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和平翁主(ファピョンオンジュ)の生涯と家系図:英祖が溺愛した娘の実話

和平翁主(ファピョンオンジュ) 4 李氏朝鮮の王女

和平翁主(ファピョンオンジュ)は李氏朝鮮王朝 22代国王 英祖の娘。

英祖が一番かわいがっていた娘です。その溺愛ぶりは大変なものでした。

弟の思悼世子との仲もよく、父と弟の仲を取り持つこともあったと言います。

ところが和平翁主は難産のため若くして亡くなってしまいました。

和平翁主の死後、英祖と思悼世子の仲は更に悪化したといいます。

史実の和平翁主はどのような生涯をおくったのか紹介します。

 

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和平翁主(ファピョンオンジュ)の史実

プロフィール

生没年

生年月日:1727年
没年月日:1748年

日本では江戸時代になります。

名前

姓:李
名:不明
称号:和平翁主(ファピョンオンジュ)

 

家族

父:英祖
母:暎嬪 李氏

妹:二翁主
妹:三翁主
妹:四翁主
妹:和協翁主
弟:思悼世子
妹:和緩翁主

和平翁主(ファピョンオンジュ)の家系図

和平翁主を含めた英祖の家族の家系図を紹介します。

家系図19代肅宗から22代正祖まで

和平翁主(ファピョンオンジュ)の生涯

1727年(英祖3年)4月27日。 和平翁主が誕生。

和平翁主は英祖の次女。

暎嬪 李氏にとっては長女でした。

1731年(英祖7年)1月。翁主が病気になったので英祖はすべての刑罰の執行を中止しました。

7月。和平翁主(ファピョンオンジュ)の称号が与えられました。

1735年(英祖11年)。英祖は和平翁主のために梨峴宮を修理させました。英祖は古い宮殿の松の木を切って使うよう命令しましたが、工事担当者が勝手に売って利益を得るできごとが発生しました。

和平翁主(ファピョンオンジュ)の結婚

1738年(英祖14年)。礼曹参判の朴師正の息子・錦城尉 朴明元(パク·ミョンウォン)と結婚しました。

和平翁主は普段から英祖の寵愛を受けていました。そうなると結婚式もさらに豪華になります。

和平翁主の婚礼を担当したのは淑寧翁主(孝宗の娘)の夫・朴弼成でした。その朴弼成は「英祖の長女 和順翁主の婚礼の時の物が粛寧翁主の時より10倍も豊かだったが、和平翁主の婚礼は和順翁主よりさらに豊かだ」と話しました。

英祖は和平翁主の夫・朴明元も大事にしました。

和平翁主は、婚礼が終わった後も夫の朴明元と一緒に宮殿の中で生活。

1742年(英祖18年)。宮殿を出て私邸で暮らし始めました。

英祖は梨峴の別宮を与えましたが、和平翁主は断りました。

和平翁主の最期

1748年(英祖24年)6月24日。和平翁主は難産のため亡くなりました。享年22歳。

生前の英祖は和平翁主を溺愛していました。その溺愛ぶりは死後も変わりません。むしろさらにエスカレートしました。

英祖は和平翁主の死を非常に悲しみ、食事も喉を通りませんでした。彼は一時的に朝政を休み景徳宮から昌徳宮に戻りました。

昌徳宮は和平翁主の邸宅に近にあり、英祖が翁主の葬儀を直接を監督するためでした。

朝鮮では王が殯殮(遺体の仮埋葬)をすることはなく臣下に任せるのが当たり前でした。ところが、英祖は王にもかかわらず、自ら殯殮(遺体の仮埋葬)の場にも赴きました。

葬儀の前。英祖は和平翁主の邸宅を訪れ、亡くなった愛娘を想い涙を流しました。和平翁主の葬儀は一等の礼で行われ、その豪華さは国葬に次ぐものでした。

英祖は愛娘の死後の安らかな眠りを願って、坡州にある尹家の代々の土地を強制的に購入。そこに和平翁主の墓を建てました。近隣の百戸以上の住居も立ち退かせ、坡州の馬山に彼女の陵墓を築きました。

和平翁主の死後。

英祖は溺愛する娘を失った悲しみから抜けられませんでした。長い間、喪失感に苦しみ、臣下に会うことも少なくなります。

何度も和平翁主の邸宅を訪れては過去を懐かしんでいました。

翌年(1749年)初めになっても、英祖はまだ悲しみから立ち直ることができません。さらに和平翁主の娘も難産で亡くなってしまいます。

他に子供もいなかったため、英祖は朴明源の甥・朴相喆に祭祀を行わせました。

 

思悼世子と和平翁主の実話

和平翁主は弟の思悼世子と仲良くしていました。

英祖は思悼世子に怒ることがよくありましたが、そのときには和平翁主が間に入って英祖をなだめて、二人の関係が悪くならないようにしていました。

恵慶宮 洪氏が書いた「恨中錄」には次のように書かれています。

和平翁主がご存命だった時には、弟(思悼世子)をかばい、事の成り行きに応じて父王にお諫めをして、絡まった事柄を解決することが多くありました。

しかし、翁主が亡くなられた後は、上(英祖)が度を過ぎた行動をされることがあっても、また慈愛が足りないことがあっても、『お忍びくださり、そのようなことはなさらないでください』と言える人がいなくなりました。

そのため、大王(英祖)の慈愛は次第に欠け、景慕宮(思悼世子)は日に日に恐れが募るばかりで、子としての道理を果たせなくなっていきました。

もし和平翁主がご存命だったならば、父子間に慈愛と孝行を保たせていたはずです。

徳の高い翁主が早くに亡くなられたことが、どうして国運に無関係だと言えるでしょうか?今でも思い出すと、悲しくてなりません。

恵慶宮 洪氏「恨中錄」 より

 

孫は和平翁主の生まれ変わり?

「恨中錄」には次のようなエピソードが書かれています。

和平翁主の3年の喪があけたころ。

思悼世子と恵嬪(恵慶宮)の間に息子の 琔(ジョン)が誕生。このとき恵嬪のお産を暎嬪李氏が手伝いました。

すると英祖は暎嬪李氏に「亡くなった娘は忘れて、孫が生まれたことだけを喜んでいるのか」と言ったといいます。

暎嬪李氏は孫の誕生(しかも息子の長男)を喜んでいたのでしょう。孫の誕生を喜ばない人はいないでしょう。

でも英祖は未だに和平翁主を失った悲しみを引きずって、孫の誕生も素直に喜べなかったようです。

ところが、琔の体に和平翁主と同じ位置にほくろがあるのを見て驚いたといわれます。

もしかすると英祖は和平翁主の生まれ変わりと思ったかもしれません。

しかし2歳で病死。「懿昭世孫(イソセジャ)」の称号が与えられました。

 

その後。英祖が溺愛したのは和緩翁主(ファワンオンジュ)でした。

 

和平翁主のテレビドラマ

大王の道 1998年、MBC 演:キム・ソンソン

 

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