李景隆(り けいりゅう)は洪武帝~永楽帝時代の明の重臣。
明朝建国に功績のあった李文忠の長男。
李景隆は若い頃から兵書が好きで知識はあるのですが、実践経験はありませんでした。
建文帝の即位後。燕王討伐軍の大将軍に任命されましたが、敗戦続きでした。最後は、首都・南京に迫った朱棣に降伏。永楽帝即位後は重臣担っていましたが、横暴な李景隆は他の群臣からは恨まれて弾劾を起こされ失脚してしまいます。
史実の李景隆 はどんな人物だったのか紹介します。
李景隆の史実
生年月日:不明
没年月日:1423年
名称:李 景隆(り けいりゅう)
国:明
爵位:曹国公
父:李文忠
母:岐陽王夫人
妻:
弟:李增枝
子供:朱済熿の妻
日本では室町時代になります。
李景隆の生涯
洪武帝の時代
生年は不明。
父は明建国に功績のあった武将・李文忠
子供時代の李景隆は兵書を読むのが好きで、故事をよく知っていました。身長が高く美形で、立ち振舞も優雅でした。朱元璋も注目していたといいます。
しかし父・李文忠が粛清され。洪武19年(1386年)に李 景隆が爵位を継承しました。
翌年。従軍して納哈出を攻撃しました。
その後、湖廣、陝西、河南で兵を訓練。西域と馬の貿易を行いました。さらに左軍都督府や太子太傅に任命されました。
建文帝時代の李景隆
洪武31年(1398年)。洪武帝が死去。建文帝が即位しました。
李景隆は建文帝からも信頼されていました。
建文帝は藩王を削減。
洪武31年(1398年)7月。李景隆は辺境の備えの名目で開封を経由、周王 朱橚の一家を南京に護送しました。
靖難之役で大将軍に任命される
建文元年(1399年)7月。燕王 朱棣が挙兵。靖難の変(靖難之役)が起こりました。
建文帝が派遣した耿炳文の軍13万人が燕王軍に敗れました。すると黄子澄は李景隆を大将軍に推薦。齊泰は強く反対しましたが、建文帝は耿炳文を解任して李景隆を大将軍に任命。
建文帝は自ら長江のほとりで李景隆の出陣を見送るほどの期待ぶりでした。
でも李景隆は実践経験がほとんどなく戦の知識も本で出たものばかり。態度も傲慢で多年配の武将たちは彼に不満を持っていました。
李景隆は徳州に来ると河間に進駐しました。
朱棣は朝廷が50万人の兵を李景隆に任せたことを聞くと喜び、燕軍が必ず勝利すると言いました。
そして李景隆の五つの敗因を挙げました:
・軍紀が明らかでなく、命令が行き渡らない。
・寒い北平では南方の兵は寒さに耐えられない、
・兵士は食糧を持たず、馬は飼料を持たず、地形の険しさを考慮せずに深入りする、
・計略がなく傲慢、見せかけの威厳だけで内心は怯えている、
・頑固で自分勝手、忠直の意見を聞かず、佞臣を喜ぶため部下の心が離れる、
北平攻めに失敗
建文元年(1399年)九月。江陰侯の呉高は遼東兵を率いて永平府を攻撃。朱棣は李景隆が躊躇している間に世子 朱高熾を北平の守りに残してた。永平府の救援に向かい、その後大寧に進んみました。
李景隆は朱棣が大寧に向かうと聞いて朱棣のいない北平を攻撃。都督 瞿能が張掖門を攻撃し、ほぼ攻め落としそうな勢いでしたが。李景隆は瞿能を妬んで大軍と同時に攻撃するよう命令して、瞿能の攻撃を中止させました。夜間の間に北平城は城郭に水をかけ寒さで城壁が氷結。翌朝、官軍は城壁を登ることができなくなったので、寒さで戦闘力が急激に低下。攻撃は失敗しました。
さらに朱棣が寧王たち援軍を従え戻ってくると、李景隆と鄭村壩で戦いました。しかし李景隆は敗北して全軍に軽装で撤退を命じました。この戦いで10万近い兵と物資を失い大きな損害が出ました。
建文2年(1400年)。朱棣が大同を攻撃。李景隆は救援に向かいましたが、大同を助けることは出来ませんでした。
その後も敗戦続き
建文2年(1400年)。李景隆は武定侯 郭英、安陸侯 呉傑とともに軍を二手に分けて北伐を行いました。
李景隆率いる官軍は白溝河(河北雄県境内)で燕軍と戦いました。このときは勝利目前でしたが、そのとき風が李景隆の帥旗を折り軍は大混乱に陥りました。
朱棣はその隙をとらえて李景隆の背後に回って火を放ち、官軍は大敗。李景隆たちは撤退。10万人以上の兵が降伏しました。
李景隆の役目は盛庸に取って代わられ、李景隆は都に戻りました。すると黄子澄が李景隆を処刑すべきと訴えましたが。建文帝は許可しません。
建文4年(1402年)。燕軍は長江を渡り建文帝は慌てました。このときも方孝孺は李景隆の処刑を訴えましたが。建文帝は許可しませんでした。
その後、
その後、李景隆と兵部尚書 茹瑺、都督 王佐は和睦の使者になりまいたが、和睦交渉は失敗。
燕軍に戦わずに降伏
燕軍が南京に迫りました。李景隆と谷王 朱橞は戦わずに金川門を開いて燕軍に降伏しました。この時、宮殿が火事になり建文帝の行方は不明になります。
こうして朱棣が皇帝に即位しました。
永楽帝時代の李景隆
永楽帝即位後も重臣気取り
永楽帝 朱棣が即位した後、李景隆は罰を受けることなく、奉天輔運推誠宣力武臣、特進光禄大夫、左柱国に封じられ、年俸を千石増加されました。
朝廷で重要な会議があるたびに李景隆は群臣の先頭に立ち議論を主宰しました。そのため永楽帝の即位に功績のあった臣下たちは不満をもちました。
群臣に恨まれて弾劾を起こされる
永楽2年(1404年)。周王 朱橚は李景隆が建文年間に府邸で賄賂を受け取ったことを暴露。刑部尚書鄭賜らも李景隆が怪しいものを雇い、よからぬことを企てていると弾劾しましたが、永楽帝は追及しませんでした。
その後、成国公 朱能、吏部尚書 蹇義と臣下たちが李景隆とその弟 李増枝の不正の証拠を集めて弾劾を起こしました。
永楽帝は李景隆の勲号を剥奪、朝見を停止。曹国長公主の祭祀を行うように命令しました。
その後も、礼部尚書 李至剛から「李景隆は家中で門番に跪いて名を通報させ、君臣の礼のようにしている。李増枝は多くの荘田を持ち数百の奴隷をもっている」と訴えました。
永楽帝は李景隆の爵位を剥奪。弟の李増枝や妻子ら数十人の家族と共に家に軟禁。家を没収しました。
李景隆は十日間断食しましたがすぐには死なずに永楽帝の治世は生き延びました。1423年ごろに死亡しました。
テレビドラマの李景隆
永楽帝 2022年、中国 演:韓承羽
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