上官婉児は唐の時代に生きた女性政治家。
祖父は則天武后を廃そうとした上官儀。生まれたばかりで後宮の奴婢となりましたが則天武后に才能を認められ、宮廷政治の中枢へ。
武則天、中宗、韋皇后、そして太平公主ら重要な人物と関わり激動の時代を生き抜いた彼女の生涯は、権力と陰謀、そして女性としての葛藤に満ちていました。
才媛として、政治家として、そして一人の女性として、上官婉児はどのような人生を送ったのでようか。彼女の波乱に満ちた生涯を辿り、その魅力と悲劇に迫ります。
上官婉児の史実
プロフィール
姓:上官(じょうかん)
名:婉児(えんじ)
廟号:
生没年
生年月日:664年
没年月日:710年
日本では飛鳥時代末期になります。
家族
父:上官庭芝(天水郡公)
母:鄭氏(沛國夫人)
夫: 中宗 李顯
子:なし
祖父は則天武后を廃そうとした上官儀
祖父の上官儀(じょうかん ぎ)は高宗時代の宰相。則天武后の行動が目に余るので高宗から相談を受けた上官儀は、高宗の命令を受けて武后を廃そうとしました。
ところが武后に知られてしまい、上官儀と息子の上官庭芝は投獄、財産は没収。上官家の女たちは奴婢にされました。
婉児は生まれてすぐに後宮の奴婢にされる
上官庭芝の妻・鄭氏は生まれたばかりの上官婉児とともに掖庭宮(隋唐時代の後宮)に奴婢として送られました。
鄭氏は太常少卿 鄭休遠の姉。文学の教養がありました。婉児は母から教育を受け詩書を学び、詩を作りました。後宮にいたためか政治にも明るく、非常に賢かったといいます。
当時、掖庭宮には宮人たちに書や計算、芸術を教える博士が二人配置されていました。上官婉児が宮廷で彼らから教育を受けていたと考える説もあります。
則天武后に認められる
儀鳳2年(677年)。則天武后は上官婉児を呼び出してその場で試験を行いました。婉児は流暢に答え、文章をすぐに仕上げました。則天武后は婉児を非常に気に入って奴婢の身分から解放。勅命を受けるように命じました。
墓誌には「13歳で才人に任じられた」とあるので、武則天が婉児を奴婢から解放し才人に任命したのでしょう。
踊り・歌・文学などで後宮に仕えた女官のこと。下級の側室と言われることもありますが。実際には才人になっても皇帝に会えるのは稀。芸で皇帝を楽しませるのが主な仕事でした。
婉児は文学の才能が高かったので、則天武后お気に入りの才人になったのでしょう。
逆にいうと。自分を廃そうとした上官儀の孫でも関係ない、優れた者なら取り立てる。という則天武后の割り切り方や人材採用の考え方がわかるようです。
武則天の時代
天授元年(690年)。武后は中国史上初(そして唯一)の皇帝になりました(以下、武則天)。
上官婉児は武則天が出す詔勅の文章の多くを作成しました。
当時、彼女は「内舎人」と呼ばれ、政務に関与する立場にありました。
一度、武則天の命令に逆らったので黥刑(入れ墨の刑)を受けたことがあります。でもこれで武則天の信頼を失ったわけではありません。その後も武則天の信頼は揺るぎませんでした。
万歳通天元年(696年)か聖暦元年(698年)以降、上官婉児は多くの政務を処理する役目を与えられました。
上官婉児は政務を行う時は男装していました。
上官婉児の朝廷内での影響力は日に日に強まっていきました。
武三思は愛人
上官婉児は武則天の甥・武三思の愛人だったと言われます。
武三思には妻子がいるので不倫になるのですが。武則天の甥なので咎めるものはいなかったのでしょう。
中宗の時代
中宗に意見して政治的な影響力を発揮
神龍元年(705年)。宰相の張柬之たちが武則天に退位を迫り。武則天は譲位して中宗が即位しました。
上官婉児はその後も中宗に仕えました。上官婉児は九嬪のひとつ昭容(正二品)に任命されました。
上官婉児は昭容という側室の地位にあります。でも上官婉児はすでに42歳。中宗の側室になったのではなく、上級女官にふさわしい地位として正二品の昭容を与えられたようです。
上官婉児は中宗をサポート。政治への関わりをさらに強めます。中宗を何度も意見することがあったといいます。
上官婉児は中宗の韋皇后や安楽公主とも親しく交流しました。
親しくしていた武三思(武則天の親戚)を韋皇后に紹介。これによって武三思は司空に任命され、武氏一族は再び朝廷で力を持ちました。
婉児は中宗や韋皇后に服役制度を改正、服役期間を短縮。
親の死後に「出母」して喪に服す期間を3年とすることを提案しました。
それまでは父は死亡したときだけ3年の喪に服していたのですが。母が死亡したときも3年の喪に服するよう提案したのです。
改正前 改正後
父:3年 → 父:3年
母:1年 → 母:3年
その後、中宗に「応天」の尊号を与え、韋氏に「順天」の尊号を与えるよう進言。皇帝と皇后が共に政務を処理するようになりました。
これは武則天が皇帝になる前の高宗と武皇后によく似てます。
中宗の朝廷では武氏と韋氏の力が強くなりました。
皇太子の反乱の鎮圧に貢献
皇太子 李重俊は韋皇后の子ではなく、韋皇后とはあまり仲がよくありません。朝廷では武氏や韋氏の力が強くなり、さらには韋皇后の娘・安楽公主は皇太子の座を狙うようになりました。
皇太子 李重俊は焦ります。
景龍元年(707年)7月。皇太子 李重俊は魏元忠や李多祚らと共に武三思親子や安楽公主、上官婉児らを捕らえようと宮中に攻め込みました。
この時、中宗や韋皇后らは慌てましたが婉児は冷静に対処。「李重俊の計画はまず上官婉児を殺すこと」だと中宗に伝え、玄武門を守るよう提案しました。
李重俊が攻め込み、玄武門で激しい戦いが行われました。この戦いで武三思親子は戦死。李重俊の側も配下の者が多く戦死。
李重俊は玄武門から中に入ることができず逃走。中宗の命令で出動した軍によって捕らえられ李重俊は処刑されました。
その後。婉児の祖父 上官儀は中宗によって名誉が回復。上官儀は中書令、秦州都督、楚国公に追贈され、父・上官庭芝も黄門侍郎、岐州刺史、天水郡公に追贈されました。
墓誌で新発見「皇太女問題」を阻止
従来、上官婉児は常に韋皇后や安楽公主の味方だと思われていました。
2013年に発見された上官婉児の墓の墓誌には歴史書にはない内容が書かれていました。
中宗と韋皇后の娘・安楽公主は皇太女(皇太子)の座を狙っていました。父や母に頼み込んで皇太子になろうとしたことがあります。
中宗も安楽公主は皇太女にすることを認めました。
すると上官婉児は安楽公主を皇太女にしないよう説得。4回も説得しましたが、中宗は安楽公主を皇太女にする意思は変わりません。
上官婉児は毒を飲み自害しようとしました。幸いにも発見されて太医の治療をうけて上官婉児は命をとりとめました。
その後、上官婉児は身分の降格を何度も申し出て中宗はやむを得ず彼女を婕妤に降格させました。そして安楽公主を皇太女にするのも諦めます。
歴史書では安楽公主の皇太女阻止は魏元忠の働き書けだとされていますが。上官婉児も皇太女阻止のため動いていたことが分かりました。
上官婉児の最期
政変で死亡
景雲元年(710年)。中宗が急死。
韋皇后が安楽公主とともに中宗を毒殺したのだといいます。韋皇后は温王 李重茂を新しい皇帝(殤帝)にしました。韋皇后は武則天を真似て自分が皇帝になろうとしたのです。
すると李重俊(後の玄宗皇帝)が挙兵。韋皇后、安楽公主を捕らえて処刑。殤帝を廃して、かつて武則天に廃されていた睿宗を皇帝にしました。
この混乱の中で上官婉児も命を落としてしまいます。
なぜ上官婉児は殺された?
上官婉児は韋皇后・安楽公主の仲間ではなく中宗に忠実に仕えていました。
ではなぜ李重俊は上官婉児を殺害したのでしょうか?
李重俊は女性の政治参加には反対でした。上官婉児は武則天に仕え、中宗にも影響力を持つ人物でした。太平公主とも親しいです。
この際に上官婉児を殺害したようです。
上官婉児の死後。立派な墓が造られました。その墓を建てたのは上官婉児と親しかった太平公主と言われます。
上官婉児は一人で埋葬され。生前の様々な功績が刻まれた石の墓誌も作られました。その墓誌には上官婉児が女性の政治家として活動した内容が描かれています。
しかし。その墓は後に破壊されました。
墓を壊したのは玄宗皇帝だと言われています。
まとめ
テレビドラマ
大唐文宗 2014年、中国 演:李芯逸
上官婉児 2014年、中国 演:侯梦瑶
風起洛陽 2021年、中国 演:劉夢珂 役名:楊煥
コメント