スポンサーリンク

和緩(ファワン)翁主は思悼世子の迷惑行為に悩まされ正祖と対立した?

1.3 李氏朝鮮の王子・王女

和緩(ファワン)翁主は李氏朝鮮国王・英祖の娘です。英祖がとくに可愛がっていた娘だといわれます。

ドラマでは思悼世子を陥れたり、世孫(正祖:イ・サン)と対立する悪女として描かれています。しかし当時の記録を見るとむしろ思悼世子の行いに迷惑しているのは和緩翁主の方です。その感情が世孫と対立する原因になったようです。

史実の和緩(ファワン)翁主はどんな人物だったのか紹介します。

スポンサーリンク

和緩(ファワン)翁主の史実

いつの時代の人?

生年月日:1738年 3月9日
没年月日:1808年 5月

姓:李(イ)
名:不明
称号:和緩(ファワン)
父:英祖
母:暎嬪李氏
夫:鄭致達(チョン・チダル)

子供:娘(早世)。
養子:鄭厚謙(チョン・フギョム)

彼女が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の21代英祖~23代純祖の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

1738年(英祖14)。英祖と暎嬪李氏の間に生まれました。

母・暎嬪李氏は英祖がとくに寵愛した側室でした。暎嬪李氏は1男6女を生んでいます。

和緩(ファワン)翁主の同母兄には思悼世子がいます。

1749年(英祖25)。鄭致達と結婚しました。

このとき和緩翁主は12歳。鄭致達は18歳。

鄭致達は少論派の重臣・鄭羽良(チョン・オリャン)の息子です。鄭羽良は兵曹判書や吏曹判書などを務めました。1749年(英祖25)には右議政にもなっています。鄭羽良の弟・鄭翬良(チョン・フィリャン)は後に少論のトップになる人物です。

英祖は和緩翁主が嫁いだ後も何度も彼女の家を訪問しました。

英祖は鄭致達の兄に対しても便宜を計らいました。

1756年8月3日。長女を出産。

1757年1月。娘が死亡しました。1年にも満たない生涯でした。

1757年2月。夫の鄭致達が死亡します。このとき和緩翁主は20歳。

相次いで娘と夫に先立たれ和緩翁主は絶望的な想いだったでしょう。

悲しみに暮れる和緩翁主に追い打ちをかけるような出来事がおこります。

思悼世子との関わり

このころ。思悼世子(サドセジャ)は朴氷愛(パク・ピンエ)という宮女と親しくなっていました。

朴氷愛は粛宗の4番めの王妃・仁元王后(大妃)に仕えていた宮女です。

1757年5月。仁元大妃(イヌォンテビ)の死後。思悼世子は朴氷愛を側室にしました。しかし世子でも(法的な)祖母の宮女に手を出すのは許されません。

そこで思悼世子の妻・恵慶宮洪氏(ヘギョングンホンシ)は朴氷愛を密かに宮廷から連れ出し、和緩翁主の家に隠しました。思悼世子も和緩翁主の家に出入りするようになりました。和緩翁主の家は密会の場所に使われたのです。

恵慶宮洪氏は夫の暴力に怯えていました。和緩翁主はそんな彼女に協力しました。

しかし何者かが英祖に報告したため、朴氷愛の存在は英祖に知られてしまいます。もしかすると和緩翁主が英祖に報告させたのかもしれません。

1760年(英祖36)。思悼世子は温陽(ソウルの南にある温泉地)に行こうと考えました。そこで英祖の許可が出るように和緩翁主からお願いするように要求しました。このとき思悼世子は和緩翁主を従わなければ殺すと脅しました。

1761年(英祖37)。
1月。かつて和緩翁主が匿った朴氷愛が思悼世子に殺害されてしまいます。

4月。思悼世子は英祖に無断で平安道に向かいました。

恵慶宮洪氏の父・洪鳳漢(ホン・ボンハン)、和緩翁主の夫の叔父・鄭翬良(チョン・フィリャン)の協力で思悼世子の行動は英祖に知られないように行われました。

しかし貞純王后の兄・金亀柱(キム・グイジュ)に知られてしまいます。金亀柱は思悼世子を止めなかった洪鳳漢と鄭翬良を非難しました。しかし英祖は2人の罪を追求しませんでした。

1762年(英祖38)。英祖は思悼世子の廃位を決定。結果的に思悼世子は死亡します。

好きではないが従わざるを得なかった?

思悼世子とは同じ母から生まれた兄妹でした。しかし和緩翁主は精神を病んで暴力的になった思悼世子を怖がっていたようです。そのため和緩翁主は英祖に思悼世子の異常な行動を報告しました。

一方の思悼世子も父に溺愛されている和緩翁主を快く思っていなかったようです。そこで脅したり、和緩翁主の影響力を利用したりしたのでしょう。

また和緩翁主が思悼世子に協力したのは夫の実家が少論派で思悼世子を支持していたという事情もあります。

宮廷に戻った和緩翁主

時期は不明ですが。英祖は未亡人になった和緩翁主を王宮に戻しました。

和緩翁主は父に可愛がられているのをいいことに王宮内の様々なことに口出しするようになりました。実家に戻って偉そうにしている口うるさい小姑といったところでしょうか。

鄭厚謙(チョン・フギョム)を養子にする

1764年。夫・鄭致達の遠い親戚だった鄭厚謙(チョン・フギョム)を養子にしました。このとき鄭厚謙は16歳でした。鄭厚謙は若い頃から頭がよく弁舌が巧みでした。そのため英祖からも可愛がられました。

鄭厚謙は蔭位(科挙ではなく推薦で役人になること)で役人になり、和緩翁主の影響力もあり出世します。

鄭家は少論派でした。しかし鄭厚謙は洪麟漢などと親しくし老論の外戚勢力の一員として活動します。

世孫(イ・サン)と対立

鄭厚謙は世孫(正祖)やその支持派閥と対立します。

和緩翁主は兄・思悼世子には嫌な感情しかなかったでしょう。その息子の世孫を支持する気にはなれなかったでしょう。

たとえ夫の実家の少論が世孫の味方になったとしても、
和緩翁主にとっては「自分に迷惑をかけた思悼世子を許せないし、その息子も許せない」はず。
20歳までに子供や夫が死んでつらい時期だったのに、兄のわがままにふりまわされた恨みはあったはずです。ごく普通の感情ではないでしょうか。
鄭厚謙にはそんな和緩翁主の影響があるようです。

結果的に鄭厚謙は世孫とその支持派閥の争いに破れます。

1776年。英祖が死去。正祖が即位。

息子は死刑・自分は平民に落とされ流罪

正祖は政敵と父・思悼世子の死に関わった人物を粛清しました。

鄭厚謙は罪人として処刑されます。
当時の朝鮮の権力者らしく地位を乱用して蓄財に励むという罪もありました。弁解の余地はありません。

和緩翁主は身分を奪われ平民に降格。「鄭致達妻=鄭致達の妻」という王族にとっては屈辱的なよばれ方をします。流罪になります。

生贄にされた?

正祖にとって鄭厚謙は明らかな政敵なので処刑は仕方ありません。

しかし和緩翁主はむしろ思悼世子に協力させられていたのです。敵(かたき)とまではいえないはずです。王への告げ口が悪いというのなら、息子の死罪を要求した暎嬪李氏の地位を取り上げ庶民にすべきでしょう(孫を助けるための苦渋の決断でしたが)。重臣たちをあやつり思悼世子を追い詰めた貞純王后の罪のほうが重いはずです。しかし彼女たちは正祖にとって祖母にあたります。

儒教の価値観では罪をおかしても親や祖父母は処分できません。むしろかばうのが親孝行です。日本の道徳とはかなり違います。

結局、和緩翁主は一番処分しやすいから見せしめにされてしまった感じがします。

和緩翁主は江華島校洞に流刑になりました。
その後は陸地の京畿道坡州に移されました。

その過程で処刑を求める要求もありましたが正祖は却下します。

罪を許され王宮に戻る

1799年(正祖23)。正祖は和緩翁主の罪を許しました。
3月。和緩翁主は釈放され王宮に戻ってきます。

1800年。正祖が死去。純祖が即位します。
純祖の時代になっても和緩翁主の処分を求める弾劾は起こりました。しかし純祖は無視しました。

過去の問題を持ち出して蒸し返すのは、朝鮮の弾劾の多くが罪への正統派裁きではないからです。敵を陥れるための作戦でしかありません。王がその圧力にどこまで逆らえるか(あるいはそれをうまく利用するか)が力量が問われる場面になります。

結局、和緩翁主は1808年 5月に死去するまで王宮に住み続けました。

死後、鄭致達と同じ墓に葬られています。

和緩翁主は本当に悪女だったの?

ドラマでは思悼世子や世孫(正祖)に敵対する悪役として描かれています。

確かに世孫(正祖)に対しては良くない感情をもっていたでしょう。養子の鄭厚謙を使って世孫の即位を阻止しようとしたのかもしれません。

父の寵愛をいいことに好き放題したわがまま娘だったのでしょう。

人として好ましい人物だったとはいえません。

しかし少なくとも思悼世子との関係でいえば、和緩翁主はむしろ被害者です。和緩翁主本人が積極的に思悼世子をおとしいれた証拠はありません。英祖に思悼世子の行動を告げ口したのも「迷惑しているのでなんとかして欲しい」という思いからでしょう。

少なくとも貞純王后と結託して思悼世子を死に追いやったという評価は言い過ぎのようにも思います。

とはいえ。理由はともかく世孫とは対立したでしょうし、争いに負けたのですからこのような歴史の評価になっているのも仕方ないかもしれません。

テレビドラマ

王道 KBS 1991年〜 演:イ・ヒョチュン
大王の道 MBC 1998年 演:キム・ジヨン(子役:イジョンユン)
洪国栄 MBC 2001年 演:ユヒェリ
イ・サン MBC 2007年 演:ソン・ヒョナ

コメント