

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履郡王・永珹 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1739年2月21日
没年月日:1777年4月5日
享年:38

姓:愛新覚羅(あいしんかくら、満洲語:アイシンギョロ)
名:永珹(えいせい)
称号:履端親王
旗籍:正藍旗
父:乾隆帝(けんりゅうてい)
母:淑嘉皇貴妃 金佳氏

同母兄弟:第8皇子・永璇(えいせん)、皇9皇子(早世)、第11皇子・永瑆

正室:嫡福普・鈕祜祿氏 福增額の娘。
側室:側福普・完顔氏
侍女:高氏
妾:夏氏、張氏

子供
履郡王・錦恵、母:側福普・完顔氏
他に男子4人、女子3人

永珹が生きたのは清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

1739年(乾隆4年)1月14日に生まれました。

父は乾隆帝。

乾隆帝の第四皇子です。

母は側室の嘉嬪 金氏。金氏にとっては初の男子でした。

1741年(乾隆6年)2月。皇太后の命令で金氏は嘉妃に昇格しました。

その年。祖父(金氏の父)金三保は金氏が嘉妃になったのを感謝して書状を朝廷に提出しました。

1746年(乾隆11年)。同母弟の永璇(えいせん)が誕生しました。

1755年(乾隆20年)。母の嘉貴妃 金氏が死去。

1763年(乾隆28年)9月。和碩履懿親王・允祹(康煕帝の12男)が77歳で他界。親王の世子(跡継ぎ)弘昆は既に他界していました。

そこで11月。永珹が 和碩履親王 家を引き継ぎました。

「和碩履親王」とは清朝の世襲制の爵位です。允祹が初代の和碩履懿親王。でも世代がかわると1ランク下がります。生前の永珹の爵位は「履郡王」です。

1777年(乾隆42年)死去。享年39。

乾隆帝は同母弟で第8皇子の永璇を派遣。母、嘉妃金氏の兄・金簡とともに葬儀を行わせました。死後、履親王の称号が贈られました。

和碩履親王の地位は長男の綿恵が引き継ぎました。

永珹はそれほど長く生きたとは言えませんが。弟の永璇は86歳まで生きました。乾隆帝の息子の中では最も長寿でした。

テレビドラマ

瓔珞〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜 2018、中国
 演:方洋飛

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
 演:成年・安杰、胡先煦(少年)、荣梓杉(幼年)

物語中盤で誕生。第4皇子ですが、弘暦が皇帝に即位して最初に生まれた皇子です。最初は乾隆帝からは高く評価されていました。母親の金氏は野心を持っていました。第五皇子の永琪に危機感をもち、皇帝の関心をひこうとします。乾隆帝の信頼を失っていきます。やがて「成人した」という理由で乾隆帝から宮殿から出ていくように言われます。
史実と同じように、和碩履懿親王のあとを継ぎ、物語終盤で福增額の娘と結婚します。

結婚式には皇族も出席しますがすでに有力な次期皇帝候補とは思われなくなっていました。ドラマには同母弟の 永璇 と 永瑆 も登場。

瓔珞ではほとんど目立たなかった金氏の息子たちですが、如懿伝ではわりと出番が多いです。

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